戦争によって日常が浸食されていく、『この世界の片隅に』や、望まないまま戦場に送られた兵士を描いた『永遠の0』など、戦争を描いた作品は数知れず。古今東西戦争をテーマにしたフィクションは数あれど、その中でもマイノリティ中のマイノリティを主人公にした小説『笹まくら』を読んだ。
丸谷才一による、1966年初版のふっるーい作品。小説の主人公となるのは、徴兵を忌避し、戦時中は旅人となって各地を旅して回ることで、官憲(何だかなぁと思う言葉だけど、他に適切な言葉も思いつかないのでとりあえず)の目から逃れた青年。
戦争をテーマにした作品は数あれど、なぜ戦わなかった“徴兵忌避者”はマイノリティ中のマイノリティのままで、現在でもヒーローになり得ないのか。英雄になり損ねた青年の主張は、“戦わない者がヒーローになっては困る大人の事情”を完璧に看破していた。
(アメリカ産のあん肝。そんなにお高くない、むしろチープ)
徴兵忌避者なのに、モテる男
物語の始まりは、戦後20年経ったとある私立大学から始まる。大学で、教員ではなく職員として働くおじさん、やや窓際ポストの浜田庄吉が主人公。やや窓際ポストながら、職務には精通していて、真面目で勤勉。上司により引き合わされた、若くてカワイイ奥さん持ちで子なし。夫婦仲もたいへんよろしく、艶っぽいお布団の中のシーン多し。
風采の上がらないキャラなのに、インテリ教員ウケも良ければ、なぜか女性にも妙に好かれている。なぜだ。
なぜ?と思う彼のルーツを探っていくと、東京の医者の息子として不自由なく育ち、なのに徴兵忌避者として全国を放浪した過去に突き当たる。
インテリで決して下品な人ではないのにワイルドなのは、そのせい。人目を忍ぶ必要があったから観察眼が発達し、相手が望む行為を見抜くのも上手で、いざという時の行動力もある。そりゃモテますわ。
好き嫌いの別れそうな文体が、かえってクセになる
小説は独特の文体で書かれていて、目が慣れるまではちょっと苦労する。
誰かからもらったお土産や何かをきっかけに、過去にその地を旅したことを思い出すことは、きっと誰にでもある。『笹まくら』では、大学職員浜田庄吉の物語が、突然、徴兵忌避者杉浦健次の物語に切り替わる。章ごとといったわかりやすい形ではなく、いきなり次の行から、話が飛ぶ。
視聴者に断りもなくポンポン画面が飛ぶのは、映像表現ではよくあること。シーンが切り替わる前にいちいち、「はい!ここから過去の逃亡シーンに飛びまーす!」なんてやらないのと一緒。映像表現では当たり前のことを、文芸、文字の芸でも再現してるだけと思えば、違和感もそのうちなくなる。
徴兵忌避者となった杉浦健次は、官立高等工業卒というバックボーンを生かし、ラジオや時計の修理をして生計を立てながら、全国を放浪する。そのうちそれでは食い詰めるようになり、「砂絵師」という子供相手の露天商にジョブチェンジする。砂絵と言われてもピンとこないけど、サンドアートと思えば多分間違いない。
道端で子供が喜びそうな絵を書いてやり、砂絵セットを売りつけるお仕事。娯楽の少ない時代だからこそできた、おショーバイって感じ。
砂絵師として放浪していた杉浦健次は、阿貴子というバツイチ女性と知り合い、行動をともにするようになる。戦況の悪化とともに砂絵師の商売も危うくなると、阿貴子の実家に内縁の夫のような立場で転がり込む。
徴兵された健次と同じような青年たちが、古参による新人いじめや、飢餓やあるいは戦傷で心身ともに傷ついていたのに、逃亡者である健次は、陰惨な暴力とも深刻な飢えにも悩まされた気配なし。
勇敢とは言えないまでも、とにもかくにも戦場に立つことで、同胞が大いに傷ついていた頃、健次は女性とイチャイチャしてた。
イチャイチャ以外、することなかったのか?というくらい、女性とたいへん仲睦まじかった記憶が濃厚で、同胞から妬まれること必至。飢餓で苦しんだ気配もまったくなさげで、戦時下の同胞と共有できそうな共通体験も、まったくなさげ。
戦後20年経ってもその溝は埋まることなく、ふとしたきっかけで明るみになった健次時代の徴兵忌避という過去は、戦後も浜田庄吉の生活を支配する。悪い方へ。
(アボカドのオーブン焼き。チーズとの相性ばっちりで美味しい♡)
喪失体験は、必ずしも成長に寄与するとは限らない
浜田の徴兵忌避者という過去は、平和な大学組織の中でおもちゃにされる。面白おかしいネタとなって噂の的となったり、学生新聞や出世競争の具にされたりと、ここぞとばかりに足を引っ張られてしまう。彼の大学でのキャリアが台無しになるほどに。
浜田のキャリアを台無しにする人たちは、だいたいが戦争体験者。喪失体験は人間を成長させるエンジンとなるはずだけど、飢えや娯楽の欠如といった共通の喪失体験は、戦争を経験した人たちの人的成長にはまったくカンケーなかった。
国と国との戦いに明け暮れた後は、誰が出世するかの競争に明け暮れていて、どこまでいっても競争大好きで、戦いが大好きなんだ。バカじゃないの。
浜田を援護するのはやっぱりインテリ教員で、彼らインテリは、教養もなく人権意識に乏しい人間が権力を握った時、いかに横暴になるか、戦争を通じて体感してる層。古参による新人いじめという軍隊の悪習は、戦場に行かなくてもわかるものだから、徴兵忌避者として逃げ切った浜田に敬意を持っている。
逃げられるものなら、誰だって逃げたかった。でも、逃げられない人がほとんどだった。
難事業を成し遂げた人は普通は称賛されるもので、戦後すぐの頃は、浜田も誇らしげに「徴兵忌避」と履歴書に書き込んでいた。20年も立つとすっかり風向きが変わり、徴兵忌避者は、マイノリティとして蔑まれることとなる。なぜだ。
(牛肉とトマトを甘辛く煮て、シソと絡めた混ぜご飯。簡単だけど見栄えもする、ごちそうっぽいレシピ)
時代の空気、あるいは風向きは簡単に変わる
浜田あるいは健次は、決して熱血漢というキャラじゃない。医者の息子というインテリなので熱くなることは少なく、総じて理詰め。理詰めで、徴兵忌避という道を選んだ。
“国家というものは無目的なものだ”
“元来、無目的なものだから、維持してゆくことが非常にむずかしい。内的な緊張……党派の争いとかが起こりやすい。それを処理するためには、外的な緊張という手段しかない……”
“挙国一致内閣を作るために戦争を起す。あるいは戦争が始まりそうな気運にする……”“結局、堺の言うとおり、国家が悪いんだということになっちゃったね。資本家でも、政治家でもなく、国家という、まるでお化けみたいなもののせいで、ぼくたちは兵隊になって……”
(『笹まくら』本文より引用)
そこまで見抜いていたのに、どうして戦後は「組織の兵隊」となったのか。
私立大学とはいえ、そこは組織。組織の兵隊となってしまったら、やっぱり何らかの戦場に立たされる。
組織の兵隊だから、浜田には若くてカワイイ妻があてがわれ、卒業生ではない傍流とはいえ、理事という権力者から目をかけてもらえた。浜田が組織の兵隊らしく、組織のために戦ってさえいれば、徴兵忌避者という過去にも関わらず、浜田の将来も安泰だったかもしれない。
権力者の庇護も若くてカワイイ妻も、いざという時の保険で、浜田が2度目の徴兵忌避を行った時、組織のために戦わなかった時、すべては逆回転する。
浜田は、健次として放浪していた時の阿貴子との逃避行を、何度も回想する。回想シーンはいつも素晴らしく美しく描写されていて、二度と戻らない日々だから、ことさら美化される。
浜田が大学のために戦わず、二度目の徴兵忌避を行ったとしても、そこにはもう阿貴子と一緒の逃避行という甘美なオプションはついてこない。
阿貴子は、終戦を迎えた時自らの意思で金持ちの後妻になることを決め、健次との仲を清算する。老いた阿貴子の母の望みでもあったとはいえ、徴兵忌避者ではなくなった健次には、もう庇護欲がわかなくなったんじゃなかろうか。
東京の医者の息子である健次が浜田に戻れば、生活を保障してくれる「太い実家」もあれば、実家の縁故で安定した職も探せる。事実健次は浜田の家に戻ったあとは、実家の伝手で大学職員の職を得ている。
徴兵忌避者として逃亡している健次には、阿貴子しかいない。阿貴子は健次のすべてを独り占めできるけれど、健次が「太い実家」との縁を取り戻せば、もう「阿貴子だけの健次」ではなくなる。
自分だけを見てくれる相手を望んでいればこそ盛り上がる愛情というものがありまして、阿貴子、そのタイプだったかも。終戦とともに運命の恋が終われば、あとは現世利益を追求して、金持ちの後妻を選ぶ彼女の行動も納得できる。
そして若くてカワイイ浜田の妻は、実は手癖の悪いいわくつきの女で、いわくつきだから浜田にあてがわれたと考えることもできる、鬱展開が待っていた。太い実家に戻ったからといって、ハッピーエンドははるかに遠い。なぜだ。
(ブッシュドノエル型のチョコ。美味しゅうございました)
徴兵忌避者というマイノリティは、なぜ何度も試練を味わうのか
『笹まくら』では、レールを一旦外れた者には、とことん冷たい日本社会が描かれる。レールを外れた浜田は、戦後とはいえレールに戻るべきではなかったんだ。
戦後から20年しか経ってないのに、徴兵忌避者という戦後の勇者は、日本社会が国として、組織として形を整えるのと歩調を合わせ、臆病者という評価に変わってしまう。
戦場のように異性にも食べ物にも飢えることなく、精神的にも追い詰められずに自分の時間を過ごせる。自分が生き残るために、誰かを蹴落とすこともない。自らの力で生計を立て、自分で自分を豊かにしている健次の生き方の方が、どう考えても豊かに思えてくるのは、戦後の豊かさを存分に享受しているからこその感想なんだ。
時代に先んじて個人としての幸せを追求できたのも、浜田が裕福だったから。豊かなものは、戦場の最前線に望んで立ったりしないのは、世界の常識。
浜田は、旧友の縁で新しい職場に移れるかもしれないし、どうにもならないかもしれない。
若くてカワイイ妻が実は手癖の悪いいわくつきの女であると知って、呆然とするところで浜田の出番は終わる。その次に現われるのは、浜田が健次となって徴兵忌避者として旅立つシーンで、物語はそこで終る。
浜田は浜田として、またレールに戻るのか。それとも健次となって、ふたたびレールを外れた道を行くのか。その先は、読者の想像に委ねられている。
浜田はすでに40歳を過ぎ、もう健次のように若くはない。戦後の混沌した時代に健次の生き方、自らの力で生計を立て、自分で自分を豊かにする生き方を選んでいれば、また違った人生もあったものを。彼はみすみすレールに戻ってしまった。
もともとがインテリの知識階級層生まれで、生まれ育った階級の呪縛を乗り越えられなかったからと見ることもできる。
阿貴子と結婚していれば、階級の呪縛を越えて、まったく違う人生を送ることもできたかもしれないけれど、浜田が太い実家を頼った時点で阿貴子との仲は終わっている。
(チョコが入っていた箱、キラキラで取っておきたいほどキレイなんだ)
笹まくらの時代は、遠くになりにけり
『笹まくら』の時代は、レールを一旦外れた者にはとことん冷たく、年齢が壁となった時代。その苦さに心底苦しめられた人たちが次に夢見るのは、レールを外れたことも年齢も問題としない世界だったんじゃないかな。
今の時代、もっとも強くて自由なのは、国や企業という組織を必要としない人。ピンで立って、自分で自分を豊かにしてる人は、所属する国や組織を自ら選ぶことができる。
傑出した才能持ちのスペシャリストは、集団を必要としないんだ。
国も組織もカンケーなく、どこにでも行ける、世界中どこでも生きていける日本人も増えて、本当に『笹まくら』の時代も遠くになりにけり。
レールを外れても生きていけるレールを敷いた人、敷こうとする人が築く新しい世界は、きっと旅先でのかりそめの恋に運命を委ねるような、脆いものじゃないはず。戦いは本来成長の源泉で、成長を望むものが起こすもの。成長しないもの、現状維持を望むものが起こしたところで、どうにもならない。
作品の発表から半世紀経って、日本も日本社会も、成熟したことをつくづく感じられた。地方都市に埋没していたら見えない景色や、考えないことがいっぱいで面白かった。フィクションがきっかけで、戦争が身近だった頃の日本に興味をもった人にもおススメ。
お休みなさーい。