クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

透明なほど、新しい

公の場で、パブリックスピーカーが決して口にできないもののひとつに、進歩のためには犠牲やむなしという考え方があるけれど。犠牲が出るたびに進歩から遠去かり、暗黒時代に逆戻りしてたら一体何のための犠牲だかわかりゃしない。

 

影が濃くなるほどに、輝きを増すのは光。

 

光と影に例えれば、何かをより明るく輝かせるためにはより一層暗い影が必要という、ことば遊び的な考え方もできる。影が濃いと、ただのなんでもない人でもヒーローやヒロインあるいは絶対王者として簡単に光り輝ける。何しろ舞台は出来上がっているんだから。

 

舞台は整っているのでさぁどうぞ。影は用意済みなんで、いつでも存分に光り輝いて下さいというオファーを受ける人は、決して光にはなれない。単に腹黒なだけだから。

 

ワインと演劇の神様がバッカスで、なぜその二者が結びつくのかイマイチ謎。謎ながら、学芸会のお遊戯、あるいは田舎芝居につき合おうと思ったら、酒でも飲まなきゃなってられない。と思えば、一見無関係な二者が結び付くのも不思議でも何でもなくなる。

 

日本の神話よりも、ギリシャローマ神話やあるいは北欧神話により親しんできたのは、どう考えてもそういう時代に生まれ育ったから。

 

神話の中の神様は、いがみ合ったり見栄を張り合ったり、時々人さらいに及んだり。その辺の人間とちっとも変わらず、人間臭く描かれていた。とてつもなく人間臭いのに、何しろ神様だから超人的で、時には自然をも操って人間社会にカミナリその他を落とすからおっかない。

 

神様だって、間違える。

 

労働とは無縁で好き勝手に振る舞い、気前よく運をもたらしたり時には害悪となるけれど、神様だから人間にはどうすることもできない。という神様のありようを、神話というフィクションに託し、現実世界では手出しができないあるいはできなかった人間界の神様も、ついでにこき下ろしてたかも。

 

神様にとんでもない迷惑をかけられたけど、どうすることもできなかった腹いせみたいな文脈と、これからは西洋社会をより深く理解しなければという文脈と時代の雰囲気が、融け合っての西洋文明礼賛だったのかも。

 

古い本、といってもせいぜい戦後の今では忘れられているような本を手に取ると、時代を経たからよりあからさまな、偏向っぷりがよくわかる。

 

偏向してるけど、それなりに売れたはずのもの。

 

書評で見掛けたから買った、あるいは店頭の目立つ場所に置いてあったから買ったものだから。つまり、今よりもはるかにメディアの市場支配力が強かった時代に、誰もが知るメディアのふるいを経て手に入れた。いちユーザーの興味関心に合わせてパーソナライズされたリコメンドから買う、ネットで買ったものじゃない。

 

偏向した個人の好みを反映しているものじゃなかったら、オススメできる立場にあったメディアの中がすでに偏向してた。

 

現在地点から見ると偏向してるんだけど、偏向してる人にも書く場所が、それも現在に比べるとはるかに大きな書く場所が与えられていたのは確か。古い本は中身そのものよりも、なぜ存在できたのかや、どういう位置づけだったのかという来歴みたいなものを知るいいテキストで、そっちの方が今となっては興味深い。

 

どんなものであっても、いったん定位置におさまると既得権益になり得る。

 

既得権益になってしまったら、既得権益に沿うような“イロ“がついたものが好まれ、既得権益を絶やさないために、”イロ“つきの偏向したものが生まれ続ける。

 

どれほどきれいにお掃除したところで、古いものは澱んでくる。すぐに澱んでくる古い器を捨てて、お掃除がしやすい新しい器に向かうのはだから、偏向を厭う態度のはずなんだけど。

 

新しくなったのか、古いままなのか。

 

わかりにくい器よりも、透明性が確保された器の方が重宝されるのは、どう考えても自然さ。

 

偏向した人が自身の偏向を隠さず、興味関心のある分野について詳細に書いた。誰もが知る(あるいは知っていた)大手メディアから出された、古い本を読み返した時に今思うのは、原稿料、あるいは印税はちゃんと支払われていたの???ということ。

 

書く場所あげたでしょ、と承認欲求分は差し引かれていても満足だったのか。満足できなかった、あるいは満足できなくなったから別の錬金術を編み出して、お金にならないはずのものをお金に換えるようになったのか。お金の話は、何よりも生々しく何も語らない(or語れない)人の内面も映し出すと思うの。

繰り返し

敗戦のあとは、日本的なもののことごとくを毛嫌いするようになった。という遠いようで近い過去をよく知る人は、その知識を次の機会に生かすと思う。

 

大して代わり映えする景色でもないのに毎年カメラを向けるのは、もう習慣になっているから。今年も変わらずきれいねーと確認することで、安心してる。周辺のことごとくが変わってしまっても、ここはあんまり変わんないわという景色は、安定の象徴のようなものだから安心感もひとしお。

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よく見れば、ちょっとづつ変わってはいるんだけどさ。

 

例えば視界いっぱいに広がるお花畑を見た時。いちめんのなのはないちめんのなのはないちめんのなのはな以下略と、きれいと思った瞬間をことばに閉じ込める代わりに、スマホやカメラがあればこと足りる。

 

きれいと思った瞬間をとらえる作業は、ことばからカメラやスマホに取って代わり、取って代わったから、きれいな景色の前ではことばは添え物でキャッチコピー。

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下から見ても、きれいはきれい。

標準的なポップスが大体3~4分くらいだとしたら、3~4分間ずっと、ただ景色の美しさだけを歌い上げるのは大変で、大変だから間が持たない。間が持たないから、景色の美しさを歌い上げつつ、別れや出会いといった誰もが心当たりのある感情も一緒に歌い上げて、ようやく3~4分くらいの長さをキープできるかどうか。

 

標準的なアルバムには大体10曲前後の曲が入っている。10曲全部がただ感情を歌い上げたものになりがちで、聞いてる方としてはわりとうんざり。感情より景色を歌い上げる方がより難しく、難しいから感情を歌い上げる方に偏っているんだと思ってる。

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作ってる側の人たちは、だからことばにはできずならないものがあるということに、最初っから自覚的に違いない。

 

ただ景色の美しさ、自然の美しさだけを延々と朗々とことばにしたジャンルはすでにあるけどさ。あれをメロディーにのせて、現代人の耳にも心地よい曲に仕上げるのはどう考えても感情を歌い上げるより高度。高度だから、高度なことは高度なことが得意な人が挑むようになっている。

 

アラきれいと思ったら、俳句や短歌といったことばに閉じ込める代わりにスマホやカメラを向ける。よりきれいな景色を撮ろうとテクニックを磨くことは、ことばを磨く作業と相似形で、昔も今もやってることは結局そんなに変わってない。

 

きれいと思った瞬間を閉じ込めわがものにしようとする行為は、普遍的。

 

渾身の一枚で、きれいと思った瞬間を永遠に閉じ込めることにせっかく成功したのに、動画になったら永遠も台無し。せっかく永遠に閉じ込めた瞬間も、動画になればまた再び動き出す。

 

ふたたび動き出して流れ始め、止まらなかったら再びことばの出番で、一瞬を切り出すよりも多くのことばが必要になり、キャッチコピーより長くなる。仕事が減ったら困る人は、そうやって仕事を作っていくものだと思ってる。

 

きれいな景色には、自然と人が群がってくるから、人が群がるほどきれいな景色を見ようと思った時、邪魔になるのは人。きれいな景色だけをピュアに楽しみたい人は、だから一歩引いて、ただ景色だけを眺められる場所を探す。

 

ある時期ある場所で、局所的に集客や売り上げが伸びる特異点を探している人は、特異点を探してきれいな景色にたどり着く。

 

たどり着いた理由が全く異なる二者は対立しがち。だけどナショナルトラスト的に、ただきれいな景色だけをピュアに楽しめる領域を広げようとした時、互いにいいとこどりしてると世間的にはいいコンビと見做される。

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きれいと思った瞬間を閉じ込めわがものにしようとする行為は普遍的で、普遍的だから永遠に食いっぱぐれがない。永遠に、ツールの進化が繰り返される。

黄色か、赤か。

北海道の秋は、黄色か赤か。

 

日当たりのいい樹ほど、赤く染まってる。人の手で、人為的に均等に日が当たるように配置された場所では、ほどよく赤く色づいた樹も見掛けるものだから、北海道の秋もやっぱり赤いものだと錯覚しがち。

 

ところで春になればアレルギー源となるほど北海道ではよく見掛けるシラカバは、秋になると黄色く色づく。シラカバの仲間も黄色くなるから、原初の自然の姿を留めた場所ほど黄色が勝り、赤く色づく樹はたまにしか見掛けない。

 

全体に黄色っぽく、赤ポチポチ。

 

植生が違うから、山全体が赤く染まるような紅葉は、北海道固有のものじゃない。ような気がするけど、古老の意見は聞いてないし参考にもしてないので真偽は知らね。300年や400年、あるいは千年続いた土地で昔っから伝わってる話なら参考にもなるんだけどさ。150年ぽっちの歴史しか持たないと、容易にひっくり返される。

 

秋イコールもみじで赤いのは、古来から観賞用にもみじが植えられてきたような場所で、古都とか古都とか古都。古都で生まれた秋の景色は言ってみれば模範解答だから、模範解答を真似た景色が、人の手で改良し放題、人為的にいじり放題の各地に根付き、根付いてオリジナルである原初の景色を脅かすことになるのかも。

 

原初から人の手が入っていた、人為的な改良もしくは改悪が加えられてきた地では、新たに人為的な改良もしくは改悪を加えることにも抵抗が薄くなる。

 

テッテケテーと走り回る、リスを餌付けでもしようとしたものか。あら、こんなところに大量のヒマワリの種と、現在進行形の人為の痕跡は、原初から人の手が入っていたような場所で顕著。

 

民間信仰は、チートと背中合わせ。

 

効果倍増どころか、一度で千や万の効果を喧伝して拡散すると、チートに肯定的な善男善女が勝手に集ってくる。チートを許さないのは正統派で、正しい形で受け継いでいくものを既に持ってる方。

 

持ってない方は正しく受け継いでいくようなものは何も持ってないから、持ってる方に寄っていく。集ったものの、正しく受け継いでいくものは何も持たず、すぐバラバラになるから求心力をキープする格好の口実として、正統が頼りにされる。

 

頼りにするけれど、正統がすでにボロボロだとあっちもこっちも簡単に新しいものにすげ替え可能で、足蹴にするのも簡単。足蹴もすげ替えも許容したくなかったら、最初から正統とは相容れないものは、取り込まないに限る。

 

黄色でも赤でも、きれいなものはただきれい。

 

きれいなものを見てもきれいとは感じられず、美味しいものを食べても美味しいとも感じられなくなると、対象をメッタ切りすることにも躊躇がなくなる。躊躇なくメッタ切りするのは道具として使い倒すつもりだからで、そこに愛情なんかあるわけない。

 

愛の鞭なんて、嘘っぱち。

 

鞭打ったところで、良心が痛むはずもない、むしろ鞭打つことそのものが喜びに繋がる相手を選んで鞭打ってる。そういう景色は薄ら寒くてウザいだけだから、とどまることなく流れて行く。

 

きれいな景色や知識の集積といったものは、とどまることなく流れて行ってしまっては困るもの。流されても無問題なのは、怖くてウザくて暗い、情念とか怨念さ。

百年経ったら、みんな忘れる

礼砲が轟き、歴史的装束姿の御前での万歳三唱。

 

明治も大正も昭和も平成も遠くなった後世で、その時の写真や動画を見せて「ではこれは一体いつの時代の出来事でしょうか?」と聞いてみたら、間違って明治や昭和と答える人が続出するかも。

 

百年経ってもその顔を覚えてもらえる人なんて、ほんのひと握り。

 

ほんのひと握りで、その気になったらすり替えられる可能性だってある。すり替えられてもそれと気付く人が増えるように、「顔が名刺」なんだったら可能な限り露出の機会を増やすに限るやね。

 

例えばグループで活動してたような人。そのうちの一人や二人が、“大人の事情“で顔や名前を変えられてしまっても、往時を鮮明に覚えている人も間違いを間違いだと指摘できる人も少なくなれば、やってやれないこともない。

 

やだおじいちゃん、おばあちゃんったらボケちゃって。年取ったら人の顔なんて変わるものよ、と相手にされないのがオチで、アレ俺詐欺やオレオレ詐欺の未来の姿かも。

 

「顔が名刺」といっても、その人をその人足らしめているものが顔以外にも豊富にあったら、名刺代わりの顔に過剰に頼り過ぎることもないんだけどさ。顔以外にも豊富にある、その人をその人足らしめているものを、片っ端から奪われていった時に、さてどうやって存在証明すればいいんですかね???と考え始めるとディストピア

 

ディストピアを想像できる人にしか、ディストピアは防げない。

 

ディストピアを想像した時の対抗手段が、人海戦術かと思うとアナログでちょっとゲンナリ。とはいってもそんなアナログなものを繋いだのは一体何さと考えると、ディストピアを想像できる人たちの居場所にも見当がつくってもの。

 

悪い未来を常に予想して、想定し得る限り最悪の事態に備え、そのための予算を分捕ってくるのが得意なのも誰かとついでに合わせて考えたら、該当する対象も限られてくる。人海戦術は、人件費が高くつくようになると続かない。続けようとすれば動員対象の質が下がり、質が下がったまま続ける人海戦術は効果が薄いから、やっても意味がない。費用が嵩むだけ。

 

最初から金満漬け、お金ザックザクの状態に慣らされ予算獲得の苦労も知らなかったら、そのうち行き詰って資金ショートの未来が待っている。

 

最初から資金ショートの恐怖と背中合わせで鍛えられてきた、待つことがちっとも苦ではない待てる人は、その時を果報が転がり込んでくるのを、本当にただ寝ながら待ってるだけかもね。

思考実験

冬が来る前にせっせと餌を蓄え冬眠する動物に、冬眠せずに通年で活動して餌を取るよう促しても、意味がない。

 

生存戦略が異なる種に、「みんな一緒」で一律の行動を促しても無理無駄無用。なのに無理無駄無用なことに熱心なのは、無理無駄無用の領域を増やしたいからで、効率追求に逆行する態度。

 

無駄を排したスタイリッシュなデザインは、時として無機質で冷たく見える。冷たく見えるのは、無理無駄無用なものを排して美学を追求しているからで、美学を追求するからスタイリッシュになってシンプルになる。

 

後からあれもこれもと足していくと、ゴテゴテになってスタイリッシュなスタイルも台無しで、美学も台無し。

 

税金の使い道に、後から文句やケチをつけるくらいなら最初から払わない。という姿勢もある種の美学で、文句やケチをつけるという無駄口を省いている。無駄口を削る代わりに美学を追求して極めると、まったく税金を払わなくても済むというシンプルな姿にたどり着く。

 

そこに美学を見出してしまったら、シンプルでスタイリッシュなものに惹かれる人は、勝手に見出した美学を追求し、シンプルでスタイリッシュを追求する冷たくて無機質なものになっていく。

 

美学を追求するもしないも生存戦略の違いで、生存戦略が異なる種に対して関心の薄いものに対する冷たさや、逆に関心があるものに対する熱さを詰ったところでやっぱり無理無駄無用で、意味がない。

 

リテラシーがそれなりに高く均一だった時には、モラルや道徳を読み書き可能なものに潜ませて、広く薄く世の中をモラルや道徳で覆うこともできたけど、今は無理。読み書きするものが異なり過ぎて隔たり過ぎると、それなりに高いリテラシーを均一やあるいは高いレベルでキープすることも無理。

 

モラルや道徳が、これ見よがしだと毛嫌いする。

 

そういう層にまでモラルや道徳が届くようにと考えれば、もっとも効率がいいのはモラルや道徳がステルス化すること。無理も無駄も無用なものも無駄口も嫌う、効率をもっとも好む人はそんなのとっくに実装していて、あとはモラルや道徳がステルス化された場所やモノを見つけられるかどうかだけ。

 

モラルや道徳を、これ見よがしではなくすでに体現していると、モラルや道徳をこれ見よがしに、あるいは旗印にして、チャリンチャリンと日銭が入ってくるお財布にしたいだけ勢に目をつけられがち悪用されがち。

 

これ見よがしのモラルや道徳を毛嫌いする人のなかには、悪用され食い物にされたモラルや道徳を体現した紳士淑女リストがインプットされているのかも。と、想像した時、次に悪用して食い物にしてもまったく良心が痛まないのは、これ見よがしにモラルや道徳を体現した非紳士で非淑女さ。

外敵を駆逐したあとはノービノビ

都市と自然が近いと、野生動物も都市化する。

 

フサフサの尻尾はくるりんと弧を描き、餌で膨らんだ頬袋はプックリ。一見無心に餌にかぶりついてるように見えるけれど、その実しっかりカメラ目線で視線の先には「動画撮影中」の「外国人旅行客」の姿。

 

リス、かわいい~~~~と、大騒ぎして大喜びしてくれる相手の前でしか、どこからどう見てもキュートでとびきりカワイイ姿は見せないよう出し惜しみでもしてるのか。

 

リスがテッテッテーと走り回る姿は、何度も見たけどね。

 

カメラ写り、あるいはメディア受けがいいとお得が待ってると、すでに学習した野生動物は野生と呼べるのか。

 

ホラホラ、あんた写真撮りたいんでしょ?さぁ撮りなさいよと言わんばかりにカメラの前で次々にポーズを変える、人に対する警戒心ゼロなキタキツネとか。居たな、そんな奴も。

 

都市と自然が近く、野生と呼ぶには人に慣れすぎ都市に適応し過ぎた動物と人が混在してると、気分はちょっぴりサファリパーク。全部が全部そうではないけどさ。そのうち奈良の鹿のように人慣れが進むと、野生のはずの動物が大挙して市中にも進出してくるのかも。

 

外敵がいないと、のーびのび。

 

熊のようにナリがデカいと駆除の対象にもなるけれど。見た目が愛らしい小動物だと、駆除の心配とも当面は無縁で、テッテッテーと走り回っていても安心。ロコな人は見向きもしない。ついでに餌も豊富。

 

餌が豊富だと、豊富な餌に簡単にありつける場所めざして勝手に繁殖する。

 

人が持て余すほど木の実が豊富だとリスのように木の実を餌とする種が増えて、人が持て余すほどリスが増えたら次はリスを餌とする種が増えて、自然が回復していくのかも。

 

特定の種にだけ都合のいい餌が豊富だと、特定の種しか増えないからアンバランスで、アンバランスで不安定だと、一時的に増えても後は続かない。自然ほど変わり身が早くて、その姿を変え続けるものもなし。

 

不自然にはネガティブな響きもあるけれど、最善の時、もっともよかった頃で時間を止めた不自然は、どっちかっていうまでもなく人為のたまもの。

 

環境が変わり続けるなか、変わらないことを選んで変わらないままでいる方が、どう考えてもエネルギーが必要で、エネルギーが切れたら変わらざるを得ないのかも。

 

エネルギーが切れてエネルギー源が変わったら、変わってないように見えても根っこから変わってるから、そのうち見た目も大きく変わる。まずは見た目から変わるよりも、エネルギー源そのものから変わる方が、変化や変動は大きくなる。

 

これ見よがしにひどいことをするのは、決してひどいことはしないしできないようになってるものを、最短で動かすため。最短距離を選ぶのは余裕がないからで、余裕がないと、悪知恵がよく回るようになる。

厳しい自然とワンセット

とっくに消え去っていてもおかしくないのに現在まで続いていると、続いているという事実が時に人を惹き付ける。

 

単に続いてるだけじゃなく現在まで息災でピンピンしてると、勝手に守護を買って出る人まで現れて、勝手に守護を買って出る人が絶えないと、あとは勝手に続いていく。

 

どうやって作ったの???と思うような修道院が、ギリシャの険しい山の上にあり、険しい山の上にあるもんだから、外界とは隔絶されている。修道院だから、一人二人ではない人数が居るに違いなく、人数分の食料を時に外部から調達するのさえ大変そうな場所。

 

現在では文明の利器をちょっとだけ取り入れて、さすがに簡素なロープウェイか何かが通じてる。それさえなかった昔は、食料の調達ひとつとっても命がけだったんじゃないのと思わせるような厳しい自然。

 

守れそうにないものを守ろうとすると、厳しい自然とワンセットで、そんなところで生活してる人は、だいたい痩せてる。痩せてるけど体力がないわけではなく、むしろ、ちょっと外出するにもアドベンチャーな場所だときっと体力もつきまくり。

 

体力があるから長生きになり、外界の影響を受けないまま長生きになると自然の要塞をゆりかごに、伝えようとしたものが当初の形でそのまま残され、継承される。

 

大した武器も持たないのに外敵の脅威にさらされた時、自然の要塞を頼りにするのはきっと洋の東西を問わない。

 

滝だったり山だったり。自然崇拝は昔からあり、自然崇拝を継承するように、ひと山全部プラスアルファがお寺さんや神社の持ち物ということもあるけれど、ひと山全部プラスアルファに満遍なくお参りしようとすると、何よりも必要なのは体力。

 

誰かに担いでもらっても、いいんだけどさ。

 

舗装もされてない昔の山道だったら、誰かに担いでもらったところで乗り心地がいいわけでもなし。むしろ、ただ座って担がれてるだけの方が、担ぐよりも大変だったかも。

 

どうがんばっても、自然が厳しいことには変わりない。そんな場所を何度も訪れた人、それも遠くからわざわざとなると、権力があって自由になる時間もあり、ついでに体力もあった人に限られる。

 

気力も体力もたっぷりあったら、居心地の悪い権力の座に長くとどまるのも難しくはなかったのかも。

 

ホニャララ詣でが、王侯貴顕の嗜みで楽しみだった昔。時の権力者が物見遊山で遠出した回数と、寿命の相関関係をデータにしたら面白そ。物見遊山での遠出はゼロで、遠出と言えばイコール戦いの場だった権力者は、総じて早世。だったりすると、そのデータ、喜んで都合よく加工して何かに使いたくなるやね。

 

そもそも権力の座を留守にして、のんびり物見遊山に出掛けられたという事実が何よりも、権力の座が安泰だったことを示してるんだけどさ。