クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

厳しい自然とワンセット

とっくに消え去っていてもおかしくないのに現在まで続いていると、続いているという事実が時に人を惹き付ける。

 

単に続いてるだけじゃなく現在まで息災でピンピンしてると、勝手に守護を買って出る人まで現れて、勝手に守護を買って出る人が絶えないと、あとは勝手に続いていく。

 

どうやって作ったの???と思うような修道院が、ギリシャの険しい山の上にあり、険しい山の上にあるもんだから、外界とは隔絶されている。修道院だから、一人二人ではない人数が居るに違いなく、人数分の食料を時に外部から調達するのさえ大変そうな場所。

 

現在では文明の利器をちょっとだけ取り入れて、さすがに簡素なロープウェイか何かが通じてる。それさえなかった昔は、食料の調達ひとつとっても命がけだったんじゃないのと思わせるような厳しい自然。

 

守れそうにないものを守ろうとすると、厳しい自然とワンセットで、そんなところで生活してる人は、だいたい痩せてる。痩せてるけど体力がないわけではなく、むしろ、ちょっと外出するにもアドベンチャーな場所だときっと体力もつきまくり。

 

体力があるから長生きになり、外界の影響を受けないまま長生きになると自然の要塞をゆりかごに、伝えようとしたものが当初の形でそのまま残され、継承される。

 

大した武器も持たないのに外敵の脅威にさらされた時、自然の要塞を頼りにするのはきっと洋の東西を問わない。

 

滝だったり山だったり。自然崇拝は昔からあり、自然崇拝を継承するように、ひと山全部プラスアルファがお寺さんや神社の持ち物ということもあるけれど、ひと山全部プラスアルファに満遍なくお参りしようとすると、何よりも必要なのは体力。

 

誰かに担いでもらっても、いいんだけどさ。

 

舗装もされてない昔の山道だったら、誰かに担いでもらったところで乗り心地がいいわけでもなし。むしろ、ただ座って担がれてるだけの方が、担ぐよりも大変だったかも。

 

どうがんばっても、自然が厳しいことには変わりない。そんな場所を何度も訪れた人、それも遠くからわざわざとなると、権力があって自由になる時間もあり、ついでに体力もあった人に限られる。

 

気力も体力もたっぷりあったら、居心地の悪い権力の座に長くとどまるのも難しくはなかったのかも。

 

ホニャララ詣でが、王侯貴顕の嗜みで楽しみだった昔。時の権力者が物見遊山で遠出した回数と、寿命の相関関係をデータにしたら面白そ。物見遊山での遠出はゼロで、遠出と言えばイコール戦いの場だった権力者は、総じて早世。だったりすると、そのデータ、喜んで都合よく加工して何かに使いたくなるやね。

 

そもそも権力の座を留守にして、のんびり物見遊山に出掛けられたという事実が何よりも、権力の座が安泰だったことを示してるんだけどさ。