クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

秋には早し

最高気温は20℃に届くかどうかで、半袖だとすでに肌寒い。という環境ではもはや夏の気配は微塵もないけれど、秋というにはちと気が早過ぎる。

 

という中途半端な季節に入るずっと前から、すでに今シーズンの秋物を店頭に並べて秋の準備に余念がなかったのも、反応を見るため確かめるため。かつてなら、オンタイムで着れるようなものばかりが並んでいたお店。オンタイムを気にすることなくまずはお試しの品が並ぶようになったのは、商流の上流により近くなったってことかもね。

 

作為を気にしなくてもいい。信頼できるデータやサンプルが確実にとれるところに、その手のお店は出没するもんだと思ってる。

 

ノイジーマイノリティの声にかき消されがちだった、サイレントマジョリティの声。手段と環境さえ整えばちゃんと拾うことができるようになるけれど、サイレントマジョリティのはずの母集団が、実はノイジーマイノリティが単に変化したものだったら、結局ノイジーマイノリティの声しか拾えない。

 

陪審員の選任プロセスにも似て、勝つために選ばれた弁護人あるいは弁護士事務所は、有利な証言をしそうな陪審員が選ばれるように、姑息な工作をするものなんだってフィクションでは言ってた。真偽は知らね。

 

そもそもメンドクサイとスルーされがちな事案なのに、毎回同じようなクラスタあるいはグループからは、毎回呼び出しに応じてホイホイやって来るだけでなく、呼びもしないのにいらっしゃってますね?

 

という母集団はすでに工作済みで、通したい意見をお持ちのうえでありとあらゆるチャンスを逃さず我らが意見を主張あるいは露出したいだけだから、その中から出てくるどんな意見もヒアリングにはまったく値しない。信頼できない声でデータだから、あてになんかならない。

 

ゴミをポイ捨てする人としない人はいつも同じメンツで、その立場は決して入れ替わらない。それじゃああんまりだからと無理やり立場を入れ替えても、捨てる人が捨てない人や拾う人に変化するわけがなく、捨てられないように環境やルールを変えるだけ。

 

いつ見てもきれいな街並み、あるいはちょっと見ない間にきれいになった街並みは、個々人の努力よりも環境の変化によるものの方がずっと大きい。

 

いつまでたってもきれいにならない街並みは、きれいにならなくてもいいという個々人の努力の賜物で結晶。個々人の努力の賜物や結晶が、マイナス方向に足並み揃えることもあるんだということくらい、同じ街にずっーと住んでる人ならきっと知ってる。

小ざっぱり

大草原の小さな家に、北の国から。どちらも開拓地のお話ながら、女手があるとないとでは大違い。

 

大草原の小さな家には女主人がいる。そのおかげで、質素ながらテーブルコーディネートされた食卓に手抜きではない食事が並び、子供たちを筆頭に家族はみなこざっぱり。女主人の目が、行き届いている。ベッドカバーはキルティングで、モノには乏しいながらもステキな我が家の演出にも手抜きなし。

 

街の中心部に住む有力者の家の中とは、家具調度で見劣りすることは確かなんだけど。とはいえ現代目線で見れば、開拓地に生きるフロンティアであっても文化水準は決して低くない。清潔感たっぷり。

 

一方の北の国からでは、女主人がいないせいもあって、朧げな記憶でもステキな我が家とは言い難く、テーブルコーディネートもステキインテリアとも遠かったはず。

 

時代設定も何もかも違うから、そもそも比較することさえナンセンス。なんだけどさ。女手があるとないとでは、大違い。実際に女手を女性が担う必要もない現在目線で考えると、重労働を担わず、戸外で働かず働く必要もない人のお仕事って何さ???を考える上でもよいサンプル。

 

重労働から解放されたら、一体何するの。

 

まずはきっと、心の洗濯も兼ねてのーびのび。のーびのびでたっぷり充電したあとは、身の回りを“きれい“にしたくなるもんじゃないの。重労働な時には見逃していた、アレやコレが目に入るようになるから。

 

重労働だから、家は寝に帰るだけ。食事は空腹を満たすためだけだったら、とにかくお腹いっぱいになればいい。という重労働だった時のライフスタイルはそのままに、軽労働にシフトすると、ただ時間だけを無為に持て余す。

 

ただ持て余しているだけの時間だったら、細部には目が届かず目が届かないから、いつも小ざっぱりとは言い難くなる。いつも小ざっぱりと清潔感を保てるのは何しろマメだからで、マメだから、労力を厭わない。厭わないから時間が過ぎるのも早く、持て余すような無為な時間とも縁がない。

 

家の中も外も。いつもきれいに小ざっぱりと清潔な家はマメさの象徴で、住民自ら磨き上げているのか、それとも誰かにやってもらってでもいるのか。誰かにやってもらってばっかりで、自身で体を動かして家中を磨き上げるようなことはやってこなかったのに、いきなりやるはめになったら、出来るわけがない。

 

マメかマメじゃないかには、性差は関係なく、単なる性格あるいは気質。だから偏在してる。

 

一見すると誰にでもできるようで、マメさがないと継続できないもの。探せば色々あるけれど、偏在するマメさは希少性にもつながって、希少なものはたいてい珍重される。

いつも身綺麗なのは、○○のおかげ

見られることがお仕事の人たちは、いつも身綺麗でお洋服も日々変わる。

 

毎日お洋服が変わっても無問題なのは衣装提供があるからで、衣装提供がある場合はちゃんと番組の最後に、衣装を提供している会社の名前が出てくる。だから毎日とっかえひっかえしてるお洋服は、自前じゃないんだな。。という目で見てる。

 

地上波やその他、おもにテレビでのことなんだけど。

 

見られるのがお仕事となり、日々大勢の人の目に晒されるようになった時でも、いつも同じお洋服でまったく動じないなら“よそはよそ、うちはうち“が根付いてる。逆に、日々大勢の人の目に晒されるようになったら、よそのようにキレイにしなくっちゃ。よそのようにお洋服もとっかえひっかえしなくっちゃとなるなら、”よそはよそ、うちはうち”が根付いてるとは言い難い。

 

よそのようにと願えば、散財が始まる。

 

臨時出費の頻度が高く、臨時出費が時にべらぼうに高くつくもんだから、財布の大きさ相応に引き締めてコツコツ貯めてきたお金。よそを意識するようになると、支出も増える。増えた支出を補ってくれる、どうぞこれ使ってくださいと何かを提供してくれるスポンサーでも現れるならともかく。

 

スポンサーが現れることを願い、スポンサーの目に触れることを願って無計画に露出を増やせば増やすほどに出費だけが嵩んでゆき、嵩んだ出費が経済を回す。せっかくコツコツ貯め込んだお金も、そうやって巻き上げられてゆく。

 

世界中から観光客が訪れるほどの観光地でもないのに、露出の機会だけが増えて“よそはよそ、うちはうち”で突っ張れないと、つけ込まれるだけ。とっかえひっかえのお洋服に相当する、アレやコレ。今のままで特に支障がないのなら支障が出るまで使い倒し、使い倒すいつかに向けてコツコツ貯めることができないのは、我慢してこなかった証拠。

 

我慢を知らない、我慢の経験さえないような人に“大事なお財布の番“を任せると、だいたい帳尻が合わなくなる。帳尻が合わなくなるに決まってるのにそういうポジションを敢えて任せるのは、試練でもチャレンジでもなんでもなくて、単に破滅を願ってる。

 

得手不得手はあるもので、破滅や破綻したあとなら、イッキイキ。

 

という自身の強みがわかっているとつい強みを見せたくなるものだけど、見せたいあるいは見て見て!という欲求に応えて、都合よくスポンサーが現れるとは限らない。立派なハコモノを建てるコストよりも、立派なハコモノを維持し続けるランニングコストの方が高くつくようになると、ハコモノそのものは別に立派じゃなくてもいいじゃない。となりがちで、立派なハコモノが必要な理由探しが始まる。

 

立派なハコモノが必要な理由が浅いと支持は広がらず、立派なハコモノの添え物は、だいたいが面白味に欠ける文句のつけようのないつまらないものになっていく。

 

半袖だとすでに肌寒い。夏ということばさえ、今年ももうそろそろ使えない。

古色蒼然

アレ、古くからあるものでも由緒正しいものでも全然ないんだけど?

 

というものを、古くからあって由緒正しげに見せる手法のひとつが“古色をつける“。新しいものなのに、わざと汚したり傷をつけたり。さもそれっぽく偽ってみても、科学鑑定にかければ底の浅い贋作だったらすぐに見破れる。 

 

騙す気満々で、素材から偽物を用意周到に準備されると、見破るのもそれだけ難しくなる。絵画で言えば、額縁や絵の具。その時代にはなかったはずのものが含まれていればすぐに見破られるからと、素材まで時代を遡って“っぽい“ものまで用意するようなら本気で騙しにかかってる。

 

単なる道楽で、そこまでやるの???

 

と、ドン引きするようなことができるのもお金が動くからで、鑑賞に値するからと昔から取引されてきたようなものは、贋作の歴史もそれだけ長くて深い。

 

誰もがすぐに、読み下しできるものでもない。例えば古文や漢文で、もっともらしく顕彰されているものは、わかる人だけに向けたもの。わかる人だけにわかればいいから、誰もが気付く場所にもおかず、誰もがわかるように平易に表現する必要もない。国際共通語、例えば英語に翻訳するなんて、もってのほか。

 

もってのほかだったものの周囲がインターナショナルに包囲され、インターナショナルにそぐわなくなった時でもきっとそのまんま。ほどよく“古色を帯びたもの”として、素材にでも使うのがリユースな循環型社会。書かれてるもの、表現されてるものなんてどうだっていい。

 

表層に現れてるものなんて、書き換えや置き換えはもっとも簡単で、本当に欲しいものはキャンバスや額縁にあたるもの。

 

レプリカは簡単に用意できるけれど、中身が現代のものだったら、さして古いものではないとすぐに見破れる。簡単には見破られないよう素材にまでこだわって、素材まで遡って凝った贋作を作ってるようなら、過ぎた道楽かそれとも道楽を超えた何かでもあるのか。

 

もはや見分けるのも難しい、何のためなのかもよくわからない作業は、だいたいは懲罰の一環なんだと思っておけば間違いなし。

 

もんのすごいお金持ちでカリスマで、カリスマだから後継者が選べないままファミリーを束ねているようなケースでは、うっかり死ねない。うっかり死ねないから、”後継者争い中”というゲームを存続させるためやその他の理由で、すでに亡くなってる人のダミーを何体も用意して周囲を欺き続ける。

 

というシチュエーションは、高齢化社会を予見して準備してきた人たちの間では、きっとすでに考慮済みに違いない。あぁ渋茶が美味しい。

北海道の背骨を横から眺める

1キロ=千メートル。

 

テクテクフラットな場所を歩く分にはどってことない距離も、上に登ろうとすると大変。荷物を担ぎ上げようとすると、もっと大変。一人で平野を歩く分には何てことない重い荷物も、勾配がきつくなるほどに荷が重くなって人手が欲しくなる。そもそも山なんて歩いてない。歩こうともしてなかったら、勾配も無問題。

 

高い山に登れば、そりゃ眺めは素晴らしいに違いないけどさ。

 

日高山脈は、北海道の背骨とも呼ばれるらしい。道央には大雪山を擁する高山が連なっているけれど、あちらは北海道の屋根で中央高地と呼ぶんだとか。山脈と山地の違い、始めて意識した。

 

背骨が太平洋まで伸びて、尻尾の部分が海に沈んでる。

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という風に、見えなくもなかった襟裳岬

 

襟裳岬観光のあとは遠回りしながら帯広に入り、帯広から日勝峠を経由して、ただひたすら山の中を車で走り、太平洋側をめざした。帯広~日高~日高自動車道~札幌というルートだったら、頑張ればあるいは慣れたら日帰りでも行けなくはない場所。日帰りでも行けなくはないけど、週末一泊くらいでちょうどよさげ。

 

夏場は霧が出やすいのか、日勝峠で濃霧の洗礼を受ける。

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以前知床に行った時も、知床から峠を越えて羅臼に入る際に濃霧に見舞われた。久しく使ってないフォグランプを久しぶりに使う。日常生活で濃霧に出会うことなんて珍しくなったけど、標準装備されているってことは、以前はそうでもなかったってことなのかもね。かもかも。

 

車の中から見た山肌は、ところどころに山崩れの跡があり、いつかの台風の被害は相当大きかったらしい。ちょっと前の地図では通行止めになっていた箇所もあったけど、そんな爪痕は道路に限っては微塵も感じさせず(山はえぐれてたけどさ)、走る車も少ないから快適なドライブだった。

 

道外から観光に来た人は、まず高速使っちゃうからね。

 

キレイになった道を走っていると、最初は細かった川の流れが徐々に太く立派になっていく様子がよくわかり、最後は激流?下りだって楽しめそうな流れになっていた。

 

牙をむくと恐ろしいけど、そもそもは自然豊かな地。背骨である日高山脈は、登れば素晴らしい眺望が待ってそうな山ばかりだけどその代わり険しくて、初心者が楽しめそうな雰囲気は微塵もなし。登山道さえない山だってあるってことは、登るなと言ってるようなもの。

 

眺望よりも、今の季節なら天空により近い場所でのお花畑を楽しみたいところ。ところが天空により近い場所でのお花畑は、標高千メートルは余裕で超えてるもんだから容易に近寄れない。がんばって近寄ってみても、思ったほどのお花畑感は期待できないこともあるかも。

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これは春に旭川で見た景色。

大自然に対して貧困な発想しか持たない人の思い描くお花畑って、こんな感じだから。あるいはイングリッシュガーデンとか。人の手がゆき届いたお花畑に、慣れ親しみ過ぎている。

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車で簡単に乗り付けられる場所は、大勢が訪れる場所で希少性には乏しいけれど、そのかわりお手洗いにも困らない。お手洗いに困る場所にはそもそも出掛けないし、視野にも入らない人の視野にも入ってきたその場所は、もう秘境でも何でもない。

 

秘境でも何でもないのに秘境っぽさをアピールポイントにするのは、単なる出し惜しみで演出の一環やね。容易に近付けない場所は遠くから眺めるもの。そのすぐ近くにある、大勢が気軽に訪れることができる、人の手が適度にゆき届いた自然っぽい掌のうえが、っぽいもので満足できる人の行く場所。

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見渡す限りビルしかないような土地で、森を再現するのはほぼ不可能。だけどそもそもたっぷりと自然が残された場所なら、っぽいものがいつかは本当に自然に還っても不自然じゃない。

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飛行機のように空高くから眺め、高速道路のように大急ぎで通り過ぎていると、見えなくなるものがある。中途半端に観察対象を俯瞰するから、見えてくる景色。

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っぽい場所で飼われている動物は、人懐っこい。

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っぽいものが、自然に還ってゆく姿。
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これ、どうやって今後も維持するの???と心配になるようなものよりも、いつかは自然に還るんだったら安心さ。

太平洋に突き出した出っ張りへ

北海道の北の出っ張り、日本最北端でもある宗谷岬にはもう行ってきたので、次は太平洋側の出っ張り、襟裳岬に行ってみたくなった。なので、行って来た。

 

宗谷岬にいたる道のりは、北海道の僻地あるいは自然豊かな場所ってこんなもんだよねという貧困な発想通りの景色で、イメージ通りだったから大変満足だった。そんな景色を期待して襟裳岬まで、太平洋側の道を車で走ってみたけど、予想とは違ってた。。

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襟裳岬にはカモメがいたけど、道中では野生動物らしい野生動物にはまったく出会わなかった。走ったのは、メジャーな国道ばかりだったせいもきっとある。でもそれ以上に、北に至る日本海側よりも、資本主義あるいは商業主義の香りがしっかり漂っていたせいもあるに違いない。

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早朝だと、アザラシも居るらしい。

襟裳岬なんて知名度だけは抜群にあるせいか、襟裳岬を擁するえりも町は、想像以上にちゃんとした町だった。札幌からは、道央自動車道日高自動車道を経由して海沿いを走った。海沿いだからフォトジェニックな景色を期待したけれど、荒天のせいもあって写真が撮りたくなるような景色にはあんまり出会えず。

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貴重な一枚。

海沿いの際っ際を走る鉄道の車窓からだと、素晴らしい景色が望めたような気もするけれど、そもそもその鉄道もいつかの台風のせいで寸断し、一部区間はバスに代替されている。自然の恩恵が豊かな間はいいけれど、牙をむかれると高くつく。今では海岸からちょっと引っ込んで、高台からどこまでも続く太平洋の雄大な景色を堪能するように、ステキ観光地が整備されていってるような気がした。

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神威岬で見た景色ともよく似てる、巡礼がいてもおかしくない景色。

北の宗谷岬へと至る道のりではしょっちゅう目にした道の駅も、襟裳岬やその先の黄金鉄道やもっとその先の海沿いでは滅多に見掛けず、早くから鉄道が発達していたことが知れる。道の駅は、四輪車や二輪車といった車のものだから。

 

台風には弱かったけど太平洋側は積雪量が少ないから、日本海側ほど冬季に脅えることも備えることもなく済んできたのかも。

 

気候が変わって台風や温帯低気圧の襲来が頻繁になると、長所が短所に変わりそうな気がして、鉄道の今後も含めて以前と同じままどうかは未知数かも。一年のうち、1/3は濃い霧にも覆われるんだとか。幻想的と無邪気に濃霧を喜ぶのは観光客で、土地に根付いて生活している人目線だと、きっとまた別の意見がある。濃霧が頻繁だったら、危ないじゃん。それはともかく。

 

早くから鉄道が通っていて、理論的には大量輸送が可能だったから、資本主義や商業主義の香りもしっかり漂ってるわけだな。

 

日高地方は競走馬の産地としても有名だから、そもそも競わせることに前のめり。と、勝手に解釈するのも旅の楽しみのひとつ。

 

襟裳岬は、風が強くて肌寒かった。真夏でも半袖だと寒すぎる。

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丈夫そうな岩盤に穴掘って建てた、お金かかってそうな観光施設。気候風土の厳しい土地で、道路を筆頭に社会インフラが整っていると、はるばる果てにやって来たという気はあんまりしない。

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ビフォーアフター

こんな果てまで道路が整備され、現在も特に問題なく使えていると、地理的には果てであっても最初期に中央に征服された土地という気さえしてくる。

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征服されざる地が、ほんとの果て。

 

人間に例えれば頑固頭や石頭で、頑固だから変えてはいけないものを託すのにも隠すのにも都合がいい。柳に風で流されるソフトな頭みたいにすでに征服された地は、コロコロと転変するものを託すのにちょうどいいのかも。

 

襟裳岬の次は、大枚はたいて作ったという黄金道路を通り、海沿いの国道をひたすら走って池田町にあるワイン場にちょっとだけ寄り道し、帯広に入る。古代の竪穴住居跡地もあるという、大樹町や中札内を経由して帯広に入るルートもあるけれど、今回はとにかく海沿いを走破したかった。

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海沿いといっても内陸に寄った道路だから、特にめぼしいものがあったわけでもないんだけど。観光地になれるほど際立った、大自然からの贈り物が三つも四つも早々転がってるわけなんかないやね。

 

ナショナルトラストのように、広域が何かの保護下にある自然だったら、東京その他の大都市との価格差を生かしたゴージャス施設も抵抗なく利用できる。でも、そこかしこに生活の匂いが濃厚だとナショナルトラストの出番もなく、ゴージャス施設も心理的に利用しにくくなる。

 

通年を通じての観光にはあんまり期待できない土地では、オートキャンプ場を整備して、豪華なものも快適なものも何でも自前で持ってきてもらうというスタイルが、実はいっちゃん贅沢なのかも。

 

昔の王侯貴顕の旅スタイルと、ほとんど一緒。

 

短角牛でも海産物でも。豪華な食材は現地調達し、遊びつくしたら荷物まとめて撤収というスタイルなら、土地の人の生活ともバッティングしない。季節労働者流入を過度に警戒する必要もないから、観光公害と呼ばれて観光客ひとまとめに警戒されることもなく、平和かも。かもかも。

 

リラックスするために訪れる地で、修行みたいに色んなことを我慢させられるなら、何のために旅に出るのかわかりゃしない。

 

太平洋に突き出した出っ張り以外にも行って来たけど、それはまた今度。

それが何なのかは誰も知らない

ホットケーキやパンケーキよりもフレンチトーストの方が断然好きで、断然好きだから滅多にホットケーキもパンケーキも作らない。

 

が、クイックブレッドを作るつもりが面倒になったので、パンケーキを朝食にしてみてわかった。パンケーキ、作るの簡単。材料もシンプルで、普段から料理をする家庭なら必ず常備しているようなものしか使わない。

 

特にめぼしい食材がなくても、お米さえあればおにぎりとお味噌汁でちゃんと食事としてさまになるのと一緒だから、朝食や軽食としてよその国で重宝がられてんだな。それさえ面倒な家庭向けに、冷凍食品となったパンケーキが充実してるところも含めて国民食ってだいたいそんなもん。

 

それがどんなものか。誰もが知ってるから、豪華になったり手が込んでることにもすぐにそうと気付ける。価値のわからない人に高付加価値のものを差し出しても、猫に小判で豚に真珠。

 

突然あぶく銭に恵まれて、どんな高価なものでも入手可能という状態になっても、価値のわからないものには手を出さない。偽物をつかまされても、わからないから。骨董は、騙された、偽物を掴まされた方が間抜けなんだってさ。

 

それがどんなものか。誰もが知ってるものは偽物も作りやすく、チープな偽物を本物と偽って無知な人に売りつけられたら丸儲け。丸儲けで得た大金を、新しい偽物を作るのにそっくり注ぎ込めれば、偽物の精度も上がってますます本物と見分けがつかなくなる。

 

製作者あるいは制作者とのセット売りが基本になると、偽物防止にもお役立ち。誰が製作者あるいは制作者なのか。表に出てこない人でも引っ張り出せて、本人確認にもなって決して表には顔を出さない人に対する包囲もせばまっていく。

 

アンドロイドやクローンに頼るまでもなく、本物の人間のレプリカだって簡単にできそうで、だから偽物が出回ったら困る人ほど露出をコントロールするんだと思ってる。特徴が際立ってる人ほど、偽物も作りやすい。

 

本体が昼寝でもしてのんびりしてる間に、二号機がせっせと活動すれば生産性は二倍。三号機がいれば三倍になる。

 

人と人の絆や関係性が薄くなるほど、家族や疑似家族的なものの繋がりが強まるものだけど、もっとも切りにくいあるいは切れにくいのは、本人とのつながり。切れるわけなんかないから。クローン的な存在だったら、一号機から二号機、あるいは三号機と個体は別でも運命共同体で一蓮托生。

 

絶縁したかったら、顔や容姿はもちろんのこと、成育歴といった個人史も新たに必要となり、クローンとして一体化した歴史が長くなればなるほど、新しい個人となるのは難しくなる。

 

極度の人間不信で、他人と繋がれない。他人と繋がらない、繋がれない代償として個人のスペックは超人的だけど、しょせん個人だから数の力には適わない。という境遇の人が熱望しそうなのは、他人じゃないけど自分でもない個体。

 

超人的スペックをフル稼働させているあいだに二号機を仕込み、自分だったら後回しにしがちなことをさせるか、それとも“影”となれるよう手取り足取り教え込むか。他人を育成しても、結局はみんな巣立っていく。だったら“僕・私“を増やすことにして、巣立ちを心配して何を教えて何を教えまいかと悩むこともなく自分が育ってきた、超人的スペックを身に着けてきた順番通りにやればいいだけだから、きっと楽。

 

お盆を過ぎれば、秋はもうすぐそこ。空にはうろこ雲で、とんぼが飛んでた。

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うろこ雲?いわし雲?とにかく秋っぽい。

のんびりお昼寝を楽しむことも、ボーっとすることも苦手でできない。あるいは機能として、そもそも備わっていない。できることはフル稼働しかなく、フル稼働以外は寝てるだけ。という人がただ作りたいという欲求だけで作ったものは、誰もがそうとはすぐに気付けない、ヘンテコなものになりそうな気がしてる。

 

世間的にお休みでタルタルーンとした雰囲気の時には、わかりやすいことなんて考えたくもない。