クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

砂漠にビルを建てる

日陰に入れば涼しく、室外機という不快増長装置さえなければ、立ち並んだビルはいってみれば木陰といっしょ。砂漠では水を撒くより、ビルを建てた方がひょっとしたら体感温度も下がって暑さもしのぎやすくなるのかも。かもかも。

 

きつい日差しのもとで素肌をさらすと、肌が焼かれて体感温度は上がる。暑いさなかであっても薄物を羽織って日差しを避けるのは、肌が焼かれるのを防いで体感温度を上げないため。北国の人にとっては日差しは貴重なものだから、出番の少ない夏服の稼働率を上げるためにもつい薄着になりがち。

 

薄着になりだちだけど、熱球に包まれるかのような湿度とは無縁で乾燥してたら、薄物を羽織って日差しを避けた方が、素肌をさらすより結局は涼しい。はず。

 

冷たい飲み物や食べ物が、飛ぶように売れたに違いない今週末。ジュース売場には行列ができていた。行列に並ぶのは嫌いだから、行列してない方を選ぶんだけどさ。行列は安心のバロメーターという信仰を抱く人は、行列に並ぶの好きよね。

 

行列は安心のバロメーターという教義を一旦打ち立てたあとでは、行列を作り出すのは簡単。

 

何しろそこには「安心」があるはずなので、「安心」を手にするまで自主的に何度でも行列に並んでくれる。不安が大きな人ほど行列を選び、行列を見逃さない。行列を見逃さない暇があるから、いつまでたっても不安から解放されないんだよ。という見方もできるんだけどさ。

 

街中というリアルで行列に並んでなくても、SNSで行列に並んでいたらやっぱり一緒。行列を選ぶ人と選ばない人は、ネットでもリアルでも棲み分けている。並んでないし並ぶつもりもないのに、ホラここに並べ後に続けと腕を引っ張られるのはイヤだから。

 

6月に入ると、国際観光地なら外国人観光客が増えるはず。

 

観光が産業になると、観光客を不快にさせるものは目立たないようになる。例えば、ひとりの観光客をめがけてワッと群がる何かの集団というのは、国際観光地ではひと昔前ほどには見かけなくなったのかも。

 

ワッと群がり、鞄から財布や金目のものを失敬する。そういう人たちは目立ちやすいから目も付けられやすく、逆に目立たなくなった。

 

現象としては目立たなくなったけど、観光客にワッと群がれる場所は、別にリアルに限ったことじゃない。

 

行列に並ぶのが好きな人や行列を長くしてより安心感を高めたい人は、その種の群がりやすいカモを、リアルじゃない場所でも見逃さない。観光地として大きくなるほど、観光客だけが足を運ぶお店と地元の人が足を運ぶ場所は、分かれがち。

 

 

二度目があるかどうかもわからない観光客からは、ぼったくる。その種の作法が染みついたお店には、地元の人ほど足を向けなくなり、観光客だらけになる。二度目があるかどうかもわからないから、安心して無作法なことができる。という怠慢が業界に蔓延すると、観光客そのものからもソッポ向かれるようになって、最後の生命線も断たれるんだけどね。

 

競争とは足の引っ張り合いでパイの奪い合いだと無邪気に勘違いしてる人は、足の引っ張り合いに参加することで、競争社会の一員になれたと勘違いしそうな怖さがある。

後継者

カリスマの後任を選ぶのは難しい。

 

対立する陣営に対して、カリスマがいるから高い支持を得ていて、かつ前例のないことに取り組んでいるような場合は特に。カリスマの後任が、カリスマほどには高い支持を得られず対立陣営に支持が流れ、今現在取り組んでいる前例のない何かがすっかり台無しになる可能性だってあるから。

 

前例のないことをやったから、カリスマとして名が売れ絶対の信用を得ることになった。

 

そういうタイプのカリスマの後任は、劣化コピー模倣犯ではつとまらない。真似しようにもお手本がない、前例のないトラブルの前には弱いから。ポジション的に、前例のないことをやるよう期待される、そういうポジションであればなおさら、劣化コピー模倣犯は役立たず。

 

そのポジションに、そういう出自の人がつくのは初めて。という形で前例を破ることもできるけれど、出自だけに注目が集まると、出自にはさして興味のない層からの支持は期待できず、支持もさして広がらない。

 

出自の壁さえ破れば、前例となれる。と、出自以外には見るべきもののない人たちが、我も我もと安易に後任に名乗りを上げて、単なる混戦を招いて対立する陣営を利するばかりの状態となっていれば、なおさら。出自で選ぶのはナンセンス。

 

前例がなかったことをやろうとすると、まずは前例にならうべしという人たち、その中でも特に頭がいかれたとしか思えないような人たちから、頭がいかれたとしか思えないような手段で執拗な攻撃を受けるもの。

 

前例を破ってまでやろうとしていることは、前例がないだけでさして新奇でも奇をてらったことでもない。

 

なのに、頭いかれてるよねというようなことでもヘーキでできる。尋常じゃない手段に出る人たちを相手に組織を守りつつ、前例を破っていくのは、端的に言えばミッションインポッシブル。

 

頭おかしいよねという手段に出る相手であっても、同業者であれば付き合いは発生する。

 

時には頭がおかしいとしか思えない手段に出る相手とも付き合いつつ(というより、かわしつつ)、前例のないことに取り組んでいる組織を抱えた身は、彼らと同じように振る舞うわけにはいかない。前例を破ってまでやろうとしていることは、前例がないだけでさして新奇でも奇をてらったことでもなく、新奇なものや奇をてらったものには興味のない層にこそ、届けたいものだったらなおのこと。

 

前例を破ったカリスマの後任に、もっとも求められるのは、新奇なものや奇をてらったものには興味のない層に支持されること。新奇なものや奇をてらったものには興味のない層に届いて初めて、前例を破った甲斐もあったってもの。

 

新奇なものや奇をてらったものには興味のない層の支持を取り付けつつ前例を破っていくには、一見ステルス型で目立たず黒子役に徹せる人が向いてるのかも。ステルス型で目立たないから、新奇なものや奇をてらったものには興味のない層とも上手にお付き合いできて、話も合いそう。

 

カリスマの後任に選ばれたい人が、ことさらカリスマぶってもきっと無理無駄無用で、選ぶ立場の人たちはきっとちゃんと見てる。

持たざる個人をエンパワーメントという嘘看板

テックジャイアントが提供する新しい技術やサービスが、回りまわって結局は社会の害になってるよね。

 

と判断されてペナルティが課された時、誰がもっとも損しそうかといえば、きっと弱い立場でテックジャイアントに関わってる人たち。非正規雇用者や下請け企業のような、切りやすくて取り換えやすい立場の人たち。

 

テックジャイアントは、何しろ技術がキモ。高い技術力を持った自社のブランドを高める立場の人は、早々切れない。ペナルティを損失とみなした時には損を取り返すエンジンにもなるから、勢い損の穴埋めをさせられるのはエンジンにもならず、技術力も高くない人たち。

 

持たざる個人をエンパワーメントする面があったから、巨人になれた。

 

なのに巨人になり、巨人ゆえに見せしめ的に過大なペナルティを課され、結局そのツケは持たざる個人にしわ寄せがいくなら、何のために巨人を誕生させたのかわかりゃしない。持たざる個人をエンパワーメントするどころか、害になる存在でしかなかったら、持たざる個人と巨人は可能な限り引き剥がすに限る。

 

持たざる個人をエンパワーメントという、看板さえとっくの昔に付け替えたテックジャイアントを、変に反権力の象徴かのように扱ったり見做したりしている場面に遭遇すると混乱する。すでに権威となった存在は、過去の権威もそうだったように権威と権力は仲よしで、権力と仲よくしてる方がずっと自然なんだよ。

 

過去の権威もそうだったように、組織内に反権力志向の人を多く抱えていたとしてもさ。

 

すでに権威となった組織内で、反権力志向を鮮明にしてる人たちが本当に反権力志向だったら、とっくに権威となった組織には見切りつけて後にしてるはずなんだって。

 

すでに権威となった組織内で、反権力志向を鮮明にして“持たざる個人をエンパワーメント”という昔の名前で出ているような人たちは、だから狡い人たちなんだと思ってる。“持たざる個人をエンパワーメント”という、過去のブランドイメージを利用してるだけ。権威となった、あるいは権威になりたい当の組織がやめてくれと言ってもやめないような場合は特に。組織が率先してたら、単なるガス抜き。

 

あるいは、持たざる個人をエンパワーメントという理想を今も追い掛けたいのに。という未練のようなもの。学校の校訓や組織の社訓みたいなもので、掲げることに意味があるタイプの奴さ。

処世術

先に与えて与えて与えるのは、持ってる人のお話。

 

持ってる人は持ってるというだけで、意味もなく妬まれ嫌われる。妬まれず嫌われないために先に与えるのはいわば処世術で、企業の社会的貢献もその類。お金を出すべきところにはちゃんと出していても、こっちにも回さんかいと言われがちなのが、持ってる人。

 

だから明朗会計で、うちはホニャララについてはお金を出すけれど、ホニャララについては知りませんと突っぱねるのも処世術のうち。あっちでもこっちでもスポンサーになってる人や組織は、あちこちからうちにもよろしくと言われて大変ねぇ。

 

暇を持て余すより暇をお金に換えてお金を増やした方がいいけれど、ただ漠然とお金を増やすよりも、これだけあれば安心という基準がはっきりしてたら、闇雲にお金を増やそうと熱心になる必要もない。

 

これだけあれば安心という基準が、年々引き上げられていくようだと、いつまでたってもこれだけあれば安心という境地にはたどりつけない。たどりつけないと、いろんなところを引き締め始める。

 

個人のお財布も組織のお財布も結局は一緒で、財布のひもを締める理由も一緒。

 

これだけあれば安心だろうと、それなりの時間や労力をかけて積み立てたもの。積み立てた時間も労力も無視して、あそこにはまとまったものがあるらしいと勝手にひとんちの財布にどかんとでっかいツケを回すような真似が横行すると、積み立てたものもたちまち失せる。

 

所与の条件が厳しく、今後の伸びしろに期待できないからと前渡しされたお金。

 

例えば民営化される際に、どこかの電車の会社がもらった経営安定基金やある種の人に下賜される持参金や手切れ金の類は、無駄使いしてはいけないお金。無駄使いしてはいけないお金にもかかわらず、お金に色はないとまとまった金額のお金としか見ず、どかんとでっかいツケを回して無駄使いさせると、何しろ今後の伸びしろには期待できないだけにたちまち窮する。

 

無駄使いしてはいけないお金を持ってる人が、もっとも警戒すべきは無駄使いさせようとする人や何か。無駄使いして全部きれいになくなっちゃったから、もう無い袖は振れないわ。という態度も、処世術のうち。

 

人にお金出してもらってなんぼ。という人を遠ざけるには、こうでもしなきゃ通じない。

恩着せがましくてセコイ

セコイ人が持ってくる、お得な話はだいたいセコイ。

 

自分ちのリビングには置きたくないから、あなたの家のリビングに置かしてね。ついでに、使いたくなった時には借りに来るから、いつになるかわからないけどそれまでメンテナンスをお願いね。という態度はセコさの極致で、取り合う必要まったくなし。

 

大事なものや失くしたら困るものは、そう簡単に人に貸したり預けたりしない。

 

気軽に貸してもいいのは、返ってこなくても一向に困らないもの。そもそも処分に困っていたもので、気軽に貸してくださいな態度でシェアを募ったら、むしろ処分に困るものがまずは寄せられる。

 

どこまでいっても住宅や建物がびっしりと建ち並び、大自然の驚異を感じることも極小で、まとまった緑や自然が見当たらない土地は勤勉で出来上がっている。

 

それなりにやって来る雨や風。あるいは雪といった大自然の驚異で、街あるいは土地の機能を停止させてなるものかという勤勉さの裏付けがないと、どこまでいっても住宅や建物がびっしりの景色にはならない。

 

どうせ雨にやられるなら、どうせ風にやられるなら、どうせ雪にやられるなら。そう思ってたらそもそも建てない。建てたあとにもメンテナンスは必要で、建てっぱなしにはできない。そこから劣化が進むから。

 

ま、いっかで劣化を見過ごす態度は勤勉とは逆で、大自然の驚異が常に控えているような場所や土地でま、いっかを発揮すると、街や土地は自然に呑み込まれていく。

 

いちど自然に呑み込まれてしまった土地や場所を、ふたたび人の手に取り戻すのは楽じゃない。楽じゃないからむしろそんな場所でこそ勤勉さが求められるはずなんだけど、残念ながら勤勉さは偏在してる。

 

人力で手当してきた場所で、勤勉な人たちがその場所に見切りをつけてごっそり他所に移ったあとは、機械の出番。言い換えれば、勤勉な人たちにまずは見切りをつけてもらわないと、機械化も進みゃしない。

 

高い技術力を備えた自分で何でもできる人は、人海戦術に頼らなくてもいいから、自然豊かな場所でも問題なく生きていける。大した技術力も持たず、何でもできるわけではない人は、人が集まる都市に住まざるを得ない。

 

対価を求めず“うち”で獲れた一番いいものを贈り物としてまずは持ってくる姿は、金銭には換算不可能な有形無形の恩を受けている場合。小さな街なのにすみずみまで統治が行き届いていたら、圧倒的な強者が金銭には換算不可能な恩恵を与えているケースで、明らかに恩恵なき街とはようすが違う。

 

まずは贈り物が先な人が強者として統治すると、恩着せがましくてセコくなるから、できあがるものもやっぱりセコイ。

よりごのみ

尋常じゃない手段で、普通じゃない場所にたどり着いた。あるいは、普通じゃない地位を得た人の“このくらい普通でしょ“という感覚は、尋常じゃない。

 

ソメイヨシノはあらかた散ったあとだけど、八重桜はまだまだ咲いている。ぽってりと重そうな花は、ソメイヨシノやあるいは蝦夷桜のような可憐と呼びたい花とはまた違ってデコラティブ。花びらがわっさわさで、遠目にみればバラのように見えなくもない華やかさ。

 

おまけに北国だから、虫がいない。

 

八重桜といえば毛虫とセットで記憶しているけれど、八重桜でもその他の桜でも寒冷地のせいか否か虫知らず。基本的に冷涼だから、花見中でも今のところ虫の心配は極小。

 

中心部になるほど桜の開花も早くなって、雪解けも早くなってきたのなら、中心部の気温も上がり気味なのも納得。集住のせいか、温暖化のせいかは知らんけどさ。今はただきれいね珍しいねと喜んでいる、道外からやってきたもの。

 

都市化がすすんで集住が進むほどに気温上昇にも拍車がかかり、毛虫も育ちやすくなって、そのうち桜といえばやっぱり毛虫よね。という景色も珍しいものではなくなる可能性も、なくはないかも。

 

最初は長所にだけ目が行きがちで、きれいね珍しいねと無邪気に喜んでいられるけれど、あらやだ虫がいっぱいつくのねと短所も目につくようになると、賛否あるいは好悪は分かれる。

 

最初からマイナス面も知ったうえで、受け入れてたのならともかく。プランターあるいは地面の花や植物なら移動も簡単だけど、木になるとそうもいかない。

 

冷涼な気候が幸いして虫知らずがこのまま続けば、いつまでものん気にきれいねとただ喜んでられるんだけどさ。

 

冬がとびきり長い代わりに春も初夏もごちゃまぜで、秋も駆け足。

 

バランスよく四季があるわけではないけれど、季節のコントラストはこれ以上ないほどはっきりしていてある意味わかりやすい。わかりやすいから、典型的な四季の景色が切り取りやすい。おまけに、季節の風物詩ももれなくついてくる。今だったらライラックまつりで、冬だったら雪まつり

 

モノよりコトでコト消費が先行してたから、容れ物が多少貧弱でも何とかなったあたりは、古都にして観光地の京都とある意味似てる。貧弱だった容れ物も、古都ではアップデートが激しいけどさ。

 

もともとその土地にはなかった珍しいものは、いいものも悪いものも両方運んでくる。いいものしかいりませんで突き返せるのは、やっぱり強者。

同じに見える

平成初頭にはじけたバブルでもっと呆れたエピソードは、証券会社をはじめとした金融関係者(おもに営業)が、料亭経営のオバサンのお告げに従って、株式市場を動かしていたというもの。

 

金融知識なんて皆無だったらしいオバサンによる、特定株が上がる下がるというご託宣に従って株価が動くなら、専門家なんていらない。なんて前近代的なんだと呆れ返ると同時に、その種の出来事からは遠そうな、欧米金融市場が眩しく見えた。

 

でもねぇ。たった一人の発言を、聞き漏らしてなるものかと大勢の専門家がSNSに張り付き、特定のたった一人の一言一句に左右されて市場が動いてるなら、現象としてはバブルの末期症状とあんまり変わらない。劇場が、日本の料亭から海外のSNSに移っただけ。

 

何か事件が起こって表面化したら、沈静化のために誰かの首を差し出し、「もう終わった」ことなんだという印象を与えないといけない。料亭のオバサンは収監され、巨額詐欺事件にも罪名はついたけど、システムそのものは生き残って現在も絶賛稼働中だったら、ひとりの首とってもあんまり意味ないよねと思う。

 

SNSとすっかりご無沙汰なのは、そこが劇場だから。

 

劇場だから、満員になるほど効果も上がる。観客という名の共犯者にはなりたくないから、平時にはSNSも必要ない。そもそも、劣化コピー模倣犯も見たくない。

 

舞台が立派、あるいは派手になるほどにリアルな現実の傷も深まっていく行為に没頭するのは、自壊や自滅というワードがピッタリくる。止めたくても止められない。壊したくても壊れない。著しい不一致が発生した時だけ、大損害を伴って休止する。そういう万人を不幸にしがちで司令塔を失ってもただ稼働し続けるシステムがもしあったとすれば、最初にシステムを起ち上げた人は、一体何を考えて何がしたかったんだと思うだけ。