クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

懲りずに再訪

風速60mは時速に換算すれば200㎞超で、新幹線並みの速さなんだとか。風速で表現されると脅威がわかりにくいけれど、身近な例に例えたらわかりやすくて恐怖も増す。

 

新幹線がぶつかってもヘーキな窓ガラスなんて、世の中には早々あるとは思えないから超ド級のハリケーンが襲来したら、そりゃ窓ガラスも割れる。割れるからといって、常に新幹線並みの速さとなるレアケースの暴風雨の襲来を想定して備えるのは、コスト面では非現実的。

 

エネルギーの外部依存は不安定要素で、原油価格は高止まったまま円安が続けば、非常時のための蓄えもゴリゴリ削られていく。需要が増すほどに価格が上昇する現象は、ハイシーズンに予約が殺到する観光地のホテルみたい。さしてその価値があるとは思えないものまで高値がついて、コスト面でうんざりさせられるのがハイシーズンの観光地にあるホテル。

 

観光地なら、一度行って懲り懲りしたらもういいとなるけれど、それが常に必要なエネルギーだったらもういいとは言えないのがツライところ。

 

好天に恵まれた週末に、片道二時間ほどで出掛けられるニセコ方面に行って来た。

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片道2時間ほどだから、ちょうどいいドライブ。紅葉の進み具合を確かめるためと、半月湖という湖周辺をトレッキングするつもりで出掛けたけれど下調べが甘く、半月湖周辺は土砂崩れのため遊歩道は閉鎖中なんだとか。

 

中山峠経由でニセコへ。快晴。紅葉はまだまだだね。時々黄色く、ほんの時折真っ赤が顔を出す。国慶節前という時節柄ゆえか、外国人観光客の姿は少なめ。その代わり、天気のいい日に近郊へのドライブを楽しむ目的と思われる、ロコな人たちでそれなりに賑わってた。なにしろいい天気だったから。

 

天気はいいけれど、羊蹄山には雲がかかってた。

 

しばらくぶりに訪れると、道の駅の様子もほんの少し変わってる。ここで買って食べたよもぎの大福もちが美味しかったけれど、その手の素朴系が姿を消しつつあるようで寂しいね。道の駅系の楽しみは、商業施設では買えないお目にかかれない系の素朴な商品との出会いだったけれど、国際観光地化するとその手の素朴系も産業となって、素朴さも失われるのかもね。かもかも。素朴なもの作って密かな喜びを追及するよりも、地域の産業振興のために役に立たんかいと、駆り出されそう。何しろ人手不足だからさ。

 

誰かや何かを抑圧して、いいものやきれいなものができましたと誇らしくなられてもシラケるだけで、シラケた地元の人の足が遠のくと、何が何でも国際観光都市への道を歩まざるを得なくなるから、中途半端のままではいられなくなる。

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羊蹄山が、ひと際きれいに見えるスポットで休憩。

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山頂にかかった雲が消え、晴れ間がのぞく。

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絡まる蔦が、緑から赤へと紅葉しつつあって美しい。緑いっぱいの時もいいけれど、このくらいの蔦の色合いがいちばんいい。見栄えがする。遊歩道を進んで行けば、そのまま羊蹄山への登山口にでも続いているのか。登山客っぽい人たちも見掛けた。

 

車がないと不便なのは間違いないけれど、このルートなら、がんばればニセコの駅からでも歩けそう。と、歩いてみたこともないくせに思った

 

お昼ごはんはピザ、恐らく窯焼き。

 

飲食店が増えたニセコ周辺では、ピザを出すお店がずいぶん増えたような気がする。小麦粉がとれてチーズも作れて、トマトソースをはじめとするトッピングに使う野菜類の調達も容易そうで、地産地消で原材料のほとんどすべてを賄えそうな食べ物だから、増えるのは納得。ついでに使い切れなかった食材はストックに回しても問題なさげだから、効率もよさげ。

 

観光客は、すべて地元で採れましたというフレーズにことのほか弱く、ツボをつきにくるお店がつくづく増えた。

 

とはいうものの、地価が急上昇してずいぶん変わったに違いない真ニセコあるいは真倶知安にまでは足をのばさず、小樽方面毛無山経由で札幌に帰る。途中にあるワイナリーではぶどうの収穫期のせいか、周辺にもぶどうの香りが漂っていた。秋ですな。

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防潮堤は大事よね。

景色のいいところを軽くドライブ。あるいはサイクリングにトレッキング。ついでに軽運動でリフレッシュして、小腹が空いたら何か食べて帰る。食べるんだったら、よく見かけるチェーン店以外のところかつぼったくりと思えないところで。というのは、安近短で出掛ける場合の王道。

 

税を課す行為は普及をめざすということと同意で、普及をめざすと要求水準も高くなるから、みんなが目指す場所はそれだけ洗練していくはず。なんだけどね。洗練をがんとして拒む何かが居座ってると、みんながめざしてるにもかかわらず、いつまでたっても洗練されないままだから、困ったもんさ。

アバター

有料プランにしているのは、「お金貰って書いてるわけじゃない」のと「ボランティアで書いてるわけでもない」アピールのため。偶然が何度も続いたらそれは偶然ではなく必然で、明らかなイヤガラセ。悪名は無名に勝ると信じてる人に、何言っても今さら聞くわけない。

 

予報では言ってなかったにわか雨が降った後、ホームスピーカーに「今日の降水確率を教えて?」と聞いてみたところ「今日は雨は降りません!」と元気にお返事してくれたのは、最高にシュールなギャグだった。

 

地面濡れてるけど?雨降ったばかりだけど?

 

人間だったら赤面もので恥ずかしくて言えないできないことも、AIだったらヘーキ。廉価な普及版なんてしょせんこの程度で、安全性に疑問を持つようになったら余分にゼロが一つか二つ。あるいはもっとついて初めて安心できるのかもね。かもかも。

 

廉価なものは廉価なものらしく、相応に手を抜くのもスキルのうちと教えてくれる。高価なオーダーメイド品なら繊細な扱いが必要だけど、安価で取り換え容易なものなら、扱いも相応に粗雑でヘーキ。安価すぎる代わりが見つからないと嘆くのなら、前提が間違っている。

 

業務の必要があって露出してる人。

 

タレントか否かの違いはかぎりなく薄くなって、タレントじゃないと言いつつ露出高めて認知と人気を獲得した後で、やっぱタレントになるわと転向されたら、最初からタレントだった人たちとバッティングしてコンフリクトが発生して紛争勃発。

 

過剰な競争意識が浸透し過ぎた業界では、将来脅威になりそうな人材は、早めに叩き潰せとその気のない人材も叩き潰しそうでおっかない。おっかないから、業務上の露出を極力しぼれば、叩き潰されるリスクもその分減るかも。かもかも。

 

認知と人気を高めたいから露出は極力多めにしたい人材と、そうでない人材と。曖昧な境界が過当競争を招くのなら、最初から交らないようルートをきっぱり分けてしまえば問題も解決。

 

露出を高めたら、好ましいと思ってくれる人だけでなく何だこの野郎と思う相手の視界にも入り、何だこの野郎と思う相手の視界に入ってもヘーキなのはアバター

 

分身となるアバターが、そもそも人間じゃなかったら人件費もかからず安価に粗雑に扱ってもヘーキで罵詈雑言にも耐えてくれる。メンタルヘルスの管理も不要で、めっちゃ使いやすいやん。業務の必要上露出を要求されるのなら、露出はアバターに任せて“中の人”は本来業務に専念できる。

 

本来業務以外で激しく消耗させられ、本来業務ではない業務でメンタルヘルスを削られ、身の危険も高まる本末転倒な事態を招くのなら、そんな業務はもう本来業務からきっぱり切り離したっていいじゃない。

 

見てる方も、その方が安心さ。

 

アバターという仮想上のキャラなら、薄っぺらくてもヘーキ。生身の人間なのに重量を感じさせないほど薄っぺらくて、吹けば飛ぶようだと見てるのも辛いのに、そのライトさで、超重量級の猛者と比較されるから太く短くが通用しない長寿社会は残酷。

 

なんでこの人いつまでも露出してんの???と疑問に思うほど出ずっぱりな人は、見てるだけではわからない重い重―い荷物でも背負ってるのかもね。かもかも。

先週と先々週食べたもの

我が家の食卓の必需品というわけではない納豆を、ひっぱりにして久しぶりに食べた。必需品じゃないから、品薄の時には買う気になれず。当たり前の顔して店頭にも並ぶようになると、日常が戻ってきた感もひとしお。

 

納豆あるいは乳製品のように、食卓に欠かせない系のものほど一旦供給が切れると元に戻すのは大変なんだねと、食卓になくてもいいものだらけのここんとこ食べてたものを振り返って思う。食材が豊富になって非日常感が薄れるほどに、趣味性が増す我が家かな。

 

牛すじカレーとか。牛カツとか。野菜もマリネにしたりサラダにしたりと、あって嬉しい食材を使い倒した。

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  • 唐揚げのトマトあえ、キャロットラペ、ポテトサラダ
  • 牛すじカレー、サラダ ×2回
  • キャベツのマリネ豚バラ添え、きんぴら、クレソン入りポテトサラダ
  • 焼きそば、ゴーヤーとツナのサラダ、きんぴら
  • 厚揚げとごぼうの柳川風、ゴーヤーとツナのサラダ、かきたま汁
  • 三色丼、ピーマンとちくわのきんぴら、味噌汁
  • ひっぱり、味噌汁
  • 牛カツトマトソース、サラダ、野菜スープ

疲れやすい。。と言いつつ、甘いものばっかり食べててもしょうがないんだけど。季節限定菓子が多い季節でもあって、おやつ多目。ナンテンやナナカマド、魔除けになりそうなものには贔屓にしたいので、お彼岸に久しぶりに食べたおはぎも美味しかった。

 

餡の味を左右するのは水だとか。

 

生麩も豆腐も水がいいと美味しくなって、特に生麩はグルテンの出来が良くなるらしい。だから麩饅頭のガワはモチモチ餡も美味しいということは、よっぽど水がいいんだなという理解。シンプルな原材料で出来上がったものほど誤魔化しが効かないから、シンプルな原材料でできるものを看板にするのは、自信がないと無理だね。

 

冷めると油が回ってイマイチになるけれど、揚げ立てはやめられない止まらない、某観光地のポテトチップス。

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震災でモノが不足してる時にコンビニで買った、今はもう廃盤になってるっぽいポテトチップスがやたらと美味しかった。廃盤でもモノが不足すると出回るようになるのか。普段は見掛けない食品も、多く見た気がする非常時だった。

 

消費するだけの土地は、供給が途切れたら脆いもの。脆いけど、そこに消費者しかも多数がいれば、また新たなサプライヤーが次々と現れるものでもあって。便利に偏ると非常時に困るから、あえて不便も残しておきましょうとなるのかそれともなのか。

 

大規模災害の危険度が高い土地に住んでいる、住まざるを得ない人は、常時その種の非常時意識を頭の片隅に置いてるはずなんだけどさ。過酷な体験も歳月とともに薄れて、非常時意識高い系を保つにも工夫が必要で、安全な地に落ち着いているとどうしたって危機感は薄くなる。けどさ、危機感で一体感を得ようとしなくても、他のもので代替すりゃいいやね。

 

無理に盛り上げた一体感は、無理が効かなくなった途端に途切れるものさ。

大きくて増え過ぎたものは困るのよ

同等品引き取りサービス、新規で購入したものと同等のサイズ(主に大型)のものに限って配送時に不用品を引き取りますというサービスは、大きなものほど処分に困るという現実を映している。

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ミニトマトのような、すずらんの実。

ついでに配送後は空となった配送車をそのまま走らせるのはもったいなくてナンなので、配送と回収を兼ねられたらお得じゃん。という合理的思考かつそこはかとなく両手取引のかほり、もしかして異業種参入?の気配もそこには漂って、最終的に誰をお得にしてるのかと考え込むと、ワンクリックで買い物かごへの手も止まる。

 

買い手は、有料ゴミが無料になったらお得。配送を手配する側は、空気を運ぶ空トラックが働いてくれてお得。では肝心の配送を請け負う側は、配送と回収と二重に手間賃がもらえてお得なのかどうかが気になるポイント。

 

自らの快を増やすために、他者の不快には頓着しないという快と不快のコンフリクトは、人が増えて快と不快の判断基準が多様になるほど増える。コンフリクトを起こさないための最適解は増やさないことで、増やしたい人と増やしたくない人とのコンフリクトがまた新たに生まれて、机上の理論を実生活に根付かせる壁はひとすじ縄ではいかないから専門家が居る。

 

リサイクルあるいはアップサイクルの仕組みは、関係者全員にとってお得と認知されてはじめて根付く。白か黒かの二者択一は、日本人的との外国人目線からの指摘。白か黒かでグレーを許さないのはむしろ外国的だと思っていたので一瞬違和感を覚えたけれど、そもそも人権や個性が確立した先進国では、二分法で考えたりしないんだとの指摘だと思えば納得感もある。

 

ある人にとっては不要なものも、他の誰かにとっては有用なもの。

 

リサイクルあるいはアップサイクルの仕組みが根付いて回っていれば、有用か無用かの二者択一で分けることもなし。なんだけどさ。どこも数が増え過ぎると秩序が乱れ、みんながお得だったはずのシステムもお得じゃなくなって、試行錯誤が始まって迷走してやっぱり最初がいちばんと原初のシステムに戻ったりしていると、やれやれ。

 

抽象概念による都市像の構築は、自然由来を取り込んできた都市構築が目立つ日本と違って、西欧あるいは中国的なんだってさ。

 

抽象概念による都市像の構築を平易に言い換えると、病人や怪我人を大勢抱えていることが成長のエンジンとなっている都市では、不健康な人が多いほどアドバンテージありで、運動好きで健康な人を増やそうとする動機を強く持たないってこと。

 

もっといえば、病人や怪我人が多いままの方が都市にとってお得だったら、スポーツジムやスポーツクラブの類は繁盛しないってことで、運動が生活の一部になってる人にとっては不快が勝るってこと。不快が勝るから快を増やそうと、見ることよりやることに意義があるイベントを増やそうとする行為は、だから不快を減らすための行動でもあるってこと。

 

すでに撤退が決まっているイベントもあれば、今後開催が見込まれるイベントもあり。年々参加者を増やしているイベントもあり。

 

何がその地にとってのお得なのか。その土地で日々生活してる人ならそのサインが、怪我にも病気にもならず、健康な人が健康なままでいられることだって、気が付いている。増え過ぎたものは減らしたいし、足りないものは増やしたいやね。

環境と倫理

地底旅行月世界旅行、そして海底二万里。宇宙開発に海底探査に地底探査のうち、宇宙開発以外は産業に育ったとは言い難く、アカデミックの領域プラスアルファに留まっているのは、夢を見させる力が足りなかったから。

 

夢見る人、そうあれかしと願うワナビーが多い業界周辺には、夢破れた人の居場所もふんだんに転がっている。夢破れた人でも食っていかなきゃだから、夢破れた人の多さが周縁産業を盛り上げて、逆説的に産業として成長させる推進力になってるのかも。

 

周縁産業によってセカンドキャリア以降の道も開かれていたら、夢に賭けるリスクも低くなって、ついでに参入障壁も低くなる。

 

薄利多売でも利益が出る仕組みに、薄利じゃなくて暴利が流れ込むようになったら坊主丸儲けで大儲け。大きな利益にも浮かれず騒がず散財せず、次に暴利が流れ込むタイミングに向けて、薄利で回す仕組みをまた新たに作って回す。

 

面白みにも浮き沈みにも欠けるけれど、面白いに舵を切って短命で燃え尽きて終わるには多過ぎる他人の人生も背負ってたら、ギャンブルとは縁遠くなって当然。イチかバチかに賭けられるのは、そもそも背負ってるものが少ない人。

 

エシカル消費SDGsは、血と汗と涙でできたものなんかイラネーという強者の理論をオブラートに包んだものとも言えて、血と汗と涙とは縁が薄い。

 

倫理だけで行動できる人は、そもそも強者。

 

予算に限りがあれば価格重視、選ぶ時間も惜しければ目に付いた売れ筋で十分。機能にこだわりがあれば機能にこだわって選ぶのが、フツーの判断基準。そもそもすべての行動にまずは倫理を優先させるなんてことは、余裕あってこそ。余裕があるからと我が身を削っていくうちに幸福な王子状態となって、なんだかみすぼらしいと他者に蔑まれるようになってもまだ、余裕をかませるのか差し出せるのか。

 

結局は削っても削っても泉が湧き出るように、余裕が沸いて出てくる強者しか、倫理だけで行動できる人枠には残らない。

 

倫理だけで行動できない人は、言い換えればみんな弱者。

 

弱者は弱者を食い物にしがちだから、最後まで弱者にならない、誰も食い物にしないししなくてすむ強者こそが、最終的には弱者を守れるとも言える。だから一周回って、食い物にされる弱者を減らそうとする、エシカル消費SDGsが意味を持つ。

 

ジュール・ヴェルヌの作品の中では、八十日間世界一周が今でもやっぱりいちばん好きで、なぜ好きなのかと考えた時、紳士が最後まで紳士であり続ける姿を描いた、完全無欠のファンタジーだから。

 

数値目標もなく漠然とモラルに任せたら、モラルの高い人の負担になって堕落した方がお得な道がくっきりはっきり見えるようになった時、紳士淑女でさえレールを降りる。だってその方が「お得」なんだから。

 

八十日間世界一周の主人公であるフォッグ氏は、あなたこそ泣きたい時もあったでしょ?という事態を何度経験しても、決して荒ぶることもなければ紳士の仮面を外すこともない。紳士以外の顔を持たず、最後まで紳士であり続けた。そんな人、現実世界には滅多にいない。大勢の人の生活がかかった身で、ぐれた方がお得な道を示された時でもその誘惑に負けず、最後まで紳士淑女であり続ける人は誰なのか。

 

不謹慎だけど、賭けの対象としてとっても面白そう。

 

道具が環境になる時。お得な道を示されたら、誰もがモラルをかなぐり捨ててぐれるような環境になったら困るじゃない。モラルは、数の力に負けないための仕組み。環境悪化をわざわざめざす意味は、マッチポンプ以外になし。よい環境をめざしたいのなら、環境にとってもいい人や組織を理想、行動基準にした方がよりよい環境に近づけそ。

こっそり秋

最高気温が20℃を下回るようになると、秋の気配を濃厚に感じる。薄着でフラフラ出歩いてると、風邪引きそう。

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銀杏が地面を覆うようになると、本格的な秋。

先日は、旬のくだものを買いにちょっとそこまで出掛けてきた。観光客はまばらで、どこも空いていたのが印象的。今現在や、あるいは週末や連休はどうだか知らね。空いているから逆に、観光客に押し出される形で観光をあきらめていた場所も、今だったら行きやすい。行きたかった場所があるなら。の話ではあるけれど。

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これはズミの実。美味しそうだけど、カラスはソッポ向いてるから不味いのかも。

些細なことも、自分の目で見て確かめるに限る。

 

価値のないものにも高値が付くとき、もっとも得するのは手数料収入を得ている人。完成したものをクルクルあるいはコロコロ回転させて、得られる利益の方が大きいから。

 

すべてのものが値上がりしたら、買い替えるにしたってキャピタルゲインには期待できない。期待できないから二度三度、あるいは小規模なものを含めたらもっと多くのバブルを経験してる人は、早々動かない。

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いつ見ても、ほれぼれするほどきれいねー。

投機よりも実需にもとづいた業界で、何もない状態から完成品を仕上げられる力を持った人や組織が、完成品を回転させるだけの人や組織に実権を握られたあとの世界は蠅の王。

 

事態や業界をハンドリングできないものが、できないままに大いなる権力を握ると、どうしてこうなっちゃったのかという終末的世界が出現するのかも。かもかも。

 

大人の居ない異世界に放り出された少年達が、諍いやトラブルを乗り越えて大団円を迎える十五少年漂流記と、状況は同じでも結末には大いなる違いがあるのは何故なのか。作者の個性と言ってしまえば、それまでだけど。昇華されないままの苛烈な従軍体験を、そのまま濃厚に作品に反映させると、同じような少年漂流モノであってもまったく違った暗黒作品が出来上がるのかも。

 

大人が居ない、居なくなるのが戦場なんだというメッセージは、大人に居て欲しかったという願望の裏返し。

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カモがいっぱい。

苛烈な体験をできるだけそのまま描き出したいのか。苛烈な体験を昇華して、絵に描いた餅、これが本当になればと理想を描くのか。苛烈な体験そのままは、同時代の人間にとっては刺激が強過ぎて目を背けられがち。

 

理想を語る場で本音を剥き出しに。本音を剥き出しにする場で理想を語ればお門違いと嘲笑される。場違いではあっても、実現することがないと知ってるからこそ大きな声で語られ続けるお題目こそ、もう聞いちゃいられねぇとダメ出しするのがリアルってもんで。

 

仮想あるいは虚構とリアルが地続きになると、そりゃもういろんなことがあからさまになって説得力に欠ける。一枚の映像、あるいは画像の方が説得力を持つのはそんな時。

 

この辺りでもそろそろ紅葉の気配。観光客の姿も、ないわけじゃないけど観光客フレンドリーな場所がどこなのか。判断がつきかねて、どうしましょな風に見えた。

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秋の早い郊外に行けば、例年よりゆったりとした環境で紅葉を楽しめる気はするけれど。先月引いた大風邪が今でも後を引く身では、遠出にはどうも乗り気しないから近場で済ますんだけどさ。

有限と無限

有限は無限を包摂できないのは考えたら当たり前のことで、限り、限界が見えたらその形も変わって当然。

 

香港あるいはシンガポール。限りある土地はどこも都市化されて高層化され、あの国あるいはあのエリアで、平屋建てあるいは低層でゴルフ場のように広大な庭を持つ大邸宅は、歴史的建造物、あるいは公権力の象徴でもないともはや許されそうもない感じ。

 

日本でも、想像を絶する私的な大豪邸を大都市に新たに作るのはもはや暴挙に近いから、小さいけれどべらぼうに高価なものや、形もないのに高価なものへとマネーが動いてるような気がしてしょうがない。

 

日本の都市、特に東京あたりを上から俯瞰した写真を見ると、大都会なのにむしろ高層ビルの少なさに驚く。地震が多いという地理的事情によって、香港あるいはシンガポールみたいに、見渡す限りビルだらけという景色になるのを免れてるのかも。

 

それでもひと昔前に比べれば、局所的には見渡す限りビルだらけな景色に近付いてはいるんだろうけどさ。限りある土地では横に広がれないから、上へと伸びていく。無限に流入し続ける新規人口を包摂しようと思ったらそうなって、上へと伸び続けたら当分の間はキャパだけは余裕ができるけれど、キャパ以外の余裕はそりゃなくなっていくわな。

 

人が増えたら、あらゆるエネルギーが今まで以上に必要となる。

 

今見ても惚れ惚れする、ひと昔前に自然エネルギーを取り込んで快適さを追求して建てられた建物は、どれも立地に余裕がある。余裕があるから、日が差して風が抜ける。余裕がないと自然の恩恵からも遠くなって、人為的なエネルギーフル稼働で何とかするしかない。

 

低層あるいは平屋建てで広大な庭を持つ大邸宅は、今の都市では贅沢品で、かといって人里離れた場所に建てれば、今度はセキュリティ面が心配になりそう。

 

圧倒的収入格差を誇示した大邸宅がポツンと一軒、粗末な建物が建ち並ぶなかに現れたら、圧倒的マイノリティだからそりゃ目立つ。そしてマイノリティに対してマジョリティが時にひどく横柄かつ横暴に振る舞うことを知ってる人は、マイノリティ同士で固まるようになる。

 

資産家が集まる高層住宅は、見方を変えればマイノリティの巣窟。数では持たざる人に負けるから。ついでに、持たざる人は世界的に見れば増え続けていてマジョリティだから。

 

マイノリティはマイノリティ同士で共感しやすいから同種でつるむのも納得で、つるむための巣窟ができて、マイノリティのための権利擁護にも熱心になるのかも。かもかも。

 

国土が広くてバラけることができたら、個々のマイノリティも目立たずにすむかもしれないけれど、生憎国土が狭くて居住に適した土地も圧倒的に少なかったら、嫌でも集住が進んで、ひとかたまりになっていく。

 

半世紀にはちょっと足りないくらいの昔に、秘境を訪ね歩いた紀行文を読むと、北海道のまちがいくつかランクインしていた。今となっては秘境と言われたら違和感を覚える場所と、今でも秘境の雰囲気濃厚な土地と。何が違うのかと考えたら、近郊で集住が進んだかどうかの違いかも。

 

集住で膨張した街が近くにあれば、ついでに秘境も秘境でなくなっていく。だから上へと伸びさせずに横へと広がるようにすれば、香港やシンガポールのように高層ビルだらけにもならずにすみ、その価値があるとは思えない物件に、高値がつくこともなくなりそう。

 

ついでに自然エネルギーを利用できたら、人為的なエネルギーに頼ることも少なくなりそうなんだけどさ。

 

古い紀行文には札幌の郊外は泥炭地でできていて、客土で土地改良したなんてサラッと書かれていた。その土地の来歴がある日突然途切れると、思いがけない悲劇が起こるもんだと感慨も深い。来歴は、判断しやすくしたデータに含まれてるのか否か。判断の妨げになる攪乱要素は、だいたい効率重視の場所からは疎外されるから、独立したデータになるんだよな。