クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

環境と倫理

地底旅行月世界旅行、そして海底二万里。宇宙開発に海底探査に地底探査のうち、宇宙開発以外は産業に育ったとは言い難く、アカデミックの領域プラスアルファに留まっているのは、夢を見させる力が足りなかったから。

 

夢見る人、そうあれかしと願うワナビーが多い業界周辺には、夢破れた人の居場所もふんだんに転がっている。夢破れた人でも食っていかなきゃだから、夢破れた人の多さが周縁産業を盛り上げて、逆説的に産業として成長させる推進力になってるのかも。

 

周縁産業によってセカンドキャリア以降の道も開かれていたら、夢に賭けるリスクも低くなって、ついでに参入障壁も低くなる。

 

薄利多売でも利益が出る仕組みに、薄利じゃなくて暴利が流れ込むようになったら坊主丸儲けで大儲け。大きな利益にも浮かれず騒がず散財せず、次に暴利が流れ込むタイミングに向けて、薄利で回す仕組みをまた新たに作って回す。

 

面白みにも浮き沈みにも欠けるけれど、面白いに舵を切って短命で燃え尽きて終わるには多過ぎる他人の人生も背負ってたら、ギャンブルとは縁遠くなって当然。イチかバチかに賭けられるのは、そもそも背負ってるものが少ない人。

 

エシカル消費SDGsは、血と汗と涙でできたものなんかイラネーという強者の理論をオブラートに包んだものとも言えて、血と汗と涙とは縁が薄い。

 

倫理だけで行動できる人は、そもそも強者。

 

予算に限りがあれば価格重視、選ぶ時間も惜しければ目に付いた売れ筋で十分。機能にこだわりがあれば機能にこだわって選ぶのが、フツーの判断基準。そもそもすべての行動にまずは倫理を優先させるなんてことは、余裕あってこそ。余裕があるからと我が身を削っていくうちに幸福な王子状態となって、なんだかみすぼらしいと他者に蔑まれるようになってもまだ、余裕をかませるのか差し出せるのか。

 

結局は削っても削っても泉が湧き出るように、余裕が沸いて出てくる強者しか、倫理だけで行動できる人枠には残らない。

 

倫理だけで行動できない人は、言い換えればみんな弱者。

 

弱者は弱者を食い物にしがちだから、最後まで弱者にならない、誰も食い物にしないししなくてすむ強者こそが、最終的には弱者を守れるとも言える。だから一周回って、食い物にされる弱者を減らそうとする、エシカル消費SDGsが意味を持つ。

 

ジュール・ヴェルヌの作品の中では、八十日間世界一周が今でもやっぱりいちばん好きで、なぜ好きなのかと考えた時、紳士が最後まで紳士であり続ける姿を描いた、完全無欠のファンタジーだから。

 

数値目標もなく漠然とモラルに任せたら、モラルの高い人の負担になって堕落した方がお得な道がくっきりはっきり見えるようになった時、紳士淑女でさえレールを降りる。だってその方が「お得」なんだから。

 

八十日間世界一周の主人公であるフォッグ氏は、あなたこそ泣きたい時もあったでしょ?という事態を何度経験しても、決して荒ぶることもなければ紳士の仮面を外すこともない。紳士以外の顔を持たず、最後まで紳士であり続けた。そんな人、現実世界には滅多にいない。大勢の人の生活がかかった身で、ぐれた方がお得な道を示された時でもその誘惑に負けず、最後まで紳士淑女であり続ける人は誰なのか。

 

不謹慎だけど、賭けの対象としてとっても面白そう。

 

道具が環境になる時。お得な道を示されたら、誰もがモラルをかなぐり捨ててぐれるような環境になったら困るじゃない。モラルは、数の力に負けないための仕組み。環境悪化をわざわざめざす意味は、マッチポンプ以外になし。よい環境をめざしたいのなら、環境にとってもいい人や組織を理想、行動基準にした方がよりよい環境に近づけそ。