クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

こっそり秋

最高気温が20℃を下回るようになると、秋の気配を濃厚に感じる。薄着でフラフラ出歩いてると、風邪引きそう。

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銀杏が地面を覆うようになると、本格的な秋。

先日は、旬のくだものを買いにちょっとそこまで出掛けてきた。観光客はまばらで、どこも空いていたのが印象的。今現在や、あるいは週末や連休はどうだか知らね。空いているから逆に、観光客に押し出される形で観光をあきらめていた場所も、今だったら行きやすい。行きたかった場所があるなら。の話ではあるけれど。

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これはズミの実。美味しそうだけど、カラスはソッポ向いてるから不味いのかも。

些細なことも、自分の目で見て確かめるに限る。

 

価値のないものにも高値が付くとき、もっとも得するのは手数料収入を得ている人。完成したものをクルクルあるいはコロコロ回転させて、得られる利益の方が大きいから。

 

すべてのものが値上がりしたら、買い替えるにしたってキャピタルゲインには期待できない。期待できないから二度三度、あるいは小規模なものを含めたらもっと多くのバブルを経験してる人は、早々動かない。

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いつ見ても、ほれぼれするほどきれいねー。

投機よりも実需にもとづいた業界で、何もない状態から完成品を仕上げられる力を持った人や組織が、完成品を回転させるだけの人や組織に実権を握られたあとの世界は蠅の王。

 

事態や業界をハンドリングできないものが、できないままに大いなる権力を握ると、どうしてこうなっちゃったのかという終末的世界が出現するのかも。かもかも。

 

大人の居ない異世界に放り出された少年達が、諍いやトラブルを乗り越えて大団円を迎える十五少年漂流記と、状況は同じでも結末には大いなる違いがあるのは何故なのか。作者の個性と言ってしまえば、それまでだけど。昇華されないままの苛烈な従軍体験を、そのまま濃厚に作品に反映させると、同じような少年漂流モノであってもまったく違った暗黒作品が出来上がるのかも。

 

大人が居ない、居なくなるのが戦場なんだというメッセージは、大人に居て欲しかったという願望の裏返し。

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カモがいっぱい。

苛烈な体験をできるだけそのまま描き出したいのか。苛烈な体験を昇華して、絵に描いた餅、これが本当になればと理想を描くのか。苛烈な体験そのままは、同時代の人間にとっては刺激が強過ぎて目を背けられがち。

 

理想を語る場で本音を剥き出しに。本音を剥き出しにする場で理想を語ればお門違いと嘲笑される。場違いではあっても、実現することがないと知ってるからこそ大きな声で語られ続けるお題目こそ、もう聞いちゃいられねぇとダメ出しするのがリアルってもんで。

 

仮想あるいは虚構とリアルが地続きになると、そりゃもういろんなことがあからさまになって説得力に欠ける。一枚の映像、あるいは画像の方が説得力を持つのはそんな時。

 

この辺りでもそろそろ紅葉の気配。観光客の姿も、ないわけじゃないけど観光客フレンドリーな場所がどこなのか。判断がつきかねて、どうしましょな風に見えた。

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秋の早い郊外に行けば、例年よりゆったりとした環境で紅葉を楽しめる気はするけれど。先月引いた大風邪が今でも後を引く身では、遠出にはどうも乗り気しないから近場で済ますんだけどさ。