クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

『ナポレオン』は当事者視点のナポレオン

世界史上のスーパースター、ナポレオン・ボナパルトを描いた史劇『ナポレオン』を見てきた。

 

素材はスーパースター。なのに、二時間半というスーパースターを描くには短すぎる上映時間内で、スーパースターをどう描くのかが一番の関心事。

 

ロザリー、あるいはロザリー的な人物が登場するんだろうかと楽しみにしていたけれど、わりと早々に、あっこれロザリーは絶対出てこない路線だとわかった。
(注:ロザリーはベルばらの主人公オスカルに妹のように可愛がられ、伯爵家に引き取られて貴婦人のように育てられながらもジャーナリストと結婚する女性)

 

それくらい、フランス革命前後のフランスとヨーロッパ史の基礎は、『ベルサイユのばら』を筆頭に少女漫画で出来上がっている、言ってみれば池田理代子史観から見た『ボナパルト』。

 

マリー・アントワネットの首が切り落されるところから、物語はスタート。つまり、王も女王も不在で権力の空白地帯から皇帝にまで登りつめていく過程を当事者視点、ナポレオンの視点で進んでいく。

 

彼の目に映る主なものは、眼前の敵と愛すべき対象。

 

イギリス軍だったり主義の異なる同胞だったりイタリア軍・ロシア軍と敵は次々に入れ替わるけれど、愛の対象は一貫してジョゼフィーヌで、敵と愛すべき対象しかない状態が、彼にとっては最も幸福で満たされている。

 

敵と愛すべき対象の二者しかいないから、滅茶苦茶できた。だけど皇帝となって王朝の始祖となり、敵であり味方でもある存在が複数存在する世界となった時、快進撃は続かなくなった。

 

軍事政権が権力を掌握したあとに必要なものは外交で、下級軍人から皇帝に成り上がった軍事政権は軍事には強くても外交は弱かった。

 

軍事の天才とはいえ、ナポレオンは織田信長と違ってパリは焼かない。パリ=都は焼かない、つまりブルボン王朝が残した特権階級の遺物は我が物にして”花のパリ”を温存して繫栄させようとしたとき、奢侈に贅沢なパーティに放埓にと王朝の負の遺産も受け継ぎ、軍事政権から牙が抜かれていく。

 

というのは鑑賞者の視点であって、映画は当事者視点で進行していくから、戦闘か奢侈に溺れているか、報告を聞くか指示を出しているかというシーンが続く。

 

世界史上のスーパースターは描きやすい反面、何しろスーパースターで世界を変えた人物だから、同時代人からは正当に評価されづらい。熱烈な心酔者が描けば賛美と美化に終始する。蛇蝎のように嫌うアンチが描けば、好意的に描かれるはずがない。

 

スーパースターであっても結局は、戦場に非戦闘員をも兵士として送り出し死なせた大量虐殺者のでくの坊。という視点は古いのか新しいのか。

 

たった一人の責任に転嫁できるものでもないという視点を欠いたまま、世界を決定的に変えた。その結果、旧世界から大量の死者が出たんだから単なる大量殺人者という視点で歴史を眺めるようになったら、世界史から英雄も偉人も消える。

 

例えばナポレオンを、技術力を切り札に起業して寵児となった新興企業という風にとらえると、歴史に興味関心が薄く馴染みがない層にも理解しやすくなる。

 

技術力(=武力あるいは軍事力)で世界と戦うことはできても、結局は非軍事力が充実した当時のヨーロッパにおける先進国であるオーストリアハプスブルク家やロシアのロマノフ家にはかなわず、ボナポルト家は続かなかった。

 

という風に例えることもできて、ハプスブルクやロマノフを日本を代表する巨大企業、例えばトヨタユニクロあるいはソフトバンクあたりに。あるいは巨大グローバル企業であるグーグルやアマゾンあたりに置き換えると、そんなもん相手に何年も戦争続けられるわけないということがすぐわかり、軍事政権から抜けた牙の現在地はきっとそっち。

 

マリー・アントワネットの母マリア・テレジアは子だくさんで、その子供たち(=子孫)はヨーロッパの王侯貴族と繋がっている。という状況あるいは包囲網のなか、王侯貴族との繋がりを新しく築いていかねば王朝にはなれず続かず、王朝が続かなかった怨嗟を一身に浴びることになって、大量殺戮者扱いされる。それが、新興企業もといナポレオン。

 

ベルサイユのばら』で大成功して巨匠となったあと。巨匠というポジションにふさわしい影響力を存分に発揮しつつ、時間も(恐らく費用も)たっぷり使って描かれたナポレオンと違って映画はたったの二時間半。

 

ナポレオン法典を制定した、睡眠時間はほんの数時間で恐ろしいほどの勉強家だったという従来のナポレオン神話にはまったく触れていない。

 

チープかつチートにモノが作れる時代だからこそ、スーパースターを素材にチートかつチープにモノを作るのは、作れてしまうだけに恐ろしい。

 

最長でも3分を超えない。予告動画がもっとも出来がよく、コピーを含めて宣伝こそがもっとも見るべきものという現象は、動画全盛かつ可処分時間の奪い合いという”今”をこれ以上ないほど反映してる。

 

『ナポレオン』を見たのは、新しくできたココノススキノで。映画館のあるフロアからは、キラキラピカピカの街がきれいに見れる。同じフロアにはカプセルトイの売り場もあり、お子様向けのお菓子もちゃんと売っている。


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(もうちょっと雪が降っていると、よりフォトジェニック)

ほんの10年前、関東以北で最大の歓楽街であるすすきのの玄関口ともいえるこの場所に、ベビーカーを押してあるいは手を引いて、大量のお子様連れがやって来るなんて想像できただろうか。

 

そして常識でははかれない非常識を押し通すと、常識では突破できないものが出来上がる、おまけは殺人者の烙印。という作品をオープニングに持ってくるあたりはやっぱり土地柄。

 

動画ではなく映画を、脚本家や監督あるいはアクターといったスポットライトが当たりやすいポジションではない立場で支えていた。そういう人達に、この映画で最も真似したいのはどこですか?と聞いてみる、あるいは実践してもらうのは作品の成否を最も正しく評価する方法かも。かもかも。


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右を見ても左を見ても、ビルの上の観覧車が、とってもよく見えた。不思議ねー、さすが関東以北で最大の歓楽街。