クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

昔は、おっかない

流行りすたりの原因は一緒であることが多く、流行り、隆盛を呼んだものが衰退の原因となることは、ままあることなんだとか。歴史の本を書いてる人によると、そうなんだってさ。

 

隆盛をもたらした人は、隆盛をもたらした功によってそのまんま権力者におさまることが多く、権力者が国や組織が傾くようなバカやらかしても諫言できる人は早々いないから、バカやらかした結果として国や組織が傾くのは納得しかない。

 

近頃のロシアでは、共産圏だったソビエト連邦時代を懐かしむ人が多いんだとか。これもニュースで言ってただけだから、真偽は知らね。

 

とはいえ資本主義がその本性を剥き出しにした時、もっとも食い物にされるのは弱者。パイを増やすのに限界が来たら、次に来るのはパイの奪い合い。奪い合うなかで競り負けるのは、だいたいいつも弱者。ということを思えば、食い物にされるばっかりでうんざりした人が、食い物にされることはなかった(かもしれない)昔を懐かしむのもしょうがない。

 

昔はよかったと言い出す時は、だいたいいいことばっかり思い出して、悪いことや未来に持っていけないから置いてきたことについては忘れがち。

 

本当はどうだったか知らないけど、ソビエト連邦の末期は、今のベネズエラみたいな感じで報道されていた。市場機能が麻痺して市場にモノがなく、欲しいものが手に入らない人が街に溢れてた。

 

個人の自由は制限され、物資の不足で悩むこともなく自由を謳歌しているように見えた西側へと、亡命する人が絶えなかった。

 

でもさ、自由の代償として最低限の衣食住が保障されるなら、そこは刑務所と変わらない。同質な空間だからある種のコミュニティ意識も育ちやすく、コミュニティ意識があれば尊厳が木っ端みじんにされることはないとはいっても、自ら刑務所に入りたがるなんてどうかしてる。

 

弾圧や迫害。人権侵害はきっとあったに違いなく、あったとしても刑務所内の人権侵害が発覚しにくいように、国が後ろ盾となった人権侵害は、より発覚しにくい。そんな場所はイヤだから、個人の尊厳や自由に敏感な人ほど、早くから脱出をめざしたのが昔の姿。

 

昔が懐かしいのは、いい面だけ。いい面だけは懐かしくなるから、悪い面は都合よくすっ飛ばされがちで、悪い面を懐かしく思い出す人はいないから、すっ飛ばされる。昔はよかったという懐古よりも、昔はこんなにひどかったんだ、最低。と、感じる感性を持たない人ほど悪用も上手。これ、使えるやんとよからぬことに応用する。

 

例えば日本昔話でも、繁栄や安泰を願って人柱を犠牲にしたなんて伝わってるけど、現代ではアウト。

 

排外主義に、テロにつながる過激思想。とかく極端に走りやすく過激化しやすいイデオロギーは、現代にとっての呪い。本来呪いは解呪とセットで、呪いを解くことができたから、呪い、極端なイデオロギーや主義の提唱者であっても重宝された。かけた呪いを解くことができなかった人は、吊るされる。例えばフセインチャウシェスクのように。

 

処刑を免れた独裁者もいっぱいいるけどさ。

 

それは、国内やエリア内には極端なイデオロギーという呪いを解くことができる別の人が控えていたからで、他に変わる人材が早々見つからなかったら、独裁者の首切ってその首を吊るした方が、解呪には手っ取り早い。

 

排外主義に、テロにつながる過激思想。といった現代の呪いは、現代らしくプラットフォームを通して拡散する。

 

ランキングを覗くと下世話な話題に埋め尽くされたニュースサイトは、下世話だから排外主義やテロにつながる過激思想とは遠いという面もある。ヒット商品に新製品、あるいは今夜の献立に役立ちそうな情報やステキなインテリアに旅にアーティストやアスリートについてといった子供だましな話題は、子供っぽい人相応でちょうどいい。

 

失くして惜しい立場も面子もない子供っぽい人に、過激な思想を植え付けたら簡単に煽られる。

 

そもそも吊るしたところでどってことない、面子がないカオナシに首なしを吊るしたところでキリがない。次から次へとカオナシに首なしが現れて同じようなことを繰り返し、彼らが拡散する呪いは解きようもない。

 

極端な主張やイデオロギーを主張して大勢を煽るなら、都合が悪くなった時にはその面子も首も吊るせるように、顔ありで首つきに限る。解呪とセットで呪いをかける用意のある、費用対効果に厳しい権力者なら、そのくらいのことは考えて実装してそう。

 

極端な主張やイデオロギーといった現代の呪いは、立場も面子もある顔売ってナンボの人に任せるとより拡散しやすい。その反面、その主張やイデオロギーが意味をなさないようになったら、その首を吊るすしかない。主張を捨てたかどうか、まぎらわしくて判断に迷うから。

 

人任せにすると、人寄せパンダで拡散しやすく、拡散した主張やイデオロギーを取り消したい時にも便利。その首吊るせばいいだけだから。とはいえ、最終的に吊るされるとわかってる首、ほいほい差し出す人はいないから、相応の人材を見つけるのに苦労する。

 

プラットフォームを拡散装置と見た場合、下々の興味関心を拾い、極端な主張やイデオロギーから遠ざけているのかそれともなのか。そのあたりに、プラットフォームの性格もよく現れている。

 

大名旅行と言ったように、かつての日本では名のある人が境界を超えて他の国に入ることは、簡単ではなかったとか。鳴り物入りだったのは、境界を越えてきたというお触れ代わり。鳴り物が必要ない庶民は簡単に境界を超えることができたけど、境界を越えてやってきたよそ者は、時にその地の繁栄のための生贄とされた。というのも歴史の本が教えてくれること。

 

いい面もあったけど、どっちかっていうと知れば知るほど、事実があからさまになるほど昔の方がおっかない。なのに昔はよかったという人の方が、おっかないやね。