クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

室礼(しつらい)

隙間なく食材が詰め込まれていた冷蔵庫内の見通しがよくなると、お正月気分も薄くなる。

 

お正月飾り、といっても門松などの立派なものと違ってリースやちょっとした飾り物ばかり。7日まで飾るか15日まで飾るか悩ましいところ。クリスマス飾りだったら、お正月が来るからとさっさとしまい込めるんだけど。

 

後に控える行事が無ければ、のんびりお正月気分を味わいたい。のんびりお正月気分に浸りながら、節分(何を作って食べるか)とバレンタイン(何を買って作るか)についてゆっくり考えたい。

 

”外”からやって来たバレンタインのような行事と違って、節分や雛祭りそしてもちろんお正月といった行事に飾り物はつきもので。余裕があるほど飾り物も立派。

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目立つ場所や目立つ場所にある商業施設の飾り物は、意匠を凝らした季節が感じられるもので彩られ、目にも楽しい。


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クリスマス時期の景色。商業施設ではないところもピカピカキラキラだと、より余裕を感じさせる。

余裕があると見せかけるために背伸びするのは本末転倒。過度に華美である必要はないけれど、季節やイベントに合わせて室礼を意識して飾り付けるのは、付け込まれないためのある種の魔除けにも通じるものかも。

 

そうわかりつつ、室礼とはいっても簡素なもので済ますのは続く卒業・入学あるいは入社に転勤と移動の季節を控えているからで、やっぱり北国だけあって昔から北海道は移動が頻繁な土地柄だったんだろう。


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ホワイトイルミネーションは終わったけれど、観光客をおもてなしする駅前は、年が明けてもキラキラだった。

 

移動するとわかっていれば、壊れやすいものやただ嵩張るだけのものは持ちにくく貯め込みにくい。

 

だから、お手頃価格でいざとなれば手放しやすい。そういうものの方が好まれてきた。そういうことでもあるのかも。

 

そしてお手頃価格で手放しやすいものの方がよく売れるからと、よく売れるものの方が質がよくなって、大量にある高品質のものは時には一瞬で消費されるから、高品質なものが一瞬で蒸発するのかも。

 

大量に消費されるであろう高品質なものは一ヵ所に集めず、質の担保のためには分散がいいとなって東奔西走、あちこちへと買い回るようになるけれど。

 

バイヤーとはそもそもそういうもので、パソコンやスマホのディスプレイの前に座ってる人じゃないよねということになる。じゃあパソコンやスマホのディスプレイの前に座ってる人はどう呼べば?となるけれど、きっと”スポンサー”と呼ぶのがいちばん近いはず。

 

お金が必要になる時のため。いざという時には相応の負担を求められる側は、いつだってお金の動きを止めないもの。だからスポンサー。

お正月はハレの日

辰年にちなんで買ってみた、トロピカルフルーツの一種ドラゴンフルーツ。

 

糖度は8度ちょいだけあってさっぱりした味わい。スイカから水分を抜いてちょっとだけねっとりさせたような食感で、ややサクサク。キウイのような黒い種が散っているけれど、キウイのように気にすることなく食べられた。

 

ドラゴンという名を冠した名付けが、一番の関心かつ感心ポイント。

 

黒豆・栗きんとんにごまめにたたきごぼう紅白なます。ユリ根のイクラ和えにカニしんじょと帆立とほうれん草のしんじょ。豚ハム・ローストビーフに牛肉ロール、海老と山芋のうま煮にしめ鯖マリネ、筑前煮に大根のべっこう煮には焼き生麩をトッピング。カキのオイル煮込みにはギンナンを添えて、パクチーの明太子クリームチーズ和え。サーモンテリーヌに豚ハムとチーズのゼリー寄せ、ブリの漬け焼きに金柑のシロップ煮。それに買ったものを合わせれば、冷蔵庫はいっぱい。

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冷蔵庫よりもおもに胃袋の容量の問題で、今回はこぶ巻きもだて巻きも見送った。

 

例年のこととはいえ、年末におせち料理を作っていると比喩ではなく眩暈がする。眩暈がするほどの過負荷な作業は、好きでやってるから特に気にすることもなく平気でこなせるけれど、好きでもないのにやっていたら単なる苦行。

 

二度三度と回数を重ねるうちに過負荷でもなくなっていくから、何か新しいものを追加する。出来上がりももちろん大事。それ以上に、作るという作業そのものを体感する方が年中行事としては大事で、手抜きを考えるのは別の人のお仕事。

 

何しろ、そもそもやらなくてもいいことだから。

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材料を揃えるのがむずかしくなったかどうか。揃えた材料の質が良くなったか悪くなったか。作りたいと思っても作るための環境は変わっていくから、やっていることは料理や調理でも気持ち的には実験。

 

環境が刻々と変わりゆくなかで、今でも変わらずおせち料理という日本式の食文化が続けられるのかどうか。確かめたいのはそんなところ。

 

生まれも育ちも北海道の人から見れば、きっと違和感のある内容。出身地である関西から見たとしても作るものにはきっと違和感があるはず。お手本やサンプルに違和感あるいは苦手感があるから、自分で作りたくなる。

 

今年は家庭料理っぽさ、普段の食事でも出せそうなものを取り入れてみたので、お煮しめ筑前煮の味付けで濃くしてみた。しょうゆ大目になるから出来上がりは茶色っぽくなってしまうけど、味が濃いものは白いご飯との相性がいい。

 

家庭料理っぽいものをお正月に取り入れたくなるのは、環境由来の変化。環境に変化がなければ非日常性は増したはずで、例えばラム肉で煮込み料理みたいなものも作りたかった。

 

家人に評判がよかったのは、ごまめ。あらそんなものが美味しく感じるようになったんだと思うけれど、ごまめは作り立ての方がより美味しい。美味しく仕上げるのは面倒で、面倒な作業を厭うとあんまり美味しくないものになって別になくてもいいになりがち。

 

普段は口にしない小魚系はきっとカルシウム豊富で、ほんとは普段から食べた方がいいんだよなと思いながらもケーキを作るよりもハードルが高い。

 

そもそも面倒な工程が多く見栄えも大事だから、おせち料理は普段からお菓子を作り慣れていれば作りやすい。それでもケーキやお菓子を作る方が負担にならないというのも一種の教育の成果で、日本には目移りするほど美味しいお菓子がいっぱいなのも納得。

 

半端に余ってしまう食材は使いにくい。だから有効活用や使い回しの回路が開くと、余すことなく使い切れる。


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(師走にはまとまった雪が降り、雪国らしい年末の景色になった。)

だしを取る昆布は旅行先で買ったもの。旅行先でご褒美かつお土産用として買ったものだから、とても普段使いはできないもの。だしを取ったあとも有効活用したいから、次はあれを作ろうこれを作ろうになる。そうやって始末がつくと、たいへん清々しい。

何かしら、どこかしら新しい。

大通公園から北の方を見れば、今なら”絵に描いた道庁”が見える道庁南門。

 

道庁南門から南方向へ向かうと、10分~15分もあれば市電通りにも狸小路にも着く。桜が満開の季節だったら寄り道や回り道して桜見物するように、イルミネーションの季節はイルミネーションを見るための寄り道が増える。

 

しっかり防寒していれば暗くなってからのお散歩もそう悪いものではなく、暗くなってからといっても今頃の季節だと夕方4時にもなればもう暗い。だから、時間的には大して遅くない。

 

そもそも街中でのイベントだから、寒さを避けられる場所いっぱい。地下道が発達している札幌市内中心部は、街が雪に閉ざされていても歩く場所いっぱい。すべての地下道を足せば総延長は一体何キロになるのか知らないけれど、軽い運動やウォーキングにはちょうどいい。

 

そしてバスターミナルの改修やココノススキノの開業に合わせ、まるで止まり木のようにひと休みできる休憩スペースも出来た。

 

よく見れば地下道と繋がった商業施設内には、止まり木のような休憩スペースが大抵は用意されている。だけど商業施設内だけに、すぐそこ誰にでもたどりつけるわけではないから、目立つ場所に休憩スペースが出来たのはやっぱり変化。

 

狸小路からココノススキノまではすぐそこ。ココノススキノまでたどり着ければ、勝手知ったるもの。という、観光客以上札幌市民未満な人は結構な数がいるはず。

 

新幹線開業に向けて、札幌市内中心部は大工事中。大工事中だから、結構な数の観光客以上札幌市民未満な人達がより使いやすいように、動線も変わっていく。変わっていくけれど、資本・人員などなど北海道で生まれた(作った)富が他エリアへ流出しないよう、より配慮されているはず。

 

小腹が空いた、喉が渇いたと、ちょっと立ち止まれる場所が新しい商業施設開設とともに増えたけれど、その種の場所は観光客以上札幌市民未満の利用者や観光客の国際化を反映しているはず。

 

例えば東京都23区内で、今でも”江戸”を感じられる場所はごくわずか。

 

日本がニッポンになってNIPPONへと変化するように、国際観光地へと変化していく過程で今でも日本だと感じる場所と、そこはもうNIPPONとしか呼びようがない場所へと分岐していくものなのかも。

 

そして、日本からJAPAN への変化とNIPPONから JAPANへの変化と。どちらの方がより狭くて難しいものなのか。急激な変化を嫌う人や物は、変化に関する何らかの兆候を探しているような気がする。

 

点と点を結べば線になり、点を結んだ線が3本以上になれば面となる。3人寄れば社会ではないけれど、面となったスペースは陣地のようなものだから腰を下ろして休む場所だって作ることができる。

 

点でしか存在することができなかった。それが今では面となった。そういう変化でもあるのかも。

 

新幹線開業に向けての大工事が当分のあいだはゴール。ゴールに向かってのブラッシュアップは止まることがなく、ブラッシュアップを止めると都市の進化も止まって景色は変わらなくなる。

 

冬季のイルミネーションが始まってどれくらい経つのかわからないけれど、代わり映えしない景色を変化させるのは、きっと大変なこと。大変だからそのままでいいという声はきっと出るに違いないけれど、そのままを選んでブラッシュアップを諦めたとき、街の進化も止まってしまう。

 

今でも江戸を感じる、日本を感じる。そういう景色はブラッシュアップを諦めないからこそ保たれる景色で、ヴィンテージものの方が(今では手に入らないや入手困難な素材が使われているケースがあるから)結局は新しく作るよりはるかに高くつく。だからヴィンテージもの、歴史的建造物が多く残されている歴史ある街はお高い。

 

安売りしないし、安くならない。だからこそ力づくでも我が物にしたいと新興勢力がやってきても、お高いままだったらやっぱり手は出せない。その繰り返しがヴィンテージものが多く残されている景色で、作りっぱなしではなく時々で手入れされているからメンテナンスについての知見も貯まっていく。

 

同じことをしているようでも、何かしらどこかしら新しい。例えばクリスマスにお正月。料理ひとつとっても、定番が決まると新しいものは付け足しにくい。それでも新しいものを作りに行くのは止めないためで、新しいものを出し続けるのはやっぱり結構たいへん。

燃費よし

お正月といえば紅白の色合わせで、紅白の組合せ=めでたいだから紅白まんじゅうも縁起が良く、お祝いの席で使われる。

 

ブッシュドノエルにチョコレートケーキにアイスケーキ。Xmasのケーキもいろいろあるけれど、いちごのショートケーキは今でも人気。思えばいちごショートも赤と白で。めでたい=お祝い=縁起がいいという日本人の心性にぴったりくるから定着したのかも。かもかも。

 

赤はそもそも邪をはらう色。南天に千両や万両、赤い実を付ける植物をおめでたい正月に使うのも結局はそういうことなんだと思う。

 

Xmasにはケーキにプレゼント。年末には年越しで除夜の鐘をついて、お正月がくれば初詣。

 

一連の行動を言葉にすれば、”ちゃっかり”と”いいとこどり”。”ちゃっかり”と”いいとこどり”が、高度経済成長期における奇跡の経済成長の賜物と言われれば納得で、高度経済成長を果たした企業や国あるいはエリアには、大体”ちゃっかり”と”いいとこどり”マインドが根付いてる気がする2023年の師走。

 

12月ももう半分過ぎたの!?あと2週間ほどしかないの!?とビックリするばかり。今年はレジャーというより用事で出掛けることが多かった。


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ホワイトイルミネーションは、やっぱり雪が降った方がきれいで雰囲気がある)

 

ちょっと用事があってを英語で表現すると何が一番ぴったりくるのかよくわからないけれど。

 

レジャーはしたいことがいっぱいなら、用事はしなければならないことがいっぱいある状態。wantで欲求を満たしに行くわけではないから、用事で出掛ける時は要りようのものが過不足なく揃っていればそれでじゅーぶん。

 

ビジネスホテルというスタイルは、日本生まれ。と、言われても納得するくらい豪華すぎるのもビンボーくさいのもノーサンキューという中間層の気質によく合っている。

 

立地とコストとサービスを考えた時。出張や用事で出掛けるから場所は譲れない。譲れない場所で、豪華な内装より掃除が行き届いた清潔な部屋の方が好ましいになって、それが納得感のある値段であれば大体無問題。

 

大浴場に朝食がついてくるようになったのは、進化か退化か。出張が多くて長いヘビーユーザーの声を考慮したから生まれたものか。今では大浴場に朝食付きが当たり前になって朝食の中身も競うようになったけれど。

 

豪華、あるいはステキな朝食を食べたいのは欲求で、用事よりレジャー向き。

 

コンビニ含めてそもそも食事できる場所が圧倒的に少ない場所に行く(あるいは滞在する)。あるいは、体力をがっつり使うお仕事が待ってる人向けで、朝からしっかり食べるようにしましょうとなるなら用事向き。

 

と、泊まる場所を決める時には無意識に用事とレジャー向けを分けて考えている。一ヵ所での滞在が長くなると、用事を済ませた後や先にレジャーを楽しむ。というように用事とレジャーが混在するから、ビジネスホテルでもシティホテルでもない別の選択肢が必要になる。

 

次から次へとホテル、外からの来訪者を迎える施設ができていくけれど、欲望が多く満たしたい欲求をたっぷり抱えてる人の希望をまず叶えていくと、極端にエネルギー消費の多い建物が出来上がる。そしてエネルギーを満たすために次々と”用事”で呼ばれる人やモノが出現して、用事で出向く人やモノ向けの施設が必要になってできていく。

 

燃費が悪いとエネルギー補給が頻繁かつ欠かせなくなり、巨大なエネルギー源から人を逃さないような構造になる。

 

燃費がいいと頻繁にエネルギー補給しなくてもいいから、常にエネルギーをフル充填しなくてもいい。

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(市電の窓からの景色)

不夜城といえば、オールナイトで煌々とネオンが光り輝いているさまを想像するけれど。燃費が改善したからひと晩じゅうピカピカキラキラさせる必要はもうなく、安全のためのあかりがあれば十分で、燃費が改善したから不夜でなくてもいいのは、きっと進歩の一環。

観光客に優しい場所で観光する

ホワイトイルミネーションが始まったのに雪はなく、雪が降らない師走は師走気分も薄くて気持ちはまだ晩秋。

 

雪が降らないと秋が長い。秋が長くなると紅葉も長く楽しめる。今年は例年になく、北海道でも紅葉を楽しんだ人が多かったんじゃないだろうか。

 

マルセイバターサンドがきっと一番有名だけど、おやつとしてよく買うのは万作におふたりでにマルセイキャラメルあたり。

 

六花亭といえば北海道を代表するお菓子メーカー。帯広(より細かく言うと中札内村)にある観光施設”六花の森”には、ずっーと行きたいと思っていた。なので、紅葉のというより落葉の季節に行ってきた。


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国立公園に比べると、第一印象は思ったよりこじんまり。

 

ただしそれは、安心して緑いっぱいの景色のなかを歩ける範囲のことで、六花亭のカフェや工場あるいは美術館を含めた六花の森そのものはやっぱりべらぼうに広い。そしてただ広いだけでなく、広大な敷地内はどこもきれいに手入れされている。

 

あいにくの天気でも無問題なのは、美術館が点在しているから。悪天候でも観光できるよう設計されているくらい、観光客ウェルカム。


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(彫刻作品もいっぱいで、アートいっぱい)

六花亭の包装紙のように、色とりどりの花が咲くさまを楽しめるのは春や夏。だけど、紅葉あるいは落葉した森や林もまたいいもので、国立公園内の森や林を気ままにぶらぶら歩くのは時に危険と隣り合わせなことを思った時。観光客が安全に観光気分を満喫できる森はとっても偉大。

 

しかもその偉大な森が、もともとはお菓子、きっと今でも一番人気のバターサンドから始まったと思うとただ感動しかなかった。

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お土産にちょうどいいバターサンドのお値段、売れ筋は千円から1500円くらい?そのくらいだったら、自分へのご褒美としても絶妙に買いやすい。

 

お菓子は余裕の産物。とはいってもほんのちょっとの余裕で手が届く。ほんのちょっとの余裕が積み重なると人工の森が出来上がり、どこかで失われた自然の森の代わりに人工の森に落ちたお金がまたどこか別の場所で、自然の回復や文化の普及や振興に使われる。

 

机上の空論でも妄想でもなくそのシステムあるいはサイクルが、目の前に現実として現れている。そういう意味でも感動と感心しかなかった。

 

北海道に住んでいると、カフェに図書館に音楽などの文化ホール、六花亭の文化振興や普及にかける(かけた)情熱けた外れだとよく思う。その原資がそもそもはお菓子で、とっても贅沢ではないけれど”豊かさ”につながっている。

 

マーガリンではなくバターたっぷりで、クッキー生地もソフト。生ケーキほどではないけれど賞味期限はそう長くなく日持ちはしない。

 

毎日は無理でも時々ならOK。少数だけでなく万人に通じる。

 

その種の余裕が積み重なると、次の世代にも”豊かなもの”が残せて、豊かな森が出来上がる。

 

六花の森がある中札内村のほど近く、岩内仙峡という景勝地にも足を伸ばしてみた。今年は寒暖差が激しかったおかげもあってか、”仙峡”という名称がちっとも大げさでないくらい、紅葉が見事だった。


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十勝八十八か所のひとつであったり、岩内国民ほにゃらら(公園?)の文字が見えたり。六花の森が超有名観光地で管理が行き届いているのに比べると、野趣たっぷり。

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野趣たっぷりだから、現地に明るい人ほどより楽しめそうな場所。観光客はどこまで踏み込んでいいかよくわからないから、人目のある場所をグールグル。落ち葉を踏みしめながら、流れる水の音を聞きながら、紅葉のなかを歩くのはただ楽しい。

 

ただ楽しいけれど、自然のなかを歩くだけでもレジャーになって楽しいのは、自然の方がより貴重だと思っているから。

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自然、あるいは緑いっぱいが貴重だと思っていると、わざわざあるいは遠路はるばる足を伸ばす。はるばる出掛けてはみるけれど、自然が勝り過ぎるところへは行かないし行きたくない。という向きには、ハイシーズンを外していても人気の観光ルートで超有名観光地を含む北海道ガーデン街道は、それぞれに見どころがあった。

 


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(ここは真鍋庭園。見応えのある樹木がいっぱい)

そもそも北海道では秋が短い。その短い秋のいつ頃を狙って行けばいいのか、悩ましいところ。大雪山では9月もなかばを過ぎると紅葉が始まるけれど、六花の森が営業終了となる間際、10月の終わり頃でも紅葉が楽しめる場所は、探せば他にもいろいろあるはず。

ありし日の

かぼちゃのポタージュを作る時は、いつも皮まで使う。

 

色味は悪くなるけれど、煮物だったら皮ごと食べるから。勤労感謝の日に作るかぼちゃのポタージュは皮無しで。いつもなら使う部分を使わないとごちそうっぽく、雑味がないからいつもより美味しく感じた。

 

かぼちゃ、玉ねぎ、バターにブイヨンキューブ、牛乳と塩こしょう。ポタージュに使う材料はそれだけ。かぼちゃ以外の材料はすべて共通にして、かぼちゃの品種やブランドだけを変えて作れば、ブランドや品種の良し悪しがよくわかる。

 

かぼちゃの出番が最も多くなるシーズンに、一番美味しいかぼちゃを用意するなら良心的。出番が多くなるからと在庫一掃の機会にするなら良心少なめか非良心的。

 

心の中の閻魔帳はそういう機会に着々と積み重ねられ、年単位で積み重ねられた良し悪しの天秤となる。良心的な商売人だったかどうかは、やる前からわかっていることなんだろう。

 

ふた昔かそれよりもう少し前。京都の寺町二条には、”せいほう”というケーキと紅茶の店があった。

 

どのケーキも美味しかったけれど、今でももう一度食べたいと思うのはりんごやチェリーなどフルーツを使ったもの。美味しいチェリーパイが比較的色んなお店に並び出した頃でもあって、その前か後ではチェリーパイが好きな主人公が活躍するアメリカのテレビドラマが人気だった。

 

国内(=制作国)だけでなく、海外でも大人気。その種のエンタメ作品の凄さ、あるいは偉大さは案外そんなところにあって経済波及効果が抜群で、抜群の経済波及効果を使って売り出すものが決まっているとヒットするのも確実となって、ホームランは無理でも出塁は確実。ヒット作の蛇口が細いと、その種の予測も比較的簡単だったのかも。

 

”せいほう”の近くには”トラモント”というイタリアン、というよりパスタのお店があった。そっちは今でもあるはず。料理によってはかなり塩気がきつく、塩気はきついけれど美味しかった。本場のイタリアンはそんなものというよりは、平均的に美味しいイタリアンのお店が増えたら塩気のきつい味は個性となって、記憶に残りやすい味となる。

 

”せいほう”にはある時から軽井沢の先生こと、内田康夫が好きだというチョコレートケーキ(ドライフルーツ入り)が並ぶようになった。本当に内田康夫がその店やケーキが贔屓だったのかどうかはわからないけれど、お気に入りのケーキと一緒に売られていた内田康夫という名前は、ケーキを思い出すたびにセットでついてくる。

 

浅見光彦シリーズが好きだけれど、好きというだけでその内容はビタいち頭の中には入っていない。

 

多分女性人気がより高い、浅見光彦というキャラクターはある種の女性の願望を体現している。良家のおぼっちゃま≒王子様で、近親者は国家権力者。小さなコミュニティでは暴くことも正すこともできない不正や腐敗を正す存在だから、好かれて好まれる。

 

それはつまり、国家権力という強権でもないと正すことができない、不正や腐敗を不快感とともに身近に感じている女性たちの多さにもつながってる。あるいはいたんだろう。

 

見た目も家柄も性格も。いいに越したことはないけれど、見た目がいいだけでも家柄がいいだけでも性格がいいだけでもダメで浅見光彦じゃない。不正や腐敗を正す国家権力へのショートカットという機能が付いてないと、浅見光彦タイプの王子様にはなれない。

 

正すことのできない王子様≒おぼっちゃまは、世知に長けた女性にとってはカモでしかない。

 

その繰り返しが相互不信の歴史で、現実には浅見光彦のようなキャラは滅多に存在しないとわかっている。

 

絶対的な信頼を勝ち得ている人、場合によっては人々は、相互不信の歴史から不信を取り除いた人や人々で、それなり以上のことをやってきたという歴史の積み重ねは、属人。人に属すものだから、歴史を積み重ねないと代わりにはなれないし、ひょっこり代わりが現れるものでもなく、ましてや人でないもの(=組織)では代われない。

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勤労感謝の日のワンプレート。カマンベールのチーズフォンデュにタラモサラダ風ポテサラ、手作りソーセージにかぼちゃのポタージュスープを添えて。ポタージュはいつもよりきれいな黄色に仕上がった。ソーセージは手作りしたものより市販の粗挽きソーセージの方が断然美味しい。断然美味しいけれど、買えばいいものをわざわざ手作りすると、よりホリデーっぽい。

富士は日本一の山

田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ

 

十人十色の10倍だけあって、百人一首は叙情でも叙景でも多彩。技巧を凝らしたものもあれば、素朴なものもあり、巧拙という点でも多彩。

 

春夏秋冬それぞれの季節に寄せて、嬉しい楽しいといったポジティブな感情だけでなく、寂しいや例えば花の盛りが過ぎたことを残念に思うようなネガティブな感情も扱ってる。

 

大別すれば歌に景色や季節が織り込まれているものと織り込まれていないものがあり、自由気ままな外出は、和歌を作るような階級では特別な機会だった時代を反映してるようにも思える。『ちはやふる』をじっくり読み込めば、そのあたりの背景にはもっと詳しく踏み込んでるかもだけど、精読してないので雰囲気でそう感じただけ。

 

外に出ないから季節も自然も景色もなく、あるのは自身の内部。ただ己の内部から生まれたと思われるような歌は、より技巧に勝ってるように思えるのもきっと気のせいじゃない。自省や内省の時間が長く、言ってみればたっぷりの練習時間があれば技術は向上する。

 

景色や風景を織り込んだ歌は、万葉の昔から四季があった日本の伝統っぽく、万葉からの連続性を感じる。

 

景色の中に身を置いて自身の感情を歌った歌が多いなか、ただシンプルに富士山に雪が降る情景を歌った歌は、景色だけという点でだからちょっと変わってる。

 

そもそもは万葉集から来た(らしい)歌だから、素朴でもちっともおかしくない。おかしくないけれど、冠雪した富士山、あるいは富士山に雪が降る景色の美しさや素晴らしさを伝えるのに、言葉はいらない。

 

絶景を前にキレイねステキねと感想を連ねるのは鑑賞者で、素晴らしさや美しさを伝える発信者は、ただ美しさや素晴らしさを伝えることに専念さえすればいい。

 

カメラもスマホもなかった時代。目の前の素晴らしい景色をどう伝えようかと考えた時に景色だけを描写して、素晴らしい景色を前にした自身の感情は封印した。そのセンス、あるいは審美眼は、カメラが普及する時代の感性を恐ろしいほどに先取りしてる。

 

今では世界的観光地になった富士山を見て、びゅーてほー・わんだほーと世界中の人が思い思いに写真を撮っているに違いないけれど、びゅーてほー・わんだほーと千や万の言葉で伝える方が難しい。

 

富士山ってホントにキレイなの?と問われたら、ただ絶景だと思う富士山の写真を見せればいい。

 

Q:キレイなの? A:ほら、キレイじゃん。

 

自身の感情は脇に置いて、ただとある季節とある場所から見える富士山の景色だけを切り取って詠んだ歌は、シチュエーションとしてはそういう感じに思えて、一見すると技巧なんて何もないようで、“美しさの見せ方”あるいは“素晴らしさの表現”としてはとっても凝っている。

 

とっても凝ったものだから、凝った表現を見慣れた人(←百人一首の選者)もわざわざ選んだのかも。

 

口惜しいや恨み言っぽいネガティブな感情を扱った歌も百首のなかには選ばれているけれど、怒りといった感情、プロテストソングは見当たらないところも日本的。

 

百人一首的なものを現代で作ろうと思ったら、和歌ではなくJポップでもできそうだと思ったけど。

 

恋愛でも恋愛以外でも。自己の感情を扱ったものは多くても、季節や風景を織り込んだものは少なくて、とある季節とある風景を織り込んだものとなるともっと少なくなるはず。

 

卒業シーズンを別にすれば、今を生きる人にも通じる表現で四季を揃えることもきっと今となっては難しく、だから百人一首Jポップあるいは音楽バージョンは作るのが難しいのかも。かもかも。

 

言葉のレトリックは、一切なし。ただ山に雪が降っている。そのさまをありのままに描写するだけで美しさや素晴らしさが曲解されることなく誰にでも伝わるのなら、そもそもの素材が美しくて素晴らしい。

 

日本一の山を表現するのに、足し算ではなく引き算、余計なものは削ぎ落とす方を選んだ。その手法もとっても日本的。

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これは春先、雪で真っ白になっている羊蹄山。別名蝦夷富士。夏に見る羊蹄山とはまた違った景色。見慣れたはずの景色も、季節が変わるだけで見る印象が変わって新鮮。