クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

花びら餅と小豆

紅白のお餅(求肥)を重ねた姿を花びらに見立て、はさむ餡は白餡。一番の特徴は甘く煮た牛蒡(ごぼう)。

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(添えたのはミルクティー

お正月、というより新春に食べるお菓子”花びら餅”は、ごぼうというお節料理に欠かせない食材が使われているからよりお正月っぽくて新春らしい。

 

ごぼうは、食べるとごぼうだとわかる程度にはごぼうの風味が残り、それでいてしっかり甘く煮詰めているから柔らかい。白餡と甘く煮たごぼうを使った新春の和菓子として特に疑問も持たずに食べているけれど、出回り始めた時には珍しかったんじゃないだろうか。

 

三月の雛祭りにはひし餅にひなあられでお花見には花見団子、五月の端午の節句には柏餅で、六月には水無月。秋の十五夜には月見団子と季節や季節の行事と合わせて食べたくなるお菓子(和菓子)がいくつか思い浮かぶけれど。

 

行事にちなんだお菓子(和菓子)に共通するのは、特定のお店に限らずいろんなお店で買えること。

 

例えば半世紀。50歳年上の人(多分、記憶明瞭な人を見つけるのがすでに難しい)に、あなたの新春の景色、お正月に食べたものや過ごし方はどうでしたか?と聞き取ると、決定的に違うのはきっと食べるもの。

 

家庭で作ったお節は、一度では食べきれないストックが冷蔵庫に貯まる。何種類もお節を作るのは大変だけど、ごほうびは1月の半分、小正月まではきょう何作ろうと悩まなくて済むこと。冷蔵庫内のストックや買い置いた食材を、ただ使い切っていけばいいだけだから。

 

食べ過ぎ飲み過ぎた、胃にもお財布にも優しい七草粥小正月の小豆粥。本来小正月は鏡開きで、鏡餅でぜんざいを作るだったと思うけど、鏡餅を飾るとは限らず、お正月は和洋取り混ぜて甘いものを食べる機会も増える。だから、甘くないけれど小豆は使う、小豆粥にここ最近は落ち着いている。

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(黒豆は新しく作ったもの。まめまめしくありたい)

お節を自分で作るから冷蔵庫にはストックがあり、作らずに買って済ませるとお正月らしい食材も料理も小正月までもたずにあっという間に消費しつくす。昆布の佃煮は、お節を作る時のだし昆布の再利用。冷凍しておいて、時間ができた時に佃煮にした。

 

そんな風にお正月の景色は徐々に各々が暮らしやすいように変わっていく。変わっていくなかで残っていくのは、納得感のあるもの。お正月という季節感がありつつお正月以外にも使えそうなもの。

 

日常的にごぼうを料理に使っていれば、多少残ったところで無問題。

 

豚汁や寄せ鍋のような汁物に使うか、きんぴらや煮物に使うか、それともサラダに使うかかき揚げ(天ぷら)に使うか何を作ろうかと悩むだけ。

 

たたきごぼう(酢の物)、八幡巻き(肉料理)、煮しめ(煮物)とお節での出番が多いのも日常的な食生活での出番の多さを物語っている。使い回しがきくものは始末に困ることはないけれど、日常食でも出番の少ないものは始末に困る。

 

伝統的なお節の中身が変わっていくのはそのためで、現在ではNGな表現が過去はスルーされていたように、食文化も文化だけに中身が変わっていく。

 

そもそも使い回しがきくものの始末には困らず、多少需要予測が外れても価格や供給量で調整すればいいだけ。困るのはそもそも使い回しがきかない、出番の少ないもの。需要予測が外れて足りなければ忘れられるし、多過ぎれば新たな出番、新しい使い道を増やすことになる。

 

だから始末は、楽をする手段が増えるほどに難しくなって高度になり、高難度に耐えられる側のお仕事になっていく。

 

始末で最も簡単なのは、そもそも始末する必要などなくしてしまうこと。でもそれでは文化は残らない。

 

お正月にはピザにハンバーガー、あるいはカレーにギョーザやチャーハン。日常的にはそういったものをほとんど食べることのない人が”非日常”を楽しむためにお正月休みに楽しむ分にはいいんだけど。

 

非日常性が薄れて日常と地続きになり、単なる長期休暇ならクリスマス休暇にくっつけて、クリスマスにお節を食べる。というのも未来の姿としてはあるのかもしれない。

 

必要に迫られた時に取る手段に文化はない。あるいは文化は後回し。

 

紅白のお餅を花びらに見立て、白餡を包んで甘く煮たごぼうを添えた花びら餅も、最初はあるお店のものだったのかも。お店が消えても季節に食べるものとなれば文化は残る。

 

その季節さえ消えた時の文化の形を想像できた人が、文化とつながりあるいろんなものをいろんなものに託して残した、あるいは残そうとしてるんだと思った。


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一月は、北海道神宮が一年でもっとも賑わう季節。年末まではシロクマの雪像が木に張り付いていた。

室礼(しつらい)

隙間なく食材が詰め込まれていた冷蔵庫内の見通しがよくなると、お正月気分も薄くなる。

 

お正月飾り、といっても門松などの立派なものと違ってリースやちょっとした飾り物ばかり。7日まで飾るか15日まで飾るか悩ましいところ。クリスマス飾りだったら、お正月が来るからとさっさとしまい込めるんだけど。

 

後に控える行事が無ければ、のんびりお正月気分を味わいたい。のんびりお正月気分に浸りながら、節分(何を作って食べるか)とバレンタイン(何を買って作るか)についてゆっくり考えたい。

 

”外”からやって来たバレンタインのような行事と違って、節分や雛祭りそしてもちろんお正月といった行事に飾り物はつきもので。余裕があるほど飾り物も立派。

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目立つ場所や目立つ場所にある商業施設の飾り物は、意匠を凝らした季節が感じられるもので彩られ、目にも楽しい。


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クリスマス時期の景色。商業施設ではないところもピカピカキラキラだと、より余裕を感じさせる。

余裕があると見せかけるために背伸びするのは本末転倒。過度に華美である必要はないけれど、季節やイベントに合わせて室礼を意識して飾り付けるのは、付け込まれないためのある種の魔除けにも通じるものかも。

 

そうわかりつつ、室礼とはいっても簡素なもので済ますのは続く卒業・入学あるいは入社に転勤と移動の季節を控えているからで、やっぱり北国だけあって昔から北海道は移動が頻繁な土地柄だったんだろう。


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ホワイトイルミネーションは終わったけれど、観光客をおもてなしする駅前は、年が明けてもキラキラだった。

 

移動するとわかっていれば、壊れやすいものやただ嵩張るだけのものは持ちにくく貯め込みにくい。

 

だから、お手頃価格でいざとなれば手放しやすい。そういうものの方が好まれてきた。そういうことでもあるのかも。

 

そしてお手頃価格で手放しやすいものの方がよく売れるからと、よく売れるものの方が質がよくなって、大量にある高品質のものは時には一瞬で消費されるから、高品質なものが一瞬で蒸発するのかも。

 

大量に消費されるであろう高品質なものは一ヵ所に集めず、質の担保のためには分散がいいとなって東奔西走、あちこちへと買い回るようになるけれど。

 

バイヤーとはそもそもそういうもので、パソコンやスマホのディスプレイの前に座ってる人じゃないよねということになる。じゃあパソコンやスマホのディスプレイの前に座ってる人はどう呼べば?となるけれど、きっと”スポンサー”と呼ぶのがいちばん近いはず。

 

お金が必要になる時のため。いざという時には相応の負担を求められる側は、いつだってお金の動きを止めないもの。だからスポンサー。

お正月はハレの日

辰年にちなんで買ってみた、トロピカルフルーツの一種ドラゴンフルーツ。

 

糖度は8度ちょいだけあってさっぱりした味わい。スイカから水分を抜いてちょっとだけねっとりさせたような食感で、ややサクサク。キウイのような黒い種が散っているけれど、キウイのように気にすることなく食べられた。

 

ドラゴンという名を冠した名付けが、一番の関心かつ感心ポイント。

 

黒豆・栗きんとんにごまめにたたきごぼう紅白なます。ユリ根のイクラ和えにカニしんじょと帆立とほうれん草のしんじょ。豚ハム・ローストビーフに牛肉ロール、海老と山芋のうま煮にしめ鯖マリネ、筑前煮に大根のべっこう煮には焼き生麩をトッピング。カキのオイル煮込みにはギンナンを添えて、パクチーの明太子クリームチーズ和え。サーモンテリーヌに豚ハムとチーズのゼリー寄せ、ブリの漬け焼きに金柑のシロップ煮。それに買ったものを合わせれば、冷蔵庫はいっぱい。

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冷蔵庫よりもおもに胃袋の容量の問題で、今回はこぶ巻きもだて巻きも見送った。

 

例年のこととはいえ、年末におせち料理を作っていると比喩ではなく眩暈がする。眩暈がするほどの過負荷な作業は、好きでやってるから特に気にすることもなく平気でこなせるけれど、好きでもないのにやっていたら単なる苦行。

 

二度三度と回数を重ねるうちに過負荷でもなくなっていくから、何か新しいものを追加する。出来上がりももちろん大事。それ以上に、作るという作業そのものを体感する方が年中行事としては大事で、手抜きを考えるのは別の人のお仕事。

 

何しろ、そもそもやらなくてもいいことだから。

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材料を揃えるのがむずかしくなったかどうか。揃えた材料の質が良くなったか悪くなったか。作りたいと思っても作るための環境は変わっていくから、やっていることは料理や調理でも気持ち的には実験。

 

環境が刻々と変わりゆくなかで、今でも変わらずおせち料理という日本式の食文化が続けられるのかどうか。確かめたいのはそんなところ。

 

生まれも育ちも北海道の人から見れば、きっと違和感のある内容。出身地である関西から見たとしても作るものにはきっと違和感があるはず。お手本やサンプルに違和感あるいは苦手感があるから、自分で作りたくなる。

 

今年は家庭料理っぽさ、普段の食事でも出せそうなものを取り入れてみたので、お煮しめ筑前煮の味付けで濃くしてみた。しょうゆ大目になるから出来上がりは茶色っぽくなってしまうけど、味が濃いものは白いご飯との相性がいい。

 

家庭料理っぽいものをお正月に取り入れたくなるのは、環境由来の変化。環境に変化がなければ非日常性は増したはずで、例えばラム肉で煮込み料理みたいなものも作りたかった。

 

家人に評判がよかったのは、ごまめ。あらそんなものが美味しく感じるようになったんだと思うけれど、ごまめは作り立ての方がより美味しい。美味しく仕上げるのは面倒で、面倒な作業を厭うとあんまり美味しくないものになって別になくてもいいになりがち。

 

普段は口にしない小魚系はきっとカルシウム豊富で、ほんとは普段から食べた方がいいんだよなと思いながらもケーキを作るよりもハードルが高い。

 

そもそも面倒な工程が多く見栄えも大事だから、おせち料理は普段からお菓子を作り慣れていれば作りやすい。それでもケーキやお菓子を作る方が負担にならないというのも一種の教育の成果で、日本には目移りするほど美味しいお菓子がいっぱいなのも納得。

 

半端に余ってしまう食材は使いにくい。だから有効活用や使い回しの回路が開くと、余すことなく使い切れる。


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(師走にはまとまった雪が降り、雪国らしい年末の景色になった。)

だしを取る昆布は旅行先で買ったもの。旅行先でご褒美かつお土産用として買ったものだから、とても普段使いはできないもの。だしを取ったあとも有効活用したいから、次はあれを作ろうこれを作ろうになる。そうやって始末がつくと、たいへん清々しい。

何かしら、どこかしら新しい。

大通公園から北の方を見れば、今なら”絵に描いた道庁”が見える道庁南門。

 

道庁南門から南方向へ向かうと、10分~15分もあれば市電通りにも狸小路にも着く。桜が満開の季節だったら寄り道や回り道して桜見物するように、イルミネーションの季節はイルミネーションを見るための寄り道が増える。

 

しっかり防寒していれば暗くなってからのお散歩もそう悪いものではなく、暗くなってからといっても今頃の季節だと夕方4時にもなればもう暗い。だから、時間的には大して遅くない。

 

そもそも街中でのイベントだから、寒さを避けられる場所いっぱい。地下道が発達している札幌市内中心部は、街が雪に閉ざされていても歩く場所いっぱい。すべての地下道を足せば総延長は一体何キロになるのか知らないけれど、軽い運動やウォーキングにはちょうどいい。

 

そしてバスターミナルの改修やココノススキノの開業に合わせ、まるで止まり木のようにひと休みできる休憩スペースも出来た。

 

よく見れば地下道と繋がった商業施設内には、止まり木のような休憩スペースが大抵は用意されている。だけど商業施設内だけに、すぐそこ誰にでもたどりつけるわけではないから、目立つ場所に休憩スペースが出来たのはやっぱり変化。

 

狸小路からココノススキノまではすぐそこ。ココノススキノまでたどり着ければ、勝手知ったるもの。という、観光客以上札幌市民未満な人は結構な数がいるはず。

 

新幹線開業に向けて、札幌市内中心部は大工事中。大工事中だから、結構な数の観光客以上札幌市民未満な人達がより使いやすいように、動線も変わっていく。変わっていくけれど、資本・人員などなど北海道で生まれた(作った)富が他エリアへ流出しないよう、より配慮されているはず。

 

小腹が空いた、喉が渇いたと、ちょっと立ち止まれる場所が新しい商業施設開設とともに増えたけれど、その種の場所は観光客以上札幌市民未満の利用者や観光客の国際化を反映しているはず。

 

例えば東京都23区内で、今でも”江戸”を感じられる場所はごくわずか。

 

日本がニッポンになってNIPPONへと変化するように、国際観光地へと変化していく過程で今でも日本だと感じる場所と、そこはもうNIPPONとしか呼びようがない場所へと分岐していくものなのかも。

 

そして、日本からJAPAN への変化とNIPPONから JAPANへの変化と。どちらの方がより狭くて難しいものなのか。急激な変化を嫌う人や物は、変化に関する何らかの兆候を探しているような気がする。

 

点と点を結べば線になり、点を結んだ線が3本以上になれば面となる。3人寄れば社会ではないけれど、面となったスペースは陣地のようなものだから腰を下ろして休む場所だって作ることができる。

 

点でしか存在することができなかった。それが今では面となった。そういう変化でもあるのかも。

 

新幹線開業に向けての大工事が当分のあいだはゴール。ゴールに向かってのブラッシュアップは止まることがなく、ブラッシュアップを止めると都市の進化も止まって景色は変わらなくなる。

 

冬季のイルミネーションが始まってどれくらい経つのかわからないけれど、代わり映えしない景色を変化させるのは、きっと大変なこと。大変だからそのままでいいという声はきっと出るに違いないけれど、そのままを選んでブラッシュアップを諦めたとき、街の進化も止まってしまう。

 

今でも江戸を感じる、日本を感じる。そういう景色はブラッシュアップを諦めないからこそ保たれる景色で、ヴィンテージものの方が(今では手に入らないや入手困難な素材が使われているケースがあるから)結局は新しく作るよりはるかに高くつく。だからヴィンテージもの、歴史的建造物が多く残されている歴史ある街はお高い。

 

安売りしないし、安くならない。だからこそ力づくでも我が物にしたいと新興勢力がやってきても、お高いままだったらやっぱり手は出せない。その繰り返しがヴィンテージものが多く残されている景色で、作りっぱなしではなく時々で手入れされているからメンテナンスについての知見も貯まっていく。

 

同じことをしているようでも、何かしらどこかしら新しい。例えばクリスマスにお正月。料理ひとつとっても、定番が決まると新しいものは付け足しにくい。それでも新しいものを作りに行くのは止めないためで、新しいものを出し続けるのはやっぱり結構たいへん。

『ナポレオン』は当事者視点のナポレオン

世界史上のスーパースター、ナポレオン・ボナパルトを描いた史劇『ナポレオン』を見てきた。

 

素材はスーパースター。なのに、二時間半というスーパースターを描くには短すぎる上映時間内で、スーパースターをどう描くのかが一番の関心事。

 

ロザリー、あるいはロザリー的な人物が登場するんだろうかと楽しみにしていたけれど、わりと早々に、あっこれロザリーは絶対出てこない路線だとわかった。
(注:ロザリーはベルばらの主人公オスカルに妹のように可愛がられ、伯爵家に引き取られて貴婦人のように育てられながらもジャーナリストと結婚する女性)

 

それくらい、フランス革命前後のフランスとヨーロッパ史の基礎は、『ベルサイユのばら』を筆頭に少女漫画で出来上がっている、言ってみれば池田理代子史観から見た『ボナパルト』。

 

マリー・アントワネットの首が切り落されるところから、物語はスタート。つまり、王も女王も不在で権力の空白地帯から皇帝にまで登りつめていく過程を当事者視点、ナポレオンの視点で進んでいく。

 

彼の目に映る主なものは、眼前の敵と愛すべき対象。

 

イギリス軍だったり主義の異なる同胞だったりイタリア軍・ロシア軍と敵は次々に入れ替わるけれど、愛の対象は一貫してジョゼフィーヌで、敵と愛すべき対象しかない状態が、彼にとっては最も幸福で満たされている。

 

敵と愛すべき対象の二者しかいないから、滅茶苦茶できた。だけど皇帝となって王朝の始祖となり、敵であり味方でもある存在が複数存在する世界となった時、快進撃は続かなくなった。

 

軍事政権が権力を掌握したあとに必要なものは外交で、下級軍人から皇帝に成り上がった軍事政権は軍事には強くても外交は弱かった。

 

軍事の天才とはいえ、ナポレオンは織田信長と違ってパリは焼かない。パリ=都は焼かない、つまりブルボン王朝が残した特権階級の遺物は我が物にして”花のパリ”を温存して繫栄させようとしたとき、奢侈に贅沢なパーティに放埓にと王朝の負の遺産も受け継ぎ、軍事政権から牙が抜かれていく。

 

というのは鑑賞者の視点であって、映画は当事者視点で進行していくから、戦闘か奢侈に溺れているか、報告を聞くか指示を出しているかというシーンが続く。

 

世界史上のスーパースターは描きやすい反面、何しろスーパースターで世界を変えた人物だから、同時代人からは正当に評価されづらい。熱烈な心酔者が描けば賛美と美化に終始する。蛇蝎のように嫌うアンチが描けば、好意的に描かれるはずがない。

 

スーパースターであっても結局は、戦場に非戦闘員をも兵士として送り出し死なせた大量虐殺者のでくの坊。という視点は古いのか新しいのか。

 

たった一人の責任に転嫁できるものでもないという視点を欠いたまま、世界を決定的に変えた。その結果、旧世界から大量の死者が出たんだから単なる大量殺人者という視点で歴史を眺めるようになったら、世界史から英雄も偉人も消える。

 

例えばナポレオンを、技術力を切り札に起業して寵児となった新興企業という風にとらえると、歴史に興味関心が薄く馴染みがない層にも理解しやすくなる。

 

技術力(=武力あるいは軍事力)で世界と戦うことはできても、結局は非軍事力が充実した当時のヨーロッパにおける先進国であるオーストリアハプスブルク家やロシアのロマノフ家にはかなわず、ボナポルト家は続かなかった。

 

という風に例えることもできて、ハプスブルクやロマノフを日本を代表する巨大企業、例えばトヨタユニクロあるいはソフトバンクあたりに。あるいは巨大グローバル企業であるグーグルやアマゾンあたりに置き換えると、そんなもん相手に何年も戦争続けられるわけないということがすぐわかり、軍事政権から抜けた牙の現在地はきっとそっち。

 

マリー・アントワネットの母マリア・テレジアは子だくさんで、その子供たち(=子孫)はヨーロッパの王侯貴族と繋がっている。という状況あるいは包囲網のなか、王侯貴族との繋がりを新しく築いていかねば王朝にはなれず続かず、王朝が続かなかった怨嗟を一身に浴びることになって、大量殺戮者扱いされる。それが、新興企業もといナポレオン。

 

ベルサイユのばら』で大成功して巨匠となったあと。巨匠というポジションにふさわしい影響力を存分に発揮しつつ、時間も(恐らく費用も)たっぷり使って描かれたナポレオンと違って映画はたったの二時間半。

 

ナポレオン法典を制定した、睡眠時間はほんの数時間で恐ろしいほどの勉強家だったという従来のナポレオン神話にはまったく触れていない。

 

チープかつチートにモノが作れる時代だからこそ、スーパースターを素材にチートかつチープにモノを作るのは、作れてしまうだけに恐ろしい。

 

最長でも3分を超えない。予告動画がもっとも出来がよく、コピーを含めて宣伝こそがもっとも見るべきものという現象は、動画全盛かつ可処分時間の奪い合いという”今”をこれ以上ないほど反映してる。

 

『ナポレオン』を見たのは、新しくできたココノススキノで。映画館のあるフロアからは、キラキラピカピカの街がきれいに見れる。同じフロアにはカプセルトイの売り場もあり、お子様向けのお菓子もちゃんと売っている。


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(もうちょっと雪が降っていると、よりフォトジェニック)

ほんの10年前、関東以北で最大の歓楽街であるすすきのの玄関口ともいえるこの場所に、ベビーカーを押してあるいは手を引いて、大量のお子様連れがやって来るなんて想像できただろうか。

 

そして常識でははかれない非常識を押し通すと、常識では突破できないものが出来上がる、おまけは殺人者の烙印。という作品をオープニングに持ってくるあたりはやっぱり土地柄。

 

動画ではなく映画を、脚本家や監督あるいはアクターといったスポットライトが当たりやすいポジションではない立場で支えていた。そういう人達に、この映画で最も真似したいのはどこですか?と聞いてみる、あるいは実践してもらうのは作品の成否を最も正しく評価する方法かも。かもかも。


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右を見ても左を見ても、ビルの上の観覧車が、とってもよく見えた。不思議ねー、さすが関東以北で最大の歓楽街。

燃費よし

お正月といえば紅白の色合わせで、紅白の組合せ=めでたいだから紅白まんじゅうも縁起が良く、お祝いの席で使われる。

 

ブッシュドノエルにチョコレートケーキにアイスケーキ。Xmasのケーキもいろいろあるけれど、いちごのショートケーキは今でも人気。思えばいちごショートも赤と白で。めでたい=お祝い=縁起がいいという日本人の心性にぴったりくるから定着したのかも。かもかも。

 

赤はそもそも邪をはらう色。南天に千両や万両、赤い実を付ける植物をおめでたい正月に使うのも結局はそういうことなんだと思う。

 

Xmasにはケーキにプレゼント。年末には年越しで除夜の鐘をついて、お正月がくれば初詣。

 

一連の行動を言葉にすれば、”ちゃっかり”と”いいとこどり”。”ちゃっかり”と”いいとこどり”が、高度経済成長期における奇跡の経済成長の賜物と言われれば納得で、高度経済成長を果たした企業や国あるいはエリアには、大体”ちゃっかり”と”いいとこどり”マインドが根付いてる気がする2023年の師走。

 

12月ももう半分過ぎたの!?あと2週間ほどしかないの!?とビックリするばかり。今年はレジャーというより用事で出掛けることが多かった。


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ホワイトイルミネーションは、やっぱり雪が降った方がきれいで雰囲気がある)

 

ちょっと用事があってを英語で表現すると何が一番ぴったりくるのかよくわからないけれど。

 

レジャーはしたいことがいっぱいなら、用事はしなければならないことがいっぱいある状態。wantで欲求を満たしに行くわけではないから、用事で出掛ける時は要りようのものが過不足なく揃っていればそれでじゅーぶん。

 

ビジネスホテルというスタイルは、日本生まれ。と、言われても納得するくらい豪華すぎるのもビンボーくさいのもノーサンキューという中間層の気質によく合っている。

 

立地とコストとサービスを考えた時。出張や用事で出掛けるから場所は譲れない。譲れない場所で、豪華な内装より掃除が行き届いた清潔な部屋の方が好ましいになって、それが納得感のある値段であれば大体無問題。

 

大浴場に朝食がついてくるようになったのは、進化か退化か。出張が多くて長いヘビーユーザーの声を考慮したから生まれたものか。今では大浴場に朝食付きが当たり前になって朝食の中身も競うようになったけれど。

 

豪華、あるいはステキな朝食を食べたいのは欲求で、用事よりレジャー向き。

 

コンビニ含めてそもそも食事できる場所が圧倒的に少ない場所に行く(あるいは滞在する)。あるいは、体力をがっつり使うお仕事が待ってる人向けで、朝からしっかり食べるようにしましょうとなるなら用事向き。

 

と、泊まる場所を決める時には無意識に用事とレジャー向けを分けて考えている。一ヵ所での滞在が長くなると、用事を済ませた後や先にレジャーを楽しむ。というように用事とレジャーが混在するから、ビジネスホテルでもシティホテルでもない別の選択肢が必要になる。

 

次から次へとホテル、外からの来訪者を迎える施設ができていくけれど、欲望が多く満たしたい欲求をたっぷり抱えてる人の希望をまず叶えていくと、極端にエネルギー消費の多い建物が出来上がる。そしてエネルギーを満たすために次々と”用事”で呼ばれる人やモノが出現して、用事で出向く人やモノ向けの施設が必要になってできていく。

 

燃費が悪いとエネルギー補給が頻繁かつ欠かせなくなり、巨大なエネルギー源から人を逃さないような構造になる。

 

燃費がいいと頻繁にエネルギー補給しなくてもいいから、常にエネルギーをフル充填しなくてもいい。

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(市電の窓からの景色)

不夜城といえば、オールナイトで煌々とネオンが光り輝いているさまを想像するけれど。燃費が改善したからひと晩じゅうピカピカキラキラさせる必要はもうなく、安全のためのあかりがあれば十分で、燃費が改善したから不夜でなくてもいいのは、きっと進歩の一環。

観光客に優しい場所で観光する

ホワイトイルミネーションが始まったのに雪はなく、雪が降らない師走は師走気分も薄くて気持ちはまだ晩秋。

 

雪が降らないと秋が長い。秋が長くなると紅葉も長く楽しめる。今年は例年になく、北海道でも紅葉を楽しんだ人が多かったんじゃないだろうか。

 

マルセイバターサンドがきっと一番有名だけど、おやつとしてよく買うのは万作におふたりでにマルセイキャラメルあたり。

 

六花亭といえば北海道を代表するお菓子メーカー。帯広(より細かく言うと中札内村)にある観光施設”六花の森”には、ずっーと行きたいと思っていた。なので、紅葉のというより落葉の季節に行ってきた。


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国立公園に比べると、第一印象は思ったよりこじんまり。

 

ただしそれは、安心して緑いっぱいの景色のなかを歩ける範囲のことで、六花亭のカフェや工場あるいは美術館を含めた六花の森そのものはやっぱりべらぼうに広い。そしてただ広いだけでなく、広大な敷地内はどこもきれいに手入れされている。

 

あいにくの天気でも無問題なのは、美術館が点在しているから。悪天候でも観光できるよう設計されているくらい、観光客ウェルカム。


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(彫刻作品もいっぱいで、アートいっぱい)

六花亭の包装紙のように、色とりどりの花が咲くさまを楽しめるのは春や夏。だけど、紅葉あるいは落葉した森や林もまたいいもので、国立公園内の森や林を気ままにぶらぶら歩くのは時に危険と隣り合わせなことを思った時。観光客が安全に観光気分を満喫できる森はとっても偉大。

 

しかもその偉大な森が、もともとはお菓子、きっと今でも一番人気のバターサンドから始まったと思うとただ感動しかなかった。

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お土産にちょうどいいバターサンドのお値段、売れ筋は千円から1500円くらい?そのくらいだったら、自分へのご褒美としても絶妙に買いやすい。

 

お菓子は余裕の産物。とはいってもほんのちょっとの余裕で手が届く。ほんのちょっとの余裕が積み重なると人工の森が出来上がり、どこかで失われた自然の森の代わりに人工の森に落ちたお金がまたどこか別の場所で、自然の回復や文化の普及や振興に使われる。

 

机上の空論でも妄想でもなくそのシステムあるいはサイクルが、目の前に現実として現れている。そういう意味でも感動と感心しかなかった。

 

北海道に住んでいると、カフェに図書館に音楽などの文化ホール、六花亭の文化振興や普及にかける(かけた)情熱けた外れだとよく思う。その原資がそもそもはお菓子で、とっても贅沢ではないけれど”豊かさ”につながっている。

 

マーガリンではなくバターたっぷりで、クッキー生地もソフト。生ケーキほどではないけれど賞味期限はそう長くなく日持ちはしない。

 

毎日は無理でも時々ならOK。少数だけでなく万人に通じる。

 

その種の余裕が積み重なると、次の世代にも”豊かなもの”が残せて、豊かな森が出来上がる。

 

六花の森がある中札内村のほど近く、岩内仙峡という景勝地にも足を伸ばしてみた。今年は寒暖差が激しかったおかげもあってか、”仙峡”という名称がちっとも大げさでないくらい、紅葉が見事だった。


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十勝八十八か所のひとつであったり、岩内国民ほにゃらら(公園?)の文字が見えたり。六花の森が超有名観光地で管理が行き届いているのに比べると、野趣たっぷり。

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野趣たっぷりだから、現地に明るい人ほどより楽しめそうな場所。観光客はどこまで踏み込んでいいかよくわからないから、人目のある場所をグールグル。落ち葉を踏みしめながら、流れる水の音を聞きながら、紅葉のなかを歩くのはただ楽しい。

 

ただ楽しいけれど、自然のなかを歩くだけでもレジャーになって楽しいのは、自然の方がより貴重だと思っているから。

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自然、あるいは緑いっぱいが貴重だと思っていると、わざわざあるいは遠路はるばる足を伸ばす。はるばる出掛けてはみるけれど、自然が勝り過ぎるところへは行かないし行きたくない。という向きには、ハイシーズンを外していても人気の観光ルートで超有名観光地を含む北海道ガーデン街道は、それぞれに見どころがあった。

 


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(ここは真鍋庭園。見応えのある樹木がいっぱい)

そもそも北海道では秋が短い。その短い秋のいつ頃を狙って行けばいいのか、悩ましいところ。大雪山では9月もなかばを過ぎると紅葉が始まるけれど、六花の森が営業終了となる間際、10月の終わり頃でも紅葉が楽しめる場所は、探せば他にもいろいろあるはず。