クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

制限付き

3年、7年あるいは30年や時には100年も。凝りもせずに長々と。

 

近代以前のヨーロッパの戦争は気が長くて、長々と戦争ができたのは戦地も戦闘員も限定された、“制限戦争“だったから。という解説をどこかで読んだけれど、確認しようにも出典は定かでなし。

 

限定された戦地で、限定された戦闘員だけが行うから制限戦争。

 

近代以前だから、移動手段はせいぜいお馬さん。武器を手に馬に乗って、あるいは徒歩で出陣していく戦闘員よりも、鋤や鍬といった生産手段を手にした、戦闘とは切り離された非戦闘員の方が多数だったから、いわばのんびり気長に戦争ができた。

 

第一次大戦で近代戦争に突入すると、武器の近代化とともに戦闘員の損傷も激しくなり、ぶっちゃけ死者が増えた。近代以前の制限戦争とは比較にならないほどだったんだとか。

 

戦場も限定されていなければ、限定された戦闘員だけでは足りないから、本来手には鋤や鍬の非戦闘員まで駆り出すようになると、人的被害は生産現場へのしわ寄せとなって現れる。

 

それまでの制限戦争では考えられなかった範囲にまで被害がおよぶから、制限なき戦争の被害は甚大。

 

例えば内戦もそうで、あれは戦地の拡大とともに総力戦に突入し、戦闘員も非戦闘員も関係なく無縁でいられる人がいなくなるから、被害は底無し。底無しだから、内戦を経験した国はどこも深い傷を負う。

 

鋤や鍬といった、生産手段の代わりに武器を与えて拡大した戦場で闘いだったら、武器の代わりに鋤や鍬といった生産手段を与えると、理屈の上では戦場も闘いも縮小する。

 

戦場は縮小するけれど、戦場の減少を許さないほど戦争で潤う産業が膨張し、膨張した産業に国の経済が依存していたら、戦場の縮小あるいは戦線の縮小は、どう考えてもすんなりいくわけがない。

 

戦場で生まれ、戦争で潤い膨張した産業は大体しぶとくて、現代風に言えば“大学生が就職したい企業ナンバーワン”だったりするわけで。

 

有為かつ優秀な人材が、戦争で潤い膨張する産業や企業をめざさなくても済むように、より魅力的な企業を有為で優秀な人材の前にニンジンとして与えるのは、だから理にかなっていて、理にかなっているから後世から振り返ると、戦争が産業振興に貢献したようにも見えてしまう。

 

とはいえ産業振興となるのは、人的被害が広範に及んで経済を傷つけて、なかでもとりわけ有為かつ優秀な人材に甚大な被害が及ぶからで、人的被害を食い止めるという動機が生まれない限り、産業振興には向かわず産業破壊に留まるのかも。

 

内戦から立ち直れない。そういうケースはだからきっと、人的被害を食い止めるよりもむしろ、人的被害が拡大するのを止めずに積極的に放置したから。なのかも。という個人的な仮説をもとに、”制限戦争”の出典はどこだったかな?と気長に探しましょ。

紐つき

インプットが悪かったら、アウトプットが悪いのは当たり前。

 

試練をくぐり抜けて強大な権力を手にするのが、誰が見ても大悪党だったら、与えた試練は大悪党を産むためのもの。

 

主変われど我関せずで、主が誰に変わろうとも与えられた持ち場を死守すれば、食うに困ることはない。という単純な命令や契約を受け入れている限り、昨日の敵は今日の友的に複雑に利権が絡み合う権力闘争には巻き込まれず、食いっぱぐれもない。

 

一寸先は闇で、ついた主が悪ければ明日にも路頭に迷うような見通しのきかない複雑な世の中で魅力的に映るのは、誰にでもわかりやすくて単純なルール。

 

主変われど我関せずで、生きていける。単純なルールが支配する土地や場所には、複雑なルールも複雑に利権が絡み合う構造もイヤになった勢が、勝手に寄ってくるようになっている。

 

覇者にならんとする野心家から、焼き討ちにあって焼き尽くされる。

 

延暦寺の僧兵のような存在は土地と場所に紐ついていて、守っているのは主ではなく土地や場所。土地や場所を脅かす外敵には徹底的に抗戦するという、単純なルールを守っている限り食うに困らなかったら、戦乱の世にあってもそりゃ強くもなって、外敵や侵入者からは目の敵にされる。

 

食うに困らないポジションめぐって、血みどろの争いを続けてるような時代だったんだから。

 

その戦力を傭兵として切り売りしていれば、また歴史は違ったのかもしれないけれど。

 

土地や場所に紐ついて、信仰心よりもむしろ食いっぱぐれないという強力な動機で強くなった戦力や戦団にかしずかれる“主”をめぐって、いつまでたっても争いが絶えなかったのなら。

 

揉め事の原因ごと消し去るために、まずは土地や場所に紐ついた強力な戦力を一掃するという発想はゲームチェンジャーの発想で、非常識なことをさせるための存在だったら常識はいらない。

 

言葉にできないような試練を経て強大な権力を手にするのがそもそも大悪党だったら、欠点だらけ。欠点だらけだから、やることなすこと出鱈目でも当たり前で、たまーにいいこと、善行を行えば過大にプラス評価される。

 

いくらあら探ししても、欠点が見つからない。そんな超人を人為的に作るよりも、ロボットを作る方がきっと簡単で楽。

 

欠点だらけの大悪党に権力を持たせ、欠点しか目につかないようにしておきながら、善行の出番を徐々に増やして過大なプラス評価を効率よく獲得していく。まずは出来が悪いほどカワイイから始まって、立場が人を作るにシフトしていくと、アレは俺・私が大きくしたんだと愛着も湧く。

 

愛着が湧くと、愛着があるものには大体甘くなる。

 

ふるい落とされた側は、ほっておいても大体ふるい落とした側のあら探しに一生懸命になったり、あるいは本業や持ち場そっちのけで、猟官運動に熱心になるもの。

 

だから主変われど我関せずで、誰が主となってもやることは変わらず、やることが変わらない限り食いっぱぐれもないシステムにしておくと、主のあら探しに血眼になることもない。

 

権力闘争がしたいだけ勢と、権力闘争には興味がない勢は、自然と分かれていく。権力闘争がしたいだけ勢は、より大きな権力を動かせる場に勝手に移動していくようになっている。土地と場所に紐ついていたら、移動は極小。より大きな権力めざして移動する人に紐ついていたら、移動範囲もそれだけ広くなる。

思いついたことを端的に

そういう形容詞がつくと、台無しになるものにもいろいろあるけれど。

 

悪魔や悪魔的なものに借金取りは、それぞれ単体だと恐ろしい存在だけど、合体すると史上最弱にしかならない不思議かな。

 

「借金まみれの悪魔」以上に弱っちそうな存在は、ちょっと思いつけない。

 

先に借金返せで、どんな強面も台無しで帳消し。だから、悪魔や悪魔的な存在は、借金まみれにしておくと、あんしん。安心して、枕高くして寝られる。

冷や水ぶっかけ装置

茅葺屋根の伝統的木造日本家屋が建ち並ぶ、一見鄙びた地方の小集落は、そのいかにも日本的な景観が集落の自慢でもあるせいか、消火設備だけは近代的で万全だった。

 

伝統的日本家屋はつまり紙と木でできているから、何しろ燃えやすい。燃えやすいから、火が出たら即座に冷や水ぶっかけられるようになっていた。火が付きやすくて燃えやすいところは、即座に冷や水ぶっかけられるようにしておかないと、頑張って人を増やして街を大きくしたところで、火が出たらことごとく燃え尽きる。

 

目を凝らして見れば、冷や水ぶっかけ装置がここにもあそこにも。

 

という街はだから逆説的に燃えやすくて、火が出て何かを燃やし尽くした後に、こりゃいかんと冷や水ぶっかけ装置がそのたびに増えて、いつの間にか冷や水ぶっかけ装置だらけの街になったんだと思えば納得する。

 

景気に敏感で、よくも悪くも真っ先に影響を受ける。景気という熱や欲望に浮かれやすくて過熱しやすい場所は、経済が過熱した時には公然とひどいことが行われがち。バブルという単語さえまだ生まれてなかった昔っから、投機そのものはあったはずで、歴史的に投機に巻き込まれやすいのは、やっぱりすぐに火が付きやすくて燃えやすい場所。

 

すぐに火が付いて、火が出た時にどういう反応を示すか高みの見物ができる場所はだからマーケットで、参加者が増えないとマーケットも大きくならない。

 

値付けにも納得感があり、商品が豊富でだれもが気軽に手に取って現物を確認することができる。支払い方法も透明で、わけのわからないコストがいつの間にか上乗せされることもなく、特別なことがない限り営業時間も規則的なのが一般的なスーパーマーケットのイメージ。

 

開催時期も不定期で、いつ開くかも不透明。欲しいものが欲しいだけ揃うとは限らず、時には禁制品が並ぶのがイメージとしての闇市で、不透明な部分が多いと、物資不足でそもそもそこにしか物がないという特殊な事情でもない限り、透明性が確保された場所より繁盛するとは考えにくい。

 

参加者が増えないとそもそもマーケットが大きくなれないからと、マーケットが過熱するよう小細工が過ぎて予想を超えて欲望に火が付き過ぎた時、サーキットブレーカーとなるのもやっぱり冷や水ぶっかけ装置だから、水が出て来ないのなら論外。

 

冷や水ぶっかけ装置から水が出てこないのなら、欲望を燃やしてマーケットを過熱させるわけにはいかない。そもそも、燃え尽くしたいという動機でもない限り。

 

火に油を注いでた。そういうレッテルがべったりと張りついた側が、今は冷や水ぶっかけ装置になったとしても、火に油を注いでいたイメージしかなかったら、当事者にとっては消火でも傍目からは火に油を注いでるようにしか見えない。

 

逆に冷や水ぶっかけ装置だった側が、一生懸命経済を活性化させようと火に油を注いで回っても、冷や水ぶっかけてるようにしか見えないから、やっぱり欲望にはなかなか火がつかない。

 

火に油を注いでた側が、冷や水ぶっかける側に回るあるいはその逆をやるなら、場所を移すか別のものに化けるか。

 

火が付きやすくて燃えやすい。そういう場所で、見るからに立派な冷や水ぶっかけ装置として鎮座してるものは、だから火に油側と冷や水ぶっかけ側が出逢う場所でマーケット。

 

水が出てこない。あるいは火が出てこないとマーケットとして大きくなれないから、そもそもは水も火も商ってた場所がどちらかに傾くと、別のより大きな火も水も商ってるマーケットに、今度は参加者としてやってくる。

 

そういうサイクルが何クールかすると、誰もが安心して参加できる透明性が確保された、より大きなマーケットが出来上がり、高みの見物を決め込めるポジションなんて極小。という状態が生まれるのかも。

言い換える

三国志演義のなかで、呉の孫権がいちばん好きという人は多分変わってる。

 

大衆ウケするヒーローっぽく描かれることの多い劉備か、それとも正統派貴公子ダークヒーローっぽく描かれることの多い曹操が好みならまだわかる。あるいは智謀の人で名参謀の諸葛亮孔明なら、国を離れても余裕で生きていけそうだから、今だったらよりファンを増やしそう。

 

それに比べると呉の孫権は、すごく地味。わかりやすい長所を見つけるのが難しい。

 

とはいえ、大衆ウケするヒーローっぽく描かれることの多い劉備が建国した蜀は、結局正統派貴公子ダークヒーローっぽく描かれることの多い曹操が建国した魏に滅ぼされて、歴史から消える。

 

蜀も魏も。ヒーロータイプ、それはつまり影でも光でも魅力的なエピソード豊富な人物が興した国は、結局長続きしなかった。個人に名を成さしめるだけで終わってる。魏は晋へと名前を変えて、戦乱を制して結局は天下統一すんだけどさ。

 

魏が晋に変わった後でも呉は生き長らえ、三国の中でも結局もっとも長命だったと考えると、戦乱の世で長く続いた国を興した孫権の見方も変わる。

 

二代目社長で潰れ、競合にM&Aで吸収合併されて社名が変わって会社そのものは長く存続するけれど、最後まで外様で主流派にはなれない国が、蜀。

 

業界のリーディングカンパニーで、創業家は二代目で退場するけれど、賢臣にめぐまれたおかげで社名を改めたあとは、競合と合併してより大きくなった国が、魏かつ晋。

 

創業者が競合と組んで協働した、歴史に名を残す華々しい活躍のおかげで業界では知る人ぞ知る存在となって創業家からは四代続き、内紛の絶えない末期を経て業界最大手に吸収合併された国が、呉。

 

よくも悪くも、頻繁にニュース種となって短命で終わる国と。最初こそ注目を浴びるものの、あとはひっそり業界の重鎮として謎の存在感と知名度を保ったまま、業界最大手に吸収される国と。

 

どの国あるいはどの創業者についたら、戦乱の世であってももっとも平穏かつ自分に合った生き方ができるのかと仮定することができるから、この種の戦乱を制する英雄列伝的なエンタメは、なくならない。

 

ただし、三国志水滸伝、日本を舞台にしたものだったら戦国時代に幕末・維新のヒーロー伝のようなものが大衆に受け入れられるには、階級移動が容易で下剋上可能な社会環境とワンセット。

 

下剋上や階級移動がただの誇大妄想かつ古代妄想となる社会環境では、好まれるヒーロー像も変わり、影でも光でもエピソード豊富なヒーローでさえ不要となる。

 

言い換えは便利なもので、表現の仕方でもののありようがすっかり変わる。

 

創業者といえば、何だかカッコいいんだけど。あれ、単に問題が発生した時にどーもスイマセンと差し出される首と、問題を穴埋めするためにこき使われる即戦力なんですわ。

 

と言い換えると、せっかくのカッコいい響きも台無しになる。

 

問題が発生した時には穴埋めするための即戦力だから、徹底的にしごきあげて使える人材にしておくと、業界的にも安心。

 

安心して、問題が起こせる。

 

問題が起こった時には穴埋めする即戦力が居ないと不安だから、問題は起こせず業界全体で問題が起こせない体質に変わらざるをえなくなる。

 

モラルがブレーキにならない。

 

むしろ、問題が起こるほどに利益が生まれて大きくなる仕組みだと、ことあれかしと問題を起こす動機ばかりが大きくなる。

 

問題が起こった時に差し出す首と即戦力が、自分以外の誰か。それも、責任取るなら上からで、最上位の者が即戦力となって最下位の者がするような仕事をさせられたらたまんない。

 

たまんないから、もしもそんな仕組みを持つ業界だと見抜かれてたら人は集まらない。

 

新しいメンツが増えない業界を、同じメンツで回し続けてもやがて限界が来て、限界がやって来るとようやく業界の仕組みそのものが変わる。

 

即戦力として差し出す労働力の代わりに、資産徴求というオプションを備えておくと、最初にどれほど巨額の創業者利益があっても心許ない。

 

労働力も資産も。差し出すのはイヤだったらイヤでも仕組みが変わり、問題は起こさないに限るが最適解となって業界もクリーンになって、問題を起こすのに長けただけの業界ズレした人材も一掃される。

 

変に業界ズレした人材がいなくなって新しいメンツが増えた時、ズレた業界に合わせて歪められたことばの意味もまた正位置に戻って、めざし甲斐のあるものに変わる。

 

発言権を奪われ、ただ労働力としてこき使われる。

 

どれほど飾り立てても実態はソレと知る人ぞ知るだったら、いつまでたっても頭脳労働とは呼べず、頭脳労働ではないから国を離れても生きていける、諸葛亮孔明タイプはやってこない。

食いつきが悪い

好事家向け、つまりマニアックな興味に偏った古い本は、マニアックなだけに一般には知られていないようなことが豊富。一般には知られていないということは、一般には知らせる手段がなかったということでもあって、その鬱憤を晴らすかのように、知らせても構わない場所を見つけたらイッキイキ。

 

商業的な他のどの場所でも見たことがなかったら、どこにも行き場所がなかったということで、出自はきっと商業ベースじゃない。本来なら商業ベースに乗るはずのないものが、商業ベースにひょっこり顔を出すから、同じ場所にあっても生まれも育ちも商業ベースなものとは、趣が著しく異なっている。

 

広く知られるようになることは想定してないけれど、想定外の事態が起こることをかすかに願って流す、ボトルメールやボトルレターのようなもの。とでも思えばいいのかも。

 

英語圏あるいは西洋の記述は異様に詳細で微に入り細にうがっているけれど、日本語というアジア圏の言語に翻訳されているにもかかわらず、アジア圏のこととなるとサッパリあっさりだと、執筆者の興味関心がどのあたりにあったのか、よくわかる。

 

興味や関心があったとしても、そもそも英語や西洋の言語に翻訳されてなかったら、どうしようもない。基本的にマニアックなのに、あっさりサッパリしか記述できないものはそのまんまというのも、ある意味一貫してる。

 

今だったら、英語やその他西洋の言語に精通したアジア圏出身者なんていくらでもいる。だから、西洋の目から見たアジアや東洋ではなく、アジアや東洋から見たアジアや東洋の情報を英語やその他西洋の言語に翻訳して、アジアや東洋史観を記述することができる。

 

その際に情報として重宝されるのは、やっぱり入手が簡単なもの。

 

学術的興味や関心がベースになっていたら、簡単なものから入らない。すでに知ってることの方が多かったら、簡単に手に入るものには簡単に手に入る程度の情報しかないこともわかってる。

 

簡単に入手できるものは拡散も容易で、だから簡単に手に入る情報ばかりが拡散されることになるのかも。

 

好事家向けの本は、例えばネイティブアメリカンについての記述が豊富で、ネイティブアメリカンの歴史については知る人ぞ知るだったことが、逆説的にわかる。かつての知る人ぞ知る歴史について、最近はあまり語る人もいなくなり、今では別の知る人ぞ知る歴史を語ることに熱心だと、ネイティブアメリカンは完全に同化が終わったのかと思ってしまう。

 

知られざる歴史を語ることは異化を語ることと同義でもあるから、知られざる歴史を語れば語るほど、同化からは遠くなる。異化を選ばず知られざる歴史も語らずを選べば、同化は進む。

 

同化が進むほどに、わざわざ語りたくなるような目に遭わされることもなくなる仕様にしておくと、同化にも加速がかかる。

 

知る人ぞ知る歴史を語りたい、異化を語りたいニューカマーが列を作って待っている。多文化で構成された社会では、異化と同化を使い分けながら、ひとつになっていく。

 

そう考えると、自分にとってホットな話題以外には食いつかない、個人主義に収斂していくのかも。世間を大事にしたところで、その世間が大事にしていたり問題にしているものは、自分や自分に連なるものにとってホットではなかったら、食いつく意味も薄れていく。

手のひら返し

古い本を時々読み返すけど、ノスタルジーに駆られてというよりはむしろ、“現場百遍”な気持ちの方が強い。

 

何度も読み返していると、以前は気付かなかったことに気付くようになり、モノによってはなぜ電子書籍化されないのか、何となくわかるようになってくる。道徳も常識も時代によって変わる。だから、道徳も常識もすでに変わったんだということがわかってない不特定多数に、変わる以前の道徳や常識をそのまんまの形では渡せない。

 

そのまんまでは渡せないにもかかわらず、拡散の方法だけは進化してる。そういう状況だから、今となっては電子書籍化して簡単に拡散されるとよろしくないものは、なるべく拡散しにくい形のままにしておくに限るということになる。

 

本来拡散されるとよろしくないものは、たとえ電子書籍になっていなくても、よろしくないものには変わりはない。

 

誰かが怒る。文章化された当時は、怒る誰かの怒りは怒ったところで大したことはなかったけど、道徳や常識が変わったあとでは、怒る誰かの怒りは大したことないでは済まなくなった。

 

特にセンセーショナルな題材を扱っているわけでもない。書かれている内容そのものはいたって穏当であっても、まぁ怒るわな。というものが、古いものには時々隠れてる。

 

ベストセラーにはなりそうもないけど、類書がないからロングセラーにはなりそう。という分野には特にこの手のものが多く、狙ってやってるのか???と思わなくもない。その手のものは一箇所にとどまることはなくいわばゲリラ戦で、突如出没する。

 

文書化された当時は、怒るあるいは気分を悪くする誰かの怒りは、怒ったところで大したことはなかった。という状況と合わせて考えれば、深く考えなくてもこの種のゲリラ戦はイヤガラセの一種で、イヤガラセにどこまで耐えられるのかお試しでもしてたのか。

 

ゲリラ戦が通用するのは正攻法が通じないからで、正攻法では敵わない、あるいは敵ではない者からの攻撃は、時としてその種の形態を取るのかも。

 

偏向は、道徳や常識が違うものの目から見ると、よりくっきりはっきりする。偏向に凝り固まった集団のなかでは、偏向したものの見方が固定して、また新たな道徳や常識が現れるまでの主流になる。また新たな道徳や常識が現れるまでだから、単なる流行で短期に終わる主流もきっとある。

 

江戸が終わって、明治となった昔々。ちょんまげから、西洋人にもよくある髪型へと移行したのは見た目から入る国際化で、ちょんまげ姿そのまんまな日本人の中身も、今や国際化したんですよと張り切って宣伝したところで、まったく説得力がない。

 

攘夷という偏向があったということくらいは知ってる訪日外国人からしたら、いつバッサリやられるかわかりゃしないおっかない場所では、のんびりエキゾチックな景色や文化を楽しめないだろうと配慮してのちょんまげ廃止令も、きっと施行当初は違和感とともに受け止められたに違いない。

 

何百年も、その姿が普通だった。見た目による変化は一目瞭然だから、隠せるものなら隠したくなっても無理はない。ちょんまげの場合は帽子くらいでは隠しようもないけど、髭のあるなしは、口元を隠せばなんとかなる。

 

掌を返す時は、できるだけ大勢で一斉に。という入れ智恵は、いったいどこから来たものなんだか。