クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

小樽御殿めぐり

小樽といえば、レトロな歴史的建造物が多く残された場所。

 

運河近くのレトロな建物群からは「北のウォール街」の名残りを感じることができるけれど、小樽には海産物で財をなした、鰊御殿と呼ばれる建物群もある。たいていは高台など街中からはちょいと外れた場所にある鰊御殿。行ってきたのはだいたい去年2017年だけど、今さらながら振り返ってみる。

小樽銀鱗荘

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小樽銀鱗荘の玄関

小樽でも屈指の景勝地、平磯岬の見晴らしのいい高台に建つ銀鱗荘は、もともとは余市の大そう羽振りのいい網元のお屋敷だったとか。現在は、料亭で料理旅館になっている。料理旅館の隣にはグリル銀鱗荘があり、そちらもわりとお高い感じのフレンチレストラン。

 

庭、そして庭をのぞむ室内からは日本海が見える。きれいねー。

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庭の向こうに見えるあれは、日本海

眺めのいい場所をひとりじめできるのは、いつの時代も変わらぬ贅沢。眺めがいいだけでなく室内の意匠も凝っていて、たかが鰊されど鰊で、海産物でこれだけのお屋敷が立ったのかと思うと、感慨深い。網元も、まぎれもなく一種の資本家なんだよなぁ。

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落ち着いて食事ができる料理屋さんを探していて、銀鱗荘に行き着いた。

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お寺以外でこんなに広い畳の大広間、まず見ることはない。さすが「御殿」。

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静かだし、食事はたんぱく質多目だけど確実に美味しいし、誰かをおもてなししたい時にぴったり。4人での会食なのに、めちゃくちゃ広いお部屋に通された。また通された部屋の意匠が凝っていて、古い建物や意匠を見るのが好きな人にはたまらない。

 

どれも美味しかったお食事のなかでも、特に美味しかったのが、バター餡(あん)がかかったじゃがいも。バター飴味の餡がめちゃウマだった。北海道らしい一品でもあり、この一品のおかげでお料理全体に対する評価も5割増しになる。

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以前は冬季は休業してたそうだけど、今では通年営業とか。行ったのは夏だけど、冬景色もきっと絵になる、インスタ映えしそうな場所。宿泊もできるので、古風な和風建築に泊まってみたい趣味の人にオススメ。

小樽貴賓館と小樽市鰊御殿

「小樽」「鰊御殿」で検索すると、まったく性格の違う二つの施設が出てくるので、初めて行く場合はとまどってしまう。

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にしん御殿小樽貴賓館(旧青山別邸)は、初夏に咲く牡丹や芍薬の名所としても有名。ついでに、お金に糸目をつけずに集めた、あんまり趣味がいいとはいえない美術品がてんこもりで、お腹いっぱいになれる。見せ方って大事。キンキラキン過ぎると、せっかくの美術品もなんだか安っぽく見えてしまう。

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御殿じゃなくて、番屋。

小樽貴賓館からも車でそう遠くない、小樽市鰊御殿を、御殿と呼ぶのは誇大広告になりませんかねぇ。これ、ただの番屋でしょ。

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広々とした二階。
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密入国ポイント???

とはいえ、当時は積丹半島では有数の親方(網元とはまた違うのか???)として知られた人の番屋だそうで、往時の番屋の暮らしがしのべる場所。網を引く労働者の居住環境が、劣悪過ぎてドン引きした。しかも雇用主家族とは同居スタイルで、現在とはあらゆる意味で常識が違った貴重な歴史を伝えるものであることは、間違いなし。

小樽海宝樓

 観光客でいっぱいの、小樽堺町通り商店街から近いようでちょっと歩く、小高い丘の上にあるのが、海運で財をなした旧板谷邸のお屋敷小樽海宝樓。現在は、レストランやプチホテルを併設している。

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旧館に隣接した、真新しい建物がホテルとしてオープンしたのは2017年の10月。口コミサイトにはまだ一件の書き込みもない時に、出来たばかりのホテルに泊まってきた。

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口コミ一件もなし。われながら、チャレンジング。

いちばん狭い部屋でも45平米はある部屋は、リビングにベッドルーム、そして室内風呂までついた、ホテルというよりサービスアパートメントのような造り。

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向かいに見えるのは、マンションだ。
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スタイリッシュでどこもかしこも出来立てだからピカピカ。アメニティも、ちょっと高級な感じでステキなんだけど、なにしろ人の気配がしないホテルだった。ルームサービスもなければ自動販売機もなく、備え付けの冷蔵庫には水など飲み物のストックもなく、夜中に喉が渇いたらどうしようかと、わりと途方に暮れた。外は大雪で、周囲も住宅街。

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小樽市街の夜景

小高い丘にあるだけあって、街中の夜景が楽しめるのは確かなんだけど、大浴場は客室ほどではないけどホテルと隣接するマンションのベランダに面していて、気が気でないこと夥しかった。どうしてこんな建て方をするんだろう???と、邪推が次から次へと沸いてきましたよ。

 

ウェルカムスイーツは、花畑牧場のお菓子。商売っ気にはえらく乏しげだったので、税金対策パラダイスペーパー案件かと思いながら、寛いで過ごした。置き畳、快適―。

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旧館からホテルへと続く廊下。

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タクシーの運転手さんは、「お屋敷っていうか、まぁ古い家だな」とか言ってたけれど、それなりに趣のある本館で朝食を食べた。料理長のお名前は“佐藤淳”。もしかすると、星野リゾートトマム店と兼務なのかも。

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レストランは洋室でクラシカルな雰囲気。

海宝樓のある東雲町には、他にも古いお屋敷っぽい由緒ありげな何かがあったので、東雲町そのものが昔はお屋敷町だったのかも。現在はマンションが目立つ、フツーの住宅街なんだけどさ。歴史的建造物の保存と都市開発と。両立させるのは、そう簡単にはいかないやね。

 

小樽には大人が満足できる場所が少ない

 数え切れないほど小樽には来てるけど、再訪してる理由はただ「札幌から近い」から。

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高速を使えば1時間ほど。ニセコもいいけれど、冬季となると高速も使えず中山峠を越えるのは、雪道の運転に不安があるものにとっては、ちと荷が重い。なんなら電車でも来れる小樽は、ちょっと遠出したい時にはぴったりなんだけど、お金使いたいような場所がないのがネック。

 

電車で来れるから、外国人観光客をのぞけばもっとも日本人観光客の多い、小樽堺町通り商店街は、若い人の姿が目立つ。勢い、一見でも入れそうなお店はリーズナブルなお店ばかり。せっかく札幌というそれなりの都市に近いのに、もったいないなぁという思いが募る。

 

北一ホール、一度入ってみたいと思っていたけれど、入り口で回れ右してしまった。レトロ喫茶の「光」は許容できるけど、北一ホールは過剰過ぎてダメだった。タイミングが合わなくて入りそびれたけど、「くぼ屋」はよさげな雰囲気だったので、次の機会に行ってみよう。周りは著名な北海道スイーツのお店ばかり。和カフェはかえって新鮮さ。

 

堺町通り商店街を先日初めて歩いた(いつもは車で通り過ぎるだけ)けど、景観に厳しくなる以前の由布院みたいで、ごちゃごちゃ。ついでにルタオ多すぎ。ってか、ルタオ以外のお店が少なすぎ。富良野みたいに、わざわざ食べに来たくなるようなお店が、もっと増えればいいのにと思った。

 

電車で来れられて歩いて回れる街だから、外国人観光客も今は来てくれるけど、彼らが二度三度来てくれるのかというと、ちょっと疑問。台湾も中国もきっとタイやシンガポールも、都市居住者はすでに自国で洗練されたお店、たくさん見てるでしょ。

 

そぞろ歩きする人が多く、そぞろ歩きを楽しむ人向けにカジュアルな食べ物を扱うお店が目立つけど、安きに流れるとレベルも低くなって、お金落としてもいいと思ってる層から離れていきそ。

 

ホテルノイシュロス小樽

 小樽市鰊御殿は、祝津というエリアの小高い場所にあるけれど、その小樽市鰊御殿を眼下に見下ろす、ニセコ積丹小樽海岸国定公園内にあるのが、ホテルノイシュロス小樽。

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日本海の絶壁に建つホテル、眺め抜群。

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以前もホテルだった建物を、2000年代の始めに改装、オープンしたとか。内装はやや重厚なヨーロピアン風。てっぺんのリング状の部分は、昔回転レストラン、今はスイートルームなんだってさ。

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平成もそろそろおしまいになろうとする現在、この手のクラシカルかつヨーロピアンな内装のホテルは、もうわざわざ作ることはないんじゃないかと思われる。そういう意味で貴重。あと何年か踏ん張ったら、道内に残る希少なクラシカルホテルとして名を残せそうとか思うんだけど、どうなんすかね。

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窓の外には雪景色が広がる。

全部屋露天風呂付き。

 

この露天風呂が、たーいへん気持ちいい。居室がゆったりとしてるので、ほんとは長期滞在向きなんだけど、車がないと移動できないのが厳しいところ。

 

レストランは、今時めずらしくフレンチオンリー。バイキングにはしたくないという、ポリシーがあるとか。お持ち帰りもできる、バゲットがめちゃめちゃ美味しかった。ついでに、ちょっと珍しいジンジャーエールも美味しかった。

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こういうありがちなもので予想しないものが出てくると、好印象。お箸でも食べられるフレンチも、十分に美味しかった。

 

雪景色もいいけれど、季節を変えて、海の青と空の青が楽しめる、夏場にもまた来たいと思った。

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日和山灯台

『喜びも悲しみも幾年月』という、古ーい映画のラストシーンにも登場した灯台だとか。絵になる灯台やね。

 

おまけ

新年なので、ウィーンのニューイヤーコンサートをテレビで放送していた。クラシックの調べにのせて、ワルツを踊るイベント。優雅。いかにもウィーンらしい優雅なイベントで、ウィーンの都市といえばモーツァルトでワルツでクラシックでしょという、都市のDNAを伝えてくる。

 

ウィーンの経済において、観光客依存度がどれほどのものか知らないけれど、ウィーンに来る観光客は、モーツァルトザッハトルテでクラシカルな雰囲気を楽しみにくることは多分間違いない。お目当てのものがなかったり、期待したほどでもなかったらガッカリする。

 

都市のDNAを伝える象徴的なアイテムに自覚的だから、今でも新年にワルツ踊ってブラッシュアップしてる。近頃は極右政党も台頭してなんだかキナ臭いウィーンだけど、確固たる文化を確立している都市は、排他的傾向を自覚的に持つものなのかも。

 

確固たる文化が崩れ、ありふれたその辺の都市と大した違いもなくなれば、ウィーンがウィーンである意味も薄れてしまう。

 

都市のDNAを伝える象徴的なアイテムが明快だと、文化も守りやすくていいやね。と、考えたことを存分に綴れるのが、ブログのよいところ。

 

お休みなさーい。

嬉しい楽しいを記録したのが映画の始まり

仕事始めとはいえ、街はまだまだお休みムード。

 

真面目に働くのは週明けからでええやんと言わんばかりの、まったりのんびり気分が漂いまくってると感じたのは、きっと気のせいじゃない。

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栗きんとんをバターたっぷりのトーストに載せ、栗きんとんトーストで〆て、おせち料理にもサヨナラ。1月のレギュラーメニューとして、どこかのカフェにでも置いてくれないかと思う、予想通りの美味しさだった。

 

よく考えたら割といいお値段がする栗きんとんなので、採算面で厳しそう。食べたかったら自分で作る方がきっと早い。真面目に作り置きに励むのも、週明けからにしようそうしようと、こちらものんびりまったり。

 

映画の感想を書くのは、公開が終わってから。と、伸ばし伸ばしにしているうちに、書こうと思った内容さえ忘れつつある『リュミエール!』。

 

どこかの映像資料館で常時上映されていそうな、“映画“の発明者リュミエール兄弟による記録映画を集めたもの。短編映画というよりショートショートと呼びたい108本の動画。

 

最初期の映画、シネマトグラフにはストーリーもなく、ただ街の景色を映したり、面白おかしく見える瞬間を捉えたりといったものばかりで、最初期のYouTubeを眺めているようだった。そのせいか、流れる映像は1895年から1905年にかけてのものと、微塵も親近感は抱けないものなのに、妙に微笑ましく懐かしかった。

 

初めてホームビデオを手にした時。初めて携帯やデジカメで動画を撮った時、何を撮ったかと言えばまずは身近なもので、世界中の誰かにとっての身近な景色や面白おかしいで溢れ返っていたのが初期のYouTube

 

何ができるかもよくわからない、はじめましての道具を手にした時に人類がやろうとすることは、100年経っても変わりゃしないんだなと微笑ましかった。

 

映像記録集といえば『映像の世紀』だけど、あちらはBGMも重々しくテーマも重々しい。『リュミエール!』では、落語家の立川志らくがナレーションを担当し、軽妙なトークに合わせて『映像の世紀』では流れないような、市井の人のありふれた暮らしを映し出す。

 

1895年から1905年のヨーロッパといえば歴史的にはキナ臭く、動乱の時代と呼びたくなるけれど、動乱の時代にだって市井の人の暮らしは続くし、面白おかしいことだって転がってる。

 

後世から見たら、大きな出来事一色に塗り潰されてしまいそうな時代の、そうではない一面を切り取っていて、そうでない一面を敢えて取り上げたのは、同時代の人のためだから。

 

悲観はムードで楽観は意思ということばが好きなんだけど、暗い気分に襲われそうな同時代の人に、明るく面白楽しいというメッセージを届け続けたリュミエール兄弟が資産家、ブルジョワジー階級だったというところもポイント高い。

 

時には自らや家族、友人・知人をモデル(俳優というほど演技してないし。。)に起用し、撮影する場所は自らの会社や自宅や別荘で、上映する映画館も自分たちで用意していたリュミエール兄弟

 

新しい道具やビジネスに対する好奇心以上の、強い動機でもあったのか。そのあたりは作中ではまったく忖度せず、ただ残した作品からその偉業を読み解けという観客まかせのスタイルは、逆に兄弟の人生に対する興味を募らせたかも。

 

映画、あるいは動画のはじまりは、ただうれしい楽しいを記録するものだった。うれしい楽しいをみんなで共有するものだったという単純な事実から、ずいぶん遠くはるかに旅したものよ、という気分も盛り上がりまくった。

 

お休みなさーい。

今年もいらない、大きな物語

新年も3日目、おせち料理も3日目ともなると食べる方も苦行となって、“おせち料理を食べ切る”チャレンジに挑んでる気分になれる。地味なチャレンジは、生活のなかにだって落ちている。

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ローストビーフの残ったタレにはゆで卵を投入して煮卵もどきにし、お雑煮にしても食べ切れない蒲鉾は、油揚げや葱その他を卵でとじてきぬがさ丼にする予定。大量に作った黒豆はおやつ代わりだから、余っても問題なし。

 

年末から用意していたストック食材、だいたいきれいに食べ上げられそうで、もっすごい満足。綿密に立てた食料計画でもないから、棚からボタモチ感が強くて、そのぶん満足感も大きい。

 

象の時間、ネズミの時間というフレーズに出くわしたばかり。

 

同じタイトルの生物学の本もあるけれど、こっちは生産時間=象の時間、消費時間=ネズミの時間という文脈で使われていた。

 

日常的に料理をする人はよくわかっているに違いない、時間をかけて料理をしても、食べ上げるのはあっという間という悲しい事実。7時間かけて用意したから、7時間かけて食べろと言われても無理。

 

準備した時間と、食べ上げる時間が限りなくイコールに近付くほど、生産者と消費者間のもめごとも少なくなり、調理担当者の機嫌がいいと、出てくる料理を待つ専門、食べる方専門の人も、安心して食べられるってもんで、家庭内平和も守られる。

 

ついでに正月くらい休ませろというおせち料理を、日常に持ち込んだのが「作り置き」だよな。生産時間をまとめて取って、少しづつ消費するスタイルでも、象の時間とネズミの時間は限りなくイコールに近付ける。

 

生産時間をゼロにして、買ってくるだけで済ますこともできるけれど、それを許すとエンゲル係数はウナギのぼり。日々日常的に料理する人は、どちらかといえば節約志向のはず。節約志向だから、生産にかかる時間と消費にかかるコストを天秤にかけたら、生産にかかる時間の方を取って、コストは料理以外の分野のためにとっておく。

 

身の丈にあった暮らしで過不足なく生きているっぽく見える、市井の人見て導き出した答えなんですけどね。

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身の丈にあった暮らしで満足できてないように見える人は、サンプルには含まず。

 

生産にかかる時間と消費にかかる時間が限りなくイコールに近付いた、お手軽レシピ本が人気になるのも納得。時間も予算も限られている人が、世の中のマジョリティなんだから。暇持て余した有閑人向けのレシピは、思いっきりそっちに振らないと、今や興味関心を惹くのさえ難しい。

 

簡単にできて間違いなく美味しく、市販の調味料使用もためらわず、それでいてコストも安いとなったら、そりゃ人気でますわ。と、2017年に人気となったレシピ本を振り返ってもよくわかる。

 

秘訣がわかってる人は、今さら伝統ふりかざされるのもイヤなんでしょ、きっと。

 

お正月をおせち料理で乗り切るように、日々の生活も作り置きで乗り切れば、ゆとりの時間も日々に生まれる。ま、余った時間で特段することがない人にとっては関係ない話なんだけどさ。

 

今年は自民党の総裁選もあって、政治クラスタSNSでも活発に活動しそうで今からうんざり。てっぺんに居てもうてっぺんには居られなくなった人は、別のてっぺんに飛び移るしかないんだってさ。これ豆知識ね。

 

以前にも書いたけれど、忘れないためにもう一度。

 

社会に居場所が見つけられない人間を、戦場という非日常に走らせるような、大きな物語なんてイラネー。

 

ってことで、今後もみみっちく日々の生活を見つめていく所存さ。

 

お休みなさーい。

アレンジ

お餅が四角いと、微妙に違和感を感じる丸餅派。たまーに食べると、新鮮さ。

 

“お正月らしさ“なんてものは、すでに食べ物のなかにしか残ってない気がしてしょうがない、新年二日目。門松に晴れ着、凧に羽子板に。お正月らしさを彩る各種アイテムは、もうすっかり”デザインの中のもの“になってしまって、門松を除けばリアルで目にすることも稀になった。地域性はきっとある。

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七夕らしさも雛祭らしさも、結局はインテリアと食べ物に収斂していったように、お正月もインテリアと食べ物に収斂していき、インテリアと食べ物に興味関心の薄い人の生活からは、お正月も抜け落ちていく。のかもね。

 

元日ならいざ知らず、二日ともなるとロードサイドのお店はどこも通常営業で、通常営業に正月らしさもへったくれもあるかと、初売りセールののぼり以外には、正月っぽさもなし。

 

毎年お参りに行く神社は、年々歳々お参りする人が増えている。

 

信心深い人が増えたというよりは、単に街の性格が、商業やビジネスの街から住む街へと変わり、住民が増えただけのことだと思ってる。普段着かつ家族でお参りに来ている人が多く、新年早々デートでここに来ました、キャハ☆ みたいな、浮かれた人はごく少なし。

 

そういう浮かれた人は、もっとネームバリューがあって、参詣者も多い場所に行くはず。場合によっては親や近所の人の目が届く場所で、わざわざ浮かれ騒いで針の筵に座ったり座らされたりすることもないわな。

 

二日目にして、すでに飽きているおせち料理

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目先を変えようと、ローストビーフをホットサンドにしてみたところ、焼き肉サンドになった。半生がキモで決め手のローストビーフから、半生を取ってどうすると釈然としないながらも、それなりに美味しかった。

 

ついでにおせちにはつきものの“なます”も、余ったらバインミーの具材にしてみようと思いつく。今年のお雑煮は、年末に作ったランチョンポークから出たスープをリサイクルした、コンソメ仕立てにしてみた。勝手にアレンジする方だから、どう考えても伝統とは相性が悪い。

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ご飯に合うものはたいていトーストにも合うから、やっぱり余ってしまいそうなきんとんも、最後はきんとんトーストにして消化する予定。

 

多読や速読をよしとする人は、評論家やジャーナリスト、あるいは記録をつけるのが好きな人なんだってさ。

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普通の人、生活のなかに読書という行為を取り入れ嗜む程度の人にとっては、多読や速読も関係ない。多読や速読をよしと喧伝する人たちの多くは評論家やジャーナリスト系の人や、その種の人たちの覚えがめでたくなりたい人たちだから、すすんで彼らの養分になることはない。

 

例えばtwitterのタイムラインで。

 

ほれ読め、さぁ読め、早く読めと言わんばかりの人が出現することがあって、うんざりしてた。映画でも本でも楽しみのために手に取るもので、義務として読む人は別の目的がある人。義務を果たさずとも、他者の成果物をチートする手段には事欠かないとなったら、もうルールの変え時。

 

ルールが変わるんだったら、古い衣はとっとと捨てるに限るんでしょ。

 

愛さないものは愛されないという単純な事実の前には、すこしの不思議もなし。

 

お休みなさーい。

ハッピーワンダフルニューイヤー

平成もついに30年かと思うと、感慨もひとしお。

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わん。

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わんわん。

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これは昨日食べた奴だけど、わんわんわん。

 

すでに3つのカワイイ犬を、美味しくいただいて満足。満腹。

カワイイものは、食べられる運命なのさ。

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お菓子ばっかり食べてたわけではなく、ちゃんとお節料理も作って食べた。

サーモンマリネに黒豆、それにローストビーフさえあれば、だいたい満足。

とはいえそれ以外のものも、作り過ぎてしまう罠。

 

食べてばっかりのお正月というわけでもなく、

聴こえるのはただ風の音ばかりという環境で、本をお供に長湯という至福も貪ってる、

ハッピーワンダフルニューイヤー。

 

明けましておめでとうございます。

 

お休みなさーい。

怒りや憤りに導かれ、君よ、影を呼び出すことなかれ

師も走るという師走もこれ以上ないほど押し迫った大晦日、栗きんとんに失敗してしまったので、デパートへと急ぐ。

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大晦日のデパート。あぁ大晦日だよ。。という特別な気分が味わえるかとちょっとワクワクしたけれど、店内もデパートのある中心部もさほど人も多くなく、大変に歩きやすかった。

 

バブル期の、通勤ラッシュを思わせる押し合いへしあいの混雑を彷彿とさせるよすがもなし。空港、あるいは空港に向かう交通機関なら、もしかするとあぁ大晦日。。という雰囲気に満ち満ちてたのかも。

 

お正月を控えたせいか除雪も行き届き、なんなら自転車でも問題ないくらいの歩きやすさで、大晦日というよりも、冬なのにまぁまぁ天気に恵まれた、普通の休日っぽい。

 

今年は金柑の蜜煮にも初めて挑戦。栗きんとんには失敗したけれど、こっちは初めてにしてはまぁまぁの出来で、満足。

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盆や正月、あるいはクリスマスといった特別な日に利用者が大きく減るのなら、そのサービスのメインユーザーは、特別な日にはそれなりに忙しくなる、日常を生きる人たちってことになるんじゃないすかね。

 

日常を生きる人から日常を奪い、非日常を生きろと押し付けたところで、目一杯抵抗されるのがオチ。非日常を生きる人にとってはそれが日常茶飯事のことであればなおさら非道だけが際立ち、日常を生きる人との乖離が激しくなるだけさ。

 

虚構でしか描きえないものそれは、異形とのめぐり逢い。

 

という仮説を、このたびうん十年ぶりに完結した物語に触発されて思いついた。もうひとつ仮説を思いついているけれど、それはこれから検証する予定。中断されたから追い掛けるのもやめた、その年月があまりにも長いので、検証にも相応の時間がかかる。ポチッと電子書籍というわけにもいかないのでなおさら。

 

蛇王とか、劇場型犯罪を敢行する愉快犯とか、ゲドが戦う影とか。その種の異形のものとの邂逅は、虚構に託して語るしかない。ただ気に食わないという理由だけで、虚構に託して実在する人やモノを断罪するのは、単に下品な憂さ晴らしで現実の写し鏡で物語でもなんでもないわな。

 

物語でもなんでもないから、フェイクニュースという便利な呼び名がぴったりくる。厳密なフェイクニュースの定義とは、多分大いに違ってるけどさ。

 

どうして俺・私がこんな目に遭うのか。という怒りや憤りに導かれ、呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンと目の前に現れた、異形の声にあなたは耳を傾けますか、どうしますか。

 

ゲド戦記あたりをサクッと動画で見てみようと思ったけれど、こちらもポチっとはいかず。不便ですこと。

 

怒りや憤りに導かれ、呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンと徘徊する影を封じ込めるため、大金を投じてシステムをすっかり変えてしまったあとで、憤怒の河を渡る最後の一人になるなかれ。その河は、最後の一人が渡り切ったあとに、やがては枯れてしまうものだから。

 

物語を綴るために必要だからと影をわざわざ呼び出すのなら、そもそもなんのための物語なんすかね。本末転倒に表裏一体に。もう少し四文字熟語の語彙を増やしたいと切実に思った、2017年の年の末。健やかに過ごすというありようの尊さが、身に染みた一年でもございました。

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どこから食べるべきか。なかなかに悩ましい。

健やかに過ごしたいと願いつつ、こういうのは止められないのよねぇ。

 

アラビア遊牧民には、移動そのものをよしとする思想があるそうで、活躍する場は海と砂漠で異なるけれど、稼ぐことしか考えなかったから滅ぼされたカルタゴの民と、根底となる思想は一緒なのかも。

 

お休みなさーい。

大きく下げても、一定ライン以下までは下がらないものなーんだ?

  • 民進党元代表の蓮舫氏、立憲民主党に入党
  • ペルーのフジモリ元大統領恩赦で釈放に反発、首都リマでは大規模な反対デモ起こる
  • 北海道で暴風雪が吹き荒れ、留萌港の灯台が根本より折れる

クラリオンガールとしてデビューした頃の蓮舫は、クリクリした大きな目とボーイッシュさが魅力の人だった。アホの子か賢い子かは話せばわかり、頭の回転が早い人だということは、司会をさせればすぐわかる。おもてなしの人か、おもてなしして欲しい人かも、人前に立てば丸わかり。

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右肩上がりでグングン上昇したかと思うと、どどーんと下がり、これから地獄かと思うとまた上がって、小休止。と、山あり谷ありのジェットコースターを経験させるそのココロは、離れがたくさせること。

 

また上がるかもという期待が、対象への前のめりな入れ込みに繋がり、潮時を見失わせる。

 

およそ賭け事らしい賭け事には、一切近寄らない。ギャンブル、楽しー♪なんて回路は一生開くことはない。賭け事は、しょせん胴元が勝つものだから。

 

大きく下げても、一定ライン以下までは下がらずに下方硬直性を発揮するのなら、そこは自由競争の場ではなくて、何らかの介入が働いて、価格決定権を握るプライスリーダーがいる場なんだと考えた方がしっくりくる。

 

最近大きく上がって大きく下げた、とある金融商品の話。プライスリーダーに嫌われると、市場からはきれいさっぱり姿を消すようになってるんでしょ。

 

市場として育てたいから介入が起こり、市場を破壊、あるいは毀損するものは退場を迫られる。という当たり前の話なんだけど、当たり前が通じない人にはどこまでも通じないんだな、これが。

 

今年一年間にAmazonで買った金額の総計を振り返ってみたら、まぁざっくり12万円くらい使ってた。1ヵ月に2万円以上使い込み過ぎると、使いすぎ~とブレーキがかかるから、だいたいそんなもの。

 

改めて振り返ってみると、単価の低下に驚くばかり。おもに買ってるのは電子書籍と映画などの動画。書籍の場合は、300頁を越えると電子書籍で読む気がしないから、高単価な本ほどリアル書店で買っている。自然、新書や雑誌などの比較的低価格なものを、多数買っていることになる。あらこれ、安物買いの銭失いって奴やん。

 

おまけに買った時についてくるポイントのおかげで、結果的に安く買っていることになり、Amazon経済圏の中でぐーるぐる回ってる。買い手に都合よすぎて怖くなる。

 

売り手よし買い手よし世間よしのトライアングルにあてはめて考えると、出来上がるのはどう考えてもいびつなトライアングル。その気持ちがどこかにあるせいか、比較的高単価なものは取り寄せずにリアル店舗で買う傾向にあり。

 

本以外のものでも、リアル店舗になかった場合に限ってネットで買おうとするリアル店舗派で、リアル店舗に期待するのはショールーム機能。ということが、はっきりしてすっきり。

 

戦闘力は高いけれど経済力には欠ける、武に勝る国があえて勝ち目のない戦いでも戦端を開くのなら、実はとっとと負けて戦勝国の奴隷にでもなり下がりたいという下心があるのかも。

 

奴隷になって、あれしろこれしろと命令されてる方が、今日はどうやって民を食べさせようと悩まなくても済めば、そもそも今日一日をどうやって生き延びようかとも考えなくてすむやね。と、架空戦記を眺めながら思った。

 

お休みなさーい。