クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

めざす場所

“僕・私の居る場所が常に正義”なのが、何を言ったかより誰が言ったかの極北の姿。

 

正義といったって、例えば対立するAとBにとってそれぞれの正義は異なり、場合によっては正反対の場合もある。AからBへと立ち位置を変え、以前とは真逆の主張をしつつもこれが今の正義なの!と、主張するのが例えば経営者で、立ち位置の変更も経営方針の変更に伴うものだったら、フォロワーと言う名の従業員は抵抗感なく受け入れる。

 

抵抗ある人にはフォロワーを辞めるという選択をしてもらうと、新しい経営方針に異を唱える抵抗勢力もいなくなり、新しい正義のもと新しい経営方針に一丸となって邁進できる。

 

営利を追求する企業だったら、それでいいんだけどさ。

 

“僕・私の居る場所が常に正義”で、立ち位置を変えるたびにコロコロと主張を変えるだけの“ことばでメシ食ってるような人”は、単に生き残り欲求が人より飛び抜けて強いだけのエゴイスト。欲の塊だから、最後は欲に呑まれて欲と一体化できたら、それこそ本望でしょ。

 

人権後進国、あるいは人権後進産業の言うことなんて、聞くもんじゃない。

 

お金では買えないものがある世界は一見不平等だけど、お金で何でも買える世界では、人権は安くなるか無視される。極端な例で考えれば人身売買が許される世界は、お金で何でも買える世界で、人権には値がつかない世界。

 

そもそも人権が蹂躙されていて、その状態を脱しようとハングリー精神を発達させる人は競争社会向きで、競争を激化させたいから敢えて人権を蹂躙し、競争社会を加速させようと画策するのはどうやってもハングリー精神を発揮できない側。

 

手枷足枷をはめられていると、ハングリー精神なんて発揮できない。

 

壮絶ないじめ加害者による、いじめダメ絶対発言や、セクハラパワハラ加害者による、ハラスメント禁止発言。あるいは死ねよがしをした人による自死予防発言は、言葉だけだったらオマエが言うなよで、限りなく薄っぺらい。

 

ところがそれぞれ加害によるてひどい罰を被り、ひどい罰を被っていることが周知されている立場から発言することで、薄っぺらな言葉もより“実“のあるものに変わる。

 

いじめもハラスメントもダメ絶対、じゃないとこんなにひどい目に遭う。死ねよがし、ダメ絶対、そう振る舞った方が今度は死ねよがしの目に遭わされる。という因果応報が可視化されると、抑止力も増すってもの。

 

薄っぺらな言葉が薄っぺらなまま流通して高値がつくのは、人権後進国で人権後進産業内だけ。薄っぺらい言葉に実が伴わないと、聞いてももらえないのが人権の発達した場所。ということも可視化されたら、おっかないから後進国でいいですと、自ら後進国めざす人が増えるような気もしてきた。

 

演じる、振る舞うのが上手なだけにはもう騙されない人が増えるのは、目が肥えたってことでいいことに違いない。