クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

伝統芸にお家芸

ナポレオンがセントヘレナ島に流された頃と言えば、ざっくり言って200年前。その頃に書かれた小説の中でも、天下の回りものであるお金がすべてに優先する風潮を嘆く、言わば拝金主義批判とでも言うべき記述があった。

 

今どきの若者はなっちゃいないとお年寄りが嘆くのと一緒で、拝金主義批判も伝統芸でお家芸のひとつ。時代は変わっても嘆く、あるいは文句をつける人が必ず現れ、そこに一定の支持が集まっているなら、時代を構成するパーツは何も変わっちゃいないという証拠。

 

今どきの若者はなっちゃいないと文句つけるお年寄りと拝金主義批判が、世の中から消えた時こそ本当に時代が変わった時。時代を構成するパーツも、ついにすっかり入れ替わったってことだから。

 

どこも伝統芸やお家芸の継承に悩まされ、ハードモードに直面する革新の時代には、伝統から自由な人やモノほどイージーモード。前例に縛られる必要がないか極小で済むから。

 

伝統芸やお家芸が、次の時代にも受け継がれるかどうかの瀬戸際に、十年一日のごとく伝統芸を披露しているところはきっと余裕がある。余裕があると思われる必要があるから、そう振る舞ってるだけ。という一面もあるけどさ。

 

いざ消えるとなったら各方面から非難が飛んでくる、やっぱりあった方がいいよねと思われる替えの利かないものは、現実にはなかなか消えない。上位互換も下位互換もあるから、いつなくなってもいいよねと思われるものほど生き残りが難しく、消えても気付かれにくい。

 

替えが利かないものは、上位互換か下位互換が見つかるまでは生涯現役を強いられるのが、伝統芸の継承にハードモードで挑む姿。伝統を受け継ぐ人が、少なくなればなるほど伝統を受け継ぐ人は大切にされる。ただし、交代要員が見つからないか育成できなかったら、ハードモードが待っている。

 

ハードモードに耐えられる人は、そもそもハードワークに慣れてる人で、箸より重いものは持たず持たせずで大事に育成されたような人は、結局はすぐに潰れてしまうから元の木阿弥。

 

伝統のぶ厚い衣は、最初は借りてきたように似合わず、伝統という重みにも負けずに着こなすのが難しい。さらに難しいのは、伝統というぶ厚い衣を脱ぎ捨てる時。それでもイージーモードの方が良く見えたんだったら、しょうがない。

 

弱り目に祟り目で誰かをひどく傷つけるのは、傷つけない限り誰かさんの心には触れないからで、ヒトのココロ食いの仕業さ。