クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

神様からポイっ

捨てる神あれば拾う神ありが意味するところは、Aという神様がいる場所からBという神様がいる場所へのお引越し。どっちにしてもそこには神様がいて、信じる対象を変えたに過ぎない。

 

神様が居ない場所はめざさず、神様が居る場所だけをグルグル回っている状態は神様ショッピングで、ドクターショッピングと同じ状態だと思えば想像もしやすい。

 

今でもその内容がどこまで通用するのかは未知数だけど、革命を経たフランスは神様否定社会で、パブリックな場での宗教色を一掃した国。対してアメリカは、大統領も裁判所でも聖書、言い換えれば神様に誓う、パブリックな場にも宗教が顔を出す国。

 

パブリックな場での宗教色を一掃した国だから、パブリックな場に宗教が登場すると論争が起こる国と、パブリックな場から宗教色を一掃しようとすると論争が起こる国。と、言い換えれば、ヒジャブや中絶をめぐる争いが過激化するのも納得しやすくなる。

 

それもこれも、革命を経て誕生した国あるいは旧教徒からの迫害を逃れて新教徒が作った国という、そもそもの国の成り立ちについて濃厚な記憶があればこそ。住民が入れ替わり、国の成り立ちとは無関係な住民が増えるほどに濃厚な記憶も薄れ、濃厚な記憶が薄れるほどにその国らしさも薄れていく。

 

その国らしさが薄まるほどに、だからその国を選んだという強い動機でその国を住処に定めた人たちは、その場所にとどまる意味を失くしていく。引っ掻き回すのは、トリックスター。悪戯が過ぎたトリックスターからは、神様だってオモチャを取り上げる。

 

この国はかつてこうだった。

 

という、明らかな過去形だと納得もしやすい。反証が見つからない場合は特に。この国はこうだという現在進行形かつ断定口調は、こう見えているからこうするんだという発言者の強い意思が隠されていることもある。

 

発言者の中ではきっとそうなんだろうけど、「私」を「我々」に、「我々」をさらにでっかく一地方や国全体にすり替えて言ってるよね?と、わざと主語をすり替えて「私」を大きく見せる術が抜けない人は、居るもんさ。

 

見出しでスルーは雑誌のタイトルにも応用可能で、「絶望」「選別される」「罠」「病」と、ありふれた個人をターゲットにした場合はネガティブワードを駆使。「沸き立つ」「進撃」「絶好調」と景気のいい大企業群をターゲットにした場合はポジティブワードが並ぶ。そんなタイトルをつける人の意図は見え透いていて、要するに不安を煽っている。

 

だからこれは、不安を煽って不安に備えさせようとし、不安というリスクをカバーすることがお金に代わる人たちがやってることだから、話半分ね。までジャンピングするのも、わりとすぐ。

 

メディアが拡声器なら、拡声器を武器に大声で主張したいことがある人に拡声器持たせると、いい仕事する。拡声器持って強く主張したいことが尽きた後は、静かにフェードアウトするのかどうするのか知らないけどさ。

 

本意ではないことを大声でアナウンスされて印象操作に使われるなら、そりゃ誤解されがちな皆さんは、「私」の主張ができる自分専用拡声器、個人メディアを手放すはずがない。逆に、未来永劫変わることがないと確信するに足る「正当な評価」を手に入れた人にとって、個人メディアは必要なく、正当な評価を歪めかねない個人メディアは目の敵。

 

そして誤解されることが多く個人メディアを手放すはずがない人は、どっちかっていうと本意ではないことを大声でアナウンスして印象操作する人や集団は嫌いそう。