クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

『戦争は女の顔をしていない』読んだ。

今年2015年のノーベル文学賞を受賞した、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの処女作『戦争は女の顏をしていない』を読んだ。正確には本棚から引っ張り出してきての再読。

戦争は女の顔をしていない

戦争は女の顔をしていない

 

 ノーベル文学賞を受賞するような人が書いた本とくれば、睡眠導入剤にもってこいな眠たそうで難しそうな、ある程度の読書経験がないと楽しめないという思い込みがある。エンタメが好きな普通の人には敷居が高い。ところがこの『戦争は女の顔をしていない』は、オーラルヒストリーでインタビュー集なので、口語文主体で読みやすい。

 封印されてきたソ連の従軍女性たちの声を聞けば、現代史のなかにひそむ悪魔の顏が見えてくる。~本の帯より引用~

 今は消滅した国、旧ソ連で第二次大戦に従軍した女性たちに対する、聞き語り。著者のアレクシエーヴィチはジャーナリストで、文学者じゃない。

 

 第二次大戦の戦勝国、そして東西冷戦下では東側諸国の盟主だったソ連にとっての不都合な真実について書かれている。ファシストに勝利するという「大きな物語」の影で、語ることも許されず、自ら口を閉ざした女性たちの記録。“泣いた”と“怒られた”という記述でいっぱい。

 

 「そうするのが当然」だと思い、望んで戦場に赴いた女性たち。家庭的に恵まれず、困窮した挙句に兵士の道を選んだ人は少数で、むしろ愛情たっぷりに育てられた「お嬢さん」が主体。家庭からいきなり戦場に放り出され、混乱しつつも任務には忠実だったピュアなお嬢さん兵士たち。

 

 ・兵士に志願するともらえる支度金で、トランクいっぱいにチョコレート菓子を詰め込んで戦場に赴いた。

・行軍の最中に見つけたスミレで花冠をつくり、支給された銃に飾っていたら上官に罰当番を命じられた。

・戦功で表彰されることになり、軍服の襟に夜鍋でふち飾りっぽいものを縫い付けて、晴れ着っぽくなるよう工夫した。

・軍特有のしきたりや階級に馴染めず覚えられず、隊長や中尉の代わりに「ハンサムな人」「禿げてる人」、赤毛にのっぽとあだ名で誤魔化していた。

 

などなど。十代の女の子だったらいかにもありそうなエピソードと、手足がもげ、人が当たり前のように死んでいく、凄惨な戦場での出来事がひとりの女性の中に同居してる。

 

 インタビュー集が始まる前には、著者による前書き的な文章があり、インタビューは決して順調ではなかったこと、出版を断られ続けたこと。ソ連の消滅や歳月を経たことで、風向きが変わったことが書かれていた。同時代には語れないこと、生活を守るためには口をつぐむしかなかったことも、ありのまま。

 

 従軍した女性たちのエピソードだけでなく、同時代に戦場で戦った男性の声も紹介されている。戦友として敬意は抱いても、決して妻にはしたくないと、男性側の本音もありのまま。同じ戦場に立ち、そのまま結婚に至った夫婦が居ても、男性は自分の妻が戦争で勇敢に闘った事実を隠したがる。

 

 アメリカやイギリスといった連合国でも、従軍した女性は少なくないはずだけど、恐らくは後方勤務主体で、あったとしても衛生兵。ソ連のように、狙撃兵や砲兵隊として泥まみれ、血まみれで戦場に出てるケースは稀だったんじゃないかと思う。しかもその数100万人。

 

 「女の子だったのか」と驚かれたという証言多数。女の子を率いて戦わざるを得なかった指揮官も、頭を抱えたと思われる証言も多数。今でこそ女性兵士に何の疑問も抱かないけど、70年以上前のジェンダー意識では、女性を戦場に送るのはある意味「卑怯な禁じ手」だったんじゃないのかな。

 

 戦場で鬼のような形相の敵兵に出くわすより、「止まってくださらないと、撃ちますわよ」と言う、可憐なお嬢さんに出くわす方が恐ろしい。教養の高い文化人ほど戦意を喪失する。ソ連社会主義国で男女同権意識が他の国より進んでいたからとも言えるし、若い女性さえも動員せざるを得なかった、若い国(社会主義革命から日も浅い、当時は若い国だった)だからとも言える。

 

 戦時中は「戦地で闘う可哀そうなお嬢さん」と見られていた彼女たちは、戦後は世間からの圧力で、口を閉ざすことになる。戦場の英雄は、平和な日常生活においては単なる人殺しだから。良かれと思ってしたことも、価値観の逆転でなかったことにされ、苦しんだこともありのまま

 

 若き社会主義国家の勝利が、なりふり構わず「弱者」も総動員しての結果だったら感動はイマイチ盛り上がらない。そこはやっぱり“勇敢なヒーロー”が“雄々しく闘った”ことにしたい。実は女の影に隠れていたとしても、その方が外聞もいい。

 

 著者は、ウクライナ生まれのベラルーシ人。一貫して、権力者からすればアンタッチャブルな領域をフィールドワークにジャーナリスト活動を続けているらしい。この本によると、祖国では自由な活動ができずに現在はドイツ在住とか。いまだに戦時中かとクラクラくる。(追記:2015年10月現在、べラルーシに戻って活動を再開されているとか)

 

 500人を超える、実戦に参加した(それはつまり実際に人を殺したということ)女性たちの証言を通じて得たもの。それは、大きな物語なんていらないってこと。戦場でも暇があれば針仕事をしたり花を摘んだりする人に必要だったのは、もっと別の、マーサ・スチュワートのライフスタイルブック的な何か。

 

 社会に居場所が見つけられない人間を、戦場という非日常に走らせるような、大きな物語なんてイラネー

 

「大きな物語」の影で口をつぐまざるをえなかった、本当は花やお菓子や友達や家族が好きで大切な人の小さな声を集めた物語。2015年の今読み返すと、たいへん感慨深いものがあった。

 

お休みなさーい。