英 語ができず苦悩する主婦が一念発起して英会話学校に通い、コンプレックスを克服し生きがいを見いだしていく女性賛歌。英会話という小さなきっかけを通し て人生の喜びを発見するヒロインの日々を、アクションやミュージカルといったこれまでのインド映画とは異なる語り口で描く。本作で長編デビューを飾る新鋭 女性監督ガウリ・シンデーがメガホンを取り、数多くの出演作があるインドの女優シュリーデヴィが主演。
英語も話せないのに、アメリカで生活することになった主人公のインド人主婦シャシ。彼女の周囲には、英語が話せる人と話せない人の、2種類の人間が存在する。
英語に堪能でないというだけで、時に家族との間にも溝を感じていたシャシ。配偶者や子供はどんどん先へ進んでいくのに、自分は取り残されている。
そんな気持ちを抱えたままアメリカに行くことになって、「英語さえ話せたら!」そう強く願うきっかけに背中を押されるように、英会話の習得に励むようになる。
この映画、英語あるいは「ことば」ももうひとつの大きなテーマで、ことばを使って何がしたいのか、何ができるのか。そんなこともつい考えてしまった。
ことばを自在に操れること。それ自体は大して有益なことでもなんでもないんだ。むしろ、達者なだけに凶器にも等しい害にもなり得る。そう再確認した。
結局語学力もツールのひとつにしか過ぎなくて、ツールの善き使い手なのかどうか。シャシがたどたどしく話す姿からは、そっちの方が断然大事なことが伝わってきた。
達者なことばの使い手が、時々あからさまに感じ悪いんだよね。
とても達者にことばを操る人が、必ずしも良きことばの使い手とは限らない。それがすっごくよくわかる。
達者な使い手になることを急ぐあまり、あんまり良くない使い方を真似てみる人もいたりして。そんな時もシャシは、「それはダメ」とソフトに諭す人。違いを見つけるたびに、いちいち論争なんかしなくてもいいんだよね。もっと穏やかな解決法があるんだからとつくづく思った。
NYの街のどこへでも、サリーという華麗な民族衣装で歩き回るシャシ。NYの街を人目も気にせず着物で歩き回る日本人女性がいたら、相当肝が据わってる。道行く人が振り返るに違いないんだから。
つまり、シャシはある種鈍感な人でもあって、自分の国の文化が脅かされるアメリカ人からすると、心穏やかなるシーンもあったりする。
その一方で、豊かになろうとする国の人から見たニューヨークの街、実物の何倍もキラキラしてるようで素晴らしかった。
ことばを達者に操る「善き使い手」の姿、例えば姪のラーダなんかが、街の魅力を高める構成要素のひとつになってるに違いない。
『スミス都へ行く』が好きな人が見ても、案外楽しめるんじゃないかとひそかに思ってる。ついでに、シャシの得意料理でもあるインドスイーツが食べてみたくてしょうがない。
お休みなさーい。