すっきりと晴れもせず、蒸し暑い一日。花フェスタが無事に終了した大通公園では、さっぽろ夏まつりの準備が早くも進行中。ビアガーデンがオープンする頃には、もう少し夏らしくなって欲しいもの。
映画のレビューでは、見たもの感じたことすべてをぶちまけてもしょうがないので、「ここがいっちゃん良かった」ポイントに絞るようにしてる。できるだけ。
“ニューカマー女性の生きる道”にフォーカスしたかったので、敢えてスルーしたのは『ブルックリン』における、トニーをパートナーに選びながら、なぜジムにもなびくのか問題(と、勝手に問題にしてみる)。
わかんない人にはこの感覚、きっとわからないだろうなと思うので、書いてみた。こういう考え方もあるよ、ということで。
異性の魅力より大きなウェイトを占めるのは、環境の力。その場所や場面にふさわしいふるまいかどうかを、常に熟慮するよう躾けられているのも、環境由来。
大都会に出たくてしょうがなくて、都会に生きる女性に憧れを募らせるような女性だったら、その振る舞いもおのずと「それっぽく」なる。簡単にひっついたり離れたり、ちょっとしたことでも大騒ぎしたり。
喧騒とともに生きることを「大都会で暮らすこと」と混同していたら、そうなりがち。都市が放つ熱気にやられてる。
ところが都会で暮らすことは「仕事を得るため」と割り切っていて、故郷の磁場に強くとらわれたままで、何かあれば帰りたいとホームシックにかかるような女性は、都会でも肩肘張ったり強がったりする必要もない。平熱のまま。
『ブルックリン』のヒロイン・エイリシュは、後者に見える。
仕事をする上では平熱のままだけど、恋人ができて浮かれるあたりは、やっぱり年頃の女の子。浮かれているから、トニーの熱気にも感染し、ふだんの彼女らしくない一面も見せている。無防備。無防備であっても、赤の他人には過度な関心を持たない都会では、目立たないから許される。
ところがいったん故郷に呼び戻されてみると、エイリシュのふるまいは「はしたない」と眉を顰められる。
また悲劇に見舞われた直後でもあり、母が喜ぶかどうかわからないことは、迂闊には口走れない。場所にも場面にもふさわしくないから、報告すべきことを報告せず、エイリシュは口をつぐむ。恐らくは、タイミングを図ってた。
ところがエイリシュが様子見をしている間に、故郷の人は外堀を埋めてくる。故郷の人たちにとっても悲劇の痛手は大きく、欠落を早く埋めたいから。
故郷であるアイルランドは、そもそもがニューヨークとは比べものにならないほどの小さなコミュニティ。小さいから、能力があっても他国に働きに出るしかなかった。
そこに欠員が生まれ、欠落を埋めるのにぴったりだったのがエイリシュ。都会生活で外見はすっかり垢抜けたけど、中身はさして変わってない。変わってないから地域の平和を乱すこともないと見込まれてか、降ってわいたように仕事もパートナーも用意される。
故郷の磁場に強くとらわれているエイリシュは、用意された仕事もパートナーも強く拒むことはない。第一義には、はしたないから。
ジムとの交際を断固として断るには理由がいる。すでに決まった相手としてトニーのことを話すにしても、アイルランドではトニーの美点は理解されづらい。
ジムは、アイルランドでは名家の子息として一目置かれるけど、成長著しいニューヨークでは、単なるボンクラお坊ちゃまとして扱われる可能性大。故郷だからジムが輝けるように、トニーもニューヨークだから輝ける。
ニューヨークにもジムのようなお坊ちゃまはきっといる。いるけど、アイルランドから出てきたエイリシュには、お坊ちゃまと知り合う理由もきっかけもない。
エイリシュがニューヨークで知り合ったのがジムのようなお坊ちゃまなら、故郷の人も納得したかもしれないけれど、そう簡単にはいかない都会の事情を、故郷の人はきっと理解しない。特に、一度も外へ出たことがない人であれば。
理解しない人に伝える義理はなく、伝えないまま時は流れて、ジムとのデート回数だけが積み重なっていく。
エイリシュのようなタイプがいちばん苦手なことは「周囲の期待に背くこと」。
あてがわれた仕事も、ジムとのデートも、断固拒否することは周囲との摩擦を生み、小さなコミュニティに波風とゴシップを提供することになる。それは、エイリシュの望まないこと。
エイリシュだけでなく、過去にもエイリシュタイプを丸め込んできたのかと思うほど、街の人たちいい仕事するんだ。「あなた、ここにずっと居るんでしょ?」とばかりに。
他者を蹴落としてでも勝ちに行くような育ち方をしていれば、もっと強い自我を発揮して抗ったかもしれないけど、生憎エイリシュには無縁の生き方。トニーからの手紙を前に、どう言えばいいのかと泣くだけ。
周囲の期待、特に母親を悲しませることは、エイリシュにとっては極めてハードルが高い。その高いハードルを飛び越えさすんだから、魔女の力はすごい。
深い葛藤は見せない代わりにはじけるような笑顔が消え、迂闊なふるまいは姿を消し、ただ慎ましくなったジムの前でのエイリシュは、「場にふさわしい」姿を演じてるだけ。演じているだけだから罪の意識も薄く、ジムとの結婚でさえも他人事のまま、その日を迎えたのかもしれない。
トニーがいながらなぜジムにもなびくのかに見えて、実はジムにはまったくなびいてなかった説を唱えたい。ジムその人よりも、ジムにしとけという周囲の声、特に母親の声になびいていたんだよ、あれは。
日記カテにして、『ブルックリン』のレビューとは隔離しておこう。
お休みなさーい。