クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

お商売上手

カワイイだけじゃなく、おショーバイ上手なお利口さん。

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シマエナガといえば、丸まっちぃところが何よりの魅力でかわいさの源。丸まっちぃだけならちょっと頑張れば誰にでも量産可能で、やっぱりちょっと頑張れば“カワイイ”だって誰にでも量産可能なんだと思わせる。

 

ポイントは、“量産したくなるほどかわいいオリジナル”があるってところ。量産したくなるほどかわいいオリジナルを短期で大量にばら撒いておくと、かわいいオリジナルのことを記憶に残す人の数もそれだけ増える。

 

雀や雛に近い小鳥をかわいいと感じるのは下ぶくれだからで、丸まっちくて下ぶくれ気味だとかわいいと感じるようになっているのかも。

 

丸まっちくて下ぶくれといえば赤ちゃんもそうで、ミケランジェロやラファエルロ、ルネサンス期のイタリアを代表する、つまりラテン世界の歴史を遡ってみても、天使像や赤ちゃんはだいたい丸まっちくコロコロとしていて肉付きがよくてカワイイ。同時代のラテン以外ではどうなのかは、よく知らね。

 

ルネサンス期の宗教画から抜け出してきたような赤ちゃんや子供を見ると“天使みたい”と思うのはだから自然で、丸まっちくてコロコロしている赤ちゃんや幼子と天使とかわいいがイコールでつながって、丸まっちくてコロコロとした愛らしい赤ちゃんや子供は天使の似姿で、だからかわいいんだと自然に刷り込まれている。

 

この刷り込みを変えようとすると、少しも丸まったところがなくコロコロでもない。思わず突っついてみたくなるorさわってみたくなるような要素はどこにも見当たらないものを例えば天使像のようなポジションに据え、天使とかわいいがイコールでつながるなら、かわいくないものも天使でかわいくないけれど天使のようなものだから、天使だと思ってかわいいものとして扱う。

 

という美醜の逆転に挑むことになるけれど、美醜という価値は相当な時間をかけて磨き上げられてきた価値観だから簡単には揺らがない。

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(この2枚は昨年撮った、冬の青い池)

幼児も赤ちゃんも、丸まっちぃとよりそれらしくなる。

 

より“それらしい”モデルを使った商品とより“それらしくない”モデルを使った商品ではどちらの方がより売上がいいのか。

 

売上がゴールだと、売上が上がる方から逆算してモデルが決まり、売れるパターンも定型化する。売上とは別のものがゴールだと、売上から逆算してモデルを決める必要がないから売れるパターンも不定形になる。

 

売れるパターンを自ら壊した型無しと、売る必要がないからの型無しとでは、表層として現れるのが同じ型無しでもまったく意味が違う。両者を並べるとその違いは一目瞭然になって、場違いなのはどちらかがよくわかるようになる。

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ちょっと頑張れば“カワイイ”だって誰にでも量産可能になるテクニックは、例えば何らかのお付き合いでキャラ弁のようなものをインスタその他のSNSで“披露しなければならない”ような時にこそお役立ち。

 

そういうメンドクサイを丁寧に拾って面倒なところを減らしていくといつまでも食いっぱぐれず、メンドクサイを丁寧に拾う側なのに面倒をばら撒いていると、きっといつまでたっても将来不安からは解放されないんだと思った。