アメリカで大豆の消費を増やしたいなら、難易度の高い納豆よりも、テンペの普及めざした方が簡単そう。スティック状に切ってフライにして、チリソースで食べればヘルシーフライドポテトの親戚っぽい。
テンペは一部アジア系の人にとっては、そもそもお馴染みの食材かもしれないし、納豆という日本人でさえ好き嫌いの分かれる食材。馴染みのない人にとっては、ハードル高過ぎ。
あなたを奴隷として扱うから、僕たち私たちと共にいらっしゃい。と、手を差し伸べる人と。誰かを奴隷のように扱うなんてまっぴらだから、奴隷のように生きる未来しか見えない人はそもそも受け入れない。と、入り口を狭くする人と。
人権感覚が発達しているのは、一体どちらなんすかね。
それに加え、例えばそれが有期雇用で、貨幣価値が1/5くらいの国の人の場合、きつい仕事に耐えた後で故郷に戻れば、ちょっとした小金持ちになっている可能性もあるわけで。ついでにもうちょっと想像をたくましくすれば、有期雇用で故郷に戻った後は小金持ちが確定している心の余裕があれば、きつい仕事も屈辱的な扱いも、いっときのことと受け流せる。
社会の複雑さに耐えようとすると、細かいことは気にしない方向に向かうのは、ある種の防衛本能かも。かもかも。
新宿中村屋といえば、咄嗟に思いつくのはカレーに月餅。創業者である相馬黒光・愛蔵夫婦は娘の婿として、イギリス政府のお尋ねものでインド独立運動に加わっていたボースを迎え、ボースの助言を得てインド式カレーをお店のメニューに加えたんだとか。
そのエピソードを思い出すたびに、娘さんが可哀そうになってくる。
国際結婚そのものが珍しかった時代。外国人、それもインドの人と、どう考えても親と政治の意向とで結婚させられ、父親が残した書き物のなかでは、心労が重なって若死にしたとまで書かれてる。
それなりに繁盛していた、人気のお店。そのお店のお嬢さんともなれば、大切に育てられていたに違いないと思うんだけど、どうしてそうなったのか。お前はインドの人、ボースと結婚しなさいと告げられた時の年頃の娘さんの心境を思うと、気の毒という言葉しか出てこない。
母親である黒光は、新人アーティストを支援するサロンのようなものを主催し、彼らのミューズとしてチヤホヤされてたのにさ。どうしてその娘の人生は、ハードモードになるのか。
時は、日清・日露戦争を経た大正時代。欧米列強と、表面上は同盟関係にあっても、結ばれたばかりの友好関係は盤石とはいえず、国際情勢的に色んな伝手はあった方がいいやろ。という、どう見ても政治的思惑込み込みの縁談。
税金をめぐって中村屋と国の間には溝もあったと聞けば、日本の同盟国であるイギリス政府に迫害されていたボースに、中村屋が肩入れする理由もなんとなく納得。
感情で動いている両親のもとに生まれた娘は、彼女の意思とは関係なく、因果を含められて嫁になったっぽいから、一層不憫。
大切に育てられていた娘さんだからこそ、駆け落ちするような想い人や想われ人もいなかったのか。自由恋愛なき時代の結婚は、時として政治的思惑込みとはいえ、あんまりと言えばあんまり。あんまりな例だから、歴史上の逸話としても名高いのかも。
新人アーティストのサロン主催者としても名高かった相馬黒光は、自伝を残していて、娘のことをどのように記述してるのか、悪い意味で興味津々。
親に頼まれる、あるいは命じられたら喜んで!と応えるよう教育されていたのか。
おかしなことも、おかしいと反発せずに名誉と受け取るような子供に育てたかったら、幼少時からの刷り込みが肝心で、刷り込みの手間を惜しんでおかしなことを命じたら、毒親と謗られてもしょうがない。
お休みなさーい。