クローズドなつもりのオープン・ノート

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超絶オンチな実在の女性をモデルにした『マダム・フローレンス!夢見るふたり』を見てきた。

超絶オンチな実在の女性をモデルにした、最初から最後まで不協和音を奏でっぱなしのコメディー、『マダム・フローレンス!夢見るふたり』を見てきた。


メリル・ストリープ×ヒュー・グラント!映画『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』予告編

主役のマダム・フローレンスをメリル・ストリープが、マダム・フローレンスの過保護な夫シンクレアをヒュー・グラントが演じてる。実年齢では年の差ありだけど、ヒュー・グラントの老け顔メイクの賜物か、あんまり年の差は感じなかった。

 

超絶オンチな女性が、なぜ“音楽の殿堂“カーネギー・ホールの舞台に立つことができたのか。マダム・フローレンスのリサイタル映像は、今でもカーネギー・ホールのアーカイブでは一番人気なんだとか。

 

下手すぎ、オンチすぎるから、マダム・フローレンスの人となりに、かえって興味もわくってもんで。実は『マダム・フローレンス!夢見るふたり』以前にも、彼女をモデルにしたフランス映画の『偉大なるマルグリット』を見てる。

 どちらも実在の女性をモデルにした作品だけど、“事実はひとつ。真実は、その事実を解釈する人の数だけある”が実感できる、まったく趣向の異なる作品になっていて面白い。

誰が聴いても音痴なのに、誰からも愛されたという、まさに“耳”を疑うソプラノ歌手。最初はあっけにとられた人々も、いつのまにか自由で大らかな歌声に魅入られてしまったという。1944年に76歳でカーネギー・ホールの舞台に立った。(『偉大なるマルグリット』フライヤーより引用)

 『偉大なるマルグリット』で紹介されていた、マダム・フローレンスのバイオグラフィーはたったこれだけ。一方、『マダム・フローレンス!夢見るふたり』の公式サイトには、もっと詳細な彼女の人生が紹介されている。

 

映画『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』公式サイト

※ネタバレが嫌いな人は、リンク先を読まなくてよし。

 

『マダム・フローレンス!夢見るふたり』はコメディ仕立てなので、笑えるポイントがいっぱいで、笑いの種類もいっぱい。愉快でたまらないという陽気な笑いもあれば、もうこれ笑うしかないよねという、悪意に満ちた陰性の嗤いもあり。

 

マダム・フローレンスに関する「事実」は、すべての人にとってオープンな情報ではないから、断片的な「事実」しか知らない人にとっては、ただ愉快で素っ頓狂なだけ。属する階級が異なれば、そこはさらに遠慮なしとなって、彼女は容赦なく悪意に満ちた嘲笑に晒される。

 

マダム・フローレンスについての事実をつぶさに知ってる人、夫であるシンクレアや忠実なメイドは、決して彼女を笑うことはない。彼女と親しい人、例えば彼女専属の伴奏者でピアニストのコズメも、彼女の音痴に絶望しながらも、次第に嗤えなくなっていく。なーんにも知らないうちは、遠慮なく笑ってたんだけどさ。

 

事実を知れば知るほど、笑い者にはできなくなる人物が、マダム・フローレンスという人。彼女自身もその周囲も、“個人的な大人の事情”を大声で吹聴する必要もその気もないので、そのジレンマを一手に引き受けてるのが、夫であるシンクレア。

 

マダム・フローレンスに対する過保護っぷりが見もので、ここも笑いどころ。

 

対マダム・フローレンス用の紳士な面と、まったく紳士でない部分を同時に併せ持つ、シンクレアその人も複雑な人。どうしてこうなっちゃったのか。マダムに対する愛情の源泉は、彼女の財産にあるのか、それだけでもないのか。その部分をもっと掘り下げてたら、より納得できたかも。かもかも。

 

とにかく女性に対してマメな人。あるいは、誰かが恥をかくシーンに耐えられない、極端に繊細な人なのか。シンクレアという男性も、マダムと同じく相当に興味深い人物で、つい割れ鍋に綴じ蓋というフレーズが浮かんでしまう。。

 

会う人すべてにその事情をオープンにすることはできないけれど、間違いなく悪意や嘲笑の対象になってしまう人物や事態を、どう悪意から守るのか。

 

『偉大なるマルグリット』と『マダム・フローレンス!夢見るふたり』では、事態の収拾の仕方、決着のつけ方に、個性の違いがはっきりと現れている。

 

着地点をどこにもってくるのか。『マダム・フローレンス!夢見るふたり』の方が、収拾のつけ方がよりハッピーかつ、より高度、傷ついてしまうのは織り込み済みだけど、傷さえ優しく包み込むようで、こっちの方が好き。

 

芸達者なだけでなく、本来とっても歌唱力のあるメリル・ストリープが、素晴らしい歌唱力を封印して超絶音痴に徹してるから、いい。とっても歌唱力があるという事実を知らなければ、単なる音痴にしか聞こえないところに皮肉のスパイスが効いてる。

 

Youtubeもなければニコ動もなかった1944年という時代には、「好き」で音楽を貫けたのは、やっぱり恵まれた人。好きを貫けたとしても、“音楽とはこうあるべし”と、べしべしと、楽しんでもらいたいとただ楽しそうに歌ってる人の横っ面さえ殴りに来る。

 

べしべしが幅をきかせる時代には、楽しいや下手の横好きで引っ張る趣味の世界は、肩身狭いんだ。コミケに何万人も訪れる、趣味のマーケットが超巨大となった今とは隔世の感もあれば、ハイカルチャーの壁も高くそびえてる。

 

べしべしが小気味よく、聞き分けの悪い誰かの横っ面を引っ叩くのが心地よかったクラスが居心地悪く感じるようになった時は、ほんらい裾野が広がった時。

 

金と暇にあかせて調子っぱずれのメロディーを、カーネギーでさえ披露できるなら、俺・私はもっと上手に歌えるという人が、次々にステージに上がっていけばいいのさ。

 

彼女が、動画配信で気軽に同好の士と繋がれる時代に生きていたら、スーザン・ボイルにはなれなくても、ある種のキワモノとして人気が出たかもと想像すると、ちょっと楽しい。

 

楽しんでもらいたいと、楽しそうにやってる人。ただ笑い者にするだけでいいのかと戸惑いながら、それでもやっぱり笑わされてしまった。

 

夫であるシンクレアは「僕のためだけに歌ってよ」(注:そうすれば無用なトラブルとも無縁で心穏やかに暮らせるからな。。)と願うけれど、マダムの願いは夫以外の人のためにも歌いたいで、不協和音は不協和音のまま。最後まで音程を取り戻すことはない。

 

だからといって、そこに幸せがないとは言えず、最後はほんのりハッピーという、現実感のある落としどころで安心した。

 

感動の嵐に包まれるような、大きく感情を揺さぶってくる作品とはちょっと違うけど、これはこれでよし。皮肉と冷笑がたっぷり振りかけられた、『偉大なるマルグリット』より何倍も好き。

 

嘲笑や悪意は、時には社会にとっても有用となるけれど、ぶつけていいのは壁となって立ち塞がっている場合だけ。相手が卵なのか、壁なのか。すべての事実をオープンにするわけにはいかない状況で、壁と卵を取り違えたら、そこには後味の悪さしか残らなくなる。

 


とんでもなくオンチなマダムの物語!映画『偉大なるマルグリット』予告編

『偉大なるマルグリット』のカトリーヌ・フロと、『マダム・フローレンス!夢見るふたり』のメリル・ストリープと。どちらの音痴っぷりが際立ってるのか。見比べてみるのも楽しい。

 

お休みなさーい。