クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

何度も見てる『チャーリーズ・エンジェル』

今となってはふた昔前に公開された『チャーリーズ・エンジェル』は、何度も見返してるオールタイムベストの1本。

 

テレビシリーズが最初で、2000年公開の映画ではヒロイン3人を、キャメロン・ディアスドリュー・バリモアルーシー・リューが演じてる。

 

チャーリーズ・エンジェルというタイトル通り、チャーリーという謎多き人物(多分お金持ち)の指令で、身体能力が高く美しい3人の女性が、時に密偵のように働きながら活躍するというアクションもの。まず、女性が主人公でアクション満載という設定が秀逸。

 

優等生に問題児に、変人。3人のヒロインをタイプ別に客観視すればそんな感じ。時にはセクシーな衣装で女性的魅力を振りまいているけれど、彼女たちにとってセクシーであることは武器のひとつ。武器だから、料理人が包丁を研ぐように手入れは怠らないけれど、セクシーさを振り撒くのは計算のうちで何らかの作戦行動の一環でしかない。

 

この映画公開当時の2000年では、悪知恵が働き悪だくみする悪党であっても、この種の女性の前では無防備で鼻の下も伸びるんだ。だから、作戦も遂行しやすかったんだという見方もできる。それから20年以上たった今となっては、この種の悪党の鼻の下が伸びて無防備になるのは一体どんなシーンなのか。想像もつかないけれど。

 

この映画が何回見返しても痛快なのは、彼女たちエンジェルは”チャーリーのエンジェル”であることがアイデンティティーの最上位で、何の迷いもなく指令をこなしていくところ。

 

彼女たち、アレックス・ディラン・ナタリーには各々プライベートがあり、プライベートではその年齢の女性らしいロマンスもあるけれど、チャーリーからの指令第一でチャーリーのエンジェルとして行動すること最優先で、そこにブレがないから痛快で爽快。彼女たちが繰り広げるアクションを安心して見ていられる。

 

彼女たちにエンジェルという名を与えたのも秀逸で、悪魔の使いじゃないから、チャーリーの指令はいつも不正や不正義を糾すために下される。だから、エンジェルたち個々のプライベートや人生より”チャーリーのエンジェル”が最上位でも何ら問題なく、問題ありだときっと途中で脱落してる。

 

”チャーリーのエンジェル”であることを疑問にも重荷にも感じないエンジェル達が、存分にエンジェルらしく暴れ回ってる。その姿は、旬の短い花の咲き時を惜しむように愛でているのではなく、ひとつの解を示したものなんだと思う。

 

体力や容色が衰える代わりに経験値が蓄積され、より知恵が悪い方に回るようになる。その種の悪に対し、一対一で対峙できなくとも団体戦、チームなら対抗できると暗示しているのかもと考えるのも楽しい。

 

チャーリーズ・エンジェル』はその後も続編が作られ、”チャーリー”という謎多き正義漢の代わりを企業がつとめ、エンジェルたちの作られ方も変わっていく。だから私はやっぱり最初期の謎多き正義漢のもと、”チャーリーのエンジェル”というアイデンティティー最上位で勧善懲悪に振り切ったストーリーの方が好みで、その方がよりフィクションらしい。

 

フィクションだから作り物。だけどノンフィクション、現実に存在する、罪を逃れてほくそ笑むような嫌な奴が懲らしめられるというストーリーだから、フィクションとして楽しめて支持できる。

 

複雑な現実社会は、誰にでも簡単に理解できるように作り変えることはできない。それは現実これはフィクションと虚実にきっぱりと線を引くことができないから、虚か実かといったグレイな領域にきっぱり線を引いて振り切った作り物は、何度も安心して見返すことができる。


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突然のドカ雪。1月の積雪量としては記録的だったとか。例年より雪が少なかった年末が、遠い昔のように思える景色になった。

 

チャーリーズ・エンジェルの続編として前のめりになれそうなストーリーは、私ならこんな感じ。任務で大怪我を負い、任務続行が難しくなったので引退した元チャーリーズエンジェルの子供(大怪我の原因・血の繋がりはなくとも可)が主人公。母たちの活躍に憧れ厳しい訓練にも耐え、晴れてエンジェルとなったまだ年若い青年が、母達の時代にはなかった事件を解決していく。彼個人のエンジェルとしての意識は高いけれど、何しろ時代はチームで団体戦で、個人の判断と企業の判断やチームの判断はすれ違う。それでも母の時代を知っている彼は、単なる仕事以上の義務感でチームの意識も変えていく。

 

多分どんなチャーリーズエンジェルが出てきても、キャメロン・ディアスドリュー・バリモアルーシー・リュー演じるアレックス・ディラン・ナタリー以外のエンジェルでは満足できない。だから、思い切った方向転換のエンジェルなら食指が動くかも。かもかも。

『キューティブロンド』のような女性が増えたら、社会が変わる

先進国に生まれた美人でお金持ちの、新しいロールモデルを描いた『キューティブロンド』は、今見てもビタミン剤でたちまち元気が出る一本。

 

西海岸でファッションビジネスを学んでいた享楽的な女子大生エル・ウッズは、失恋をきっかけに一念発起。それまでの人生とは180度異なる東海岸の名門ハーバードロースクールに進学する。

 

西海岸では、自分たちとは違う道を選んだエルであっても、エルの周囲の人たちは温かく見守って支援する。そういう環境にいたエルは、東海岸ロースクールではことごとく”今までの自分”が否定され続ける。

 

彼女もハーバード流に染まり、その他大勢のハーバード生と同じようにふるまえば目立つことも標的にされることもなくなるに違いないけれど、それだとエルの挑戦はそこで終わってしまう。

 

ハーバード流とは全く異なる文化からきた女性が、ハーバード流に染まることなく彼女らしさ、”先進国に生まれた美人でお金持ち”マインドのまま、成長して成熟していくというストーリーが、公開時には大いに受けた。それも、ローティーンには大ウケで、日本で言えばセーラームーンプリキュアのように扱われているように見えた。

 

日本だと、セーラームーンプリキュアもグループで、対するキューティブロンドの場合は一人で異世界に立ち向かう。そこには大袈裟に言えば日本とアメリカの文化の違い、一神教多神教の違いも垣間見える。

 

ハーバードロースクールと言えば名門中の名門で、誰もがぼんやりとハーバードってこんな感じというイメージ、お堅いや近寄りがたいといったイメージを持っている。西海岸らしい、東海岸らしい。らしいというイメージはあくまでイメージだけど、イメージ通りの方が信用されやすくて受け入れられやすい。

 

だから、ファッションや立ち居振る舞い、趣味嗜好といったベクトルがそもそも全く異なるエル・ウッズは、全然従来のハーバードロースクール生らしくない。

 

先進国に生まれた美人でお金持ちのエルは、いわばそもそも”力”を持っている。

 

プール付きの豪邸と一人娘に甘い両親を持ち、好きなものには詳しく好きなものや定めた目標のためなら没頭できる。だからファッションや流行に詳しく、相手が上でも下でも新しいクライアントに繋がる可能性に満ちている。

 

ハーバードロースクールなら、プール付きの大豪邸もリッチマンの両親持ちも珍しくないかもしれないけれど、エルが同じようなリッチマンと違うのは子供っぽいところ。

 

子供っぽい。つまり感性が子供のままであることが所々で強調され、彼女が不必要に大人びる、あるいは訳知りの大人ぶる必要などないことが見て取れる。

 

なぜならすでにパワーや力を手中にした”先進国に生まれた美人でお金持ち”に必要なのは、正しい”思い”だから。

 

エルの同級生が、ロースクール(プロフェッショナルスクール)に入る前に力を入れたこと、いってみればガクチカを語るシーンがあるけれど。どれもこれもいかにもハーバードロースクールっぽくあるけれど、それ本当に好きなことなの???と聞いてみたいテーマが並ぶ。

 

中には一生の仕事にするんだろうという人もいるけれど、大抵は好きではないけれどハーバードロースクールでならウケが良さそう、あるいは通過儀礼として通過するために選んだものがあるはずで、先行事例が豊富なはず。

 

あるいは、いつかはその分野で力をふるいたいという”思い”でしかなく、力を得たいからハーバードで学ぶ。そして、多額の奨学金奨学金の返済を抱え、志を曲げねばならない力なき学生とエルはそもそも違う。

 

すでにパワーを手にした女性が、間違った側に立たないよう、ハーバードロースクールが繋がるとは思わない、相手にするとは思わない側に立ったストーリーだったから大ヒットに繋がったんじゃないだろうか。

 

そして、ブロンドヘアーの女性陣といえば映像で見掛けるトランプ政権の支持者層とも重なり、現在の結果はずっーと昔々に種がまかれたんだとも思える。

 

昔も今も、先進国に生まれた美人でお金持ちマインドは、ある種の人たちにとっては大変評判が悪くて嫌われる。なぜなら思い通りにはならないから。思い通りにはならないから、先進国に生まれた美人でお金持ちマインドは矯正の対象になれば、持ってるパワーそのものが削られるような目にも遭いがち。

 

だから、あらゆる妨害を跳ねのけエル・ウッズがエル・ウッズのままでハッピーエンドを迎えるストーリーが、ただ好ましい。

 

もちろんこの映画にも偏見と紙一重の描写があるけれど、その描写があることで、この映画に一定の方向性を与えてる。だから、嫌いな人は嫌いなはず。

 

必ず生まれてくる、それも少数ではなく国が年を取ると多数出現する”先進国に生まれた美人でお金持ち”をどう扱うべきか。ずっーと昔に真剣に考えた結果が現在につながっているからどなたかさんは扱いがお上手で、考えてこなかった方は扱いが未熟なまま。それが、大いなる力、パワーの恩恵にあずかれるかどうかを左右してる。

取り替えっ子を描いた『チェンジリング』見た

妖精に気に入られた愛らしい子供は妖精が連れて行き、攫われた子の代わりに残された子供が取り替えっ子。『チェンジリング』というタイトルからまず想像するのは、ケルト神話かどこかの逸話。

 

アンジョリーナ・ジョリー主演の映画『チェンジリング』は、後味の悪さで印象に残る映画。

 

1920年代という当時としては、新しい職場だったろう電話会社に勤める経済的に自立している女性のまだ幼い息子が、行方不明になるところから物語はスタートする。

 

事故か事件か、最愛の息子が行方不明になるだけでもただごとではないのに、数か月を経て”発見”された息子は明らかに別の子で、我が子ではないと訴えても他人、特に捜査機関は信じてくれないという大変に理不尽な状況に置かれる。

 

理不尽なのは主人公視点で、捜査機関や行政というマクロな視点で見れば、かなたには母性の庇護を必要とするまだ幼い少年が居て、こなたには母性を十二分に備えた女性が居る。だったらそれでいいじゃないかという乱暴な意見を頑として拒んでいると、何ということでしょう。

 

彼女の方が錯乱しているということになって、当時としては最先端の職場でローラースケートという見慣れない乗り物の一種を乗りこなしながら働く”アメリカの新しい女性”が、気付けば精神病院に入れられてしまう、THE理不尽。

 

なぜだ???と疑問ばかりが大きくなって、みせしめという語も脳裏に浮かぶ展開は、暗くて重い。

 

1920年代後半という時代、ローラースケートで忙しく動き回る職場は、活況を呈しているはずの当時の株式市場(←大暴落前)と無関係ではないかもしれず、言ってみれば当時最先端の職場の光と影の両面を描いていたのかもしれない。

 

新しいライフスタイルの最先端にいる彼女はまた、今までとは異なる新しいタイプの犯罪者とも最接近し、”新しい”の負の側面が、これでもかと詰め込まれてる。

 

一人では越えられない壁は、大勢で越えて行け。

 

過去の理不尽かつ不条理な出来事を、わざわざエンタメにするならそのくらいの意義はあって欲しい。新しい何かがなかなか定着せず、ビビッてるわけではないけど前に進まないし進めないのは、本来は言語化しにくい”何となく嫌な感じ”がつき纏うからで、その”何となく嫌な感じ”の極北がこうした悲劇だったんだよと教訓的に受け止めた。

 

理不尽や不条理に見舞われたアンジョリーナ・ジョリーは、途中取り乱すことはあっても最後は毅然としてた。一方、彼女を理不尽や不条理に陥れた男は、最期が近づけば近づくほど取り乱し、みっともない姿を見せていて、壁を越えたのは明らかにアンジョリーナ・ジョリーの方。

 

大いなる悲劇に見舞われた人のすべてが強くある必要はないけれど、一見しただけではそうとはわからないほどに回復もする。ララ・クロフトのように肉体的なわかりやすい強さではなく、極度に取り乱した状況や状態からでも回復する、人の精神的な強さを表現していた。ストーリーは暗くて重くて決して愉快な視聴体験ではないけれど、こういう作品をそれでも最後まで見る気になるのはやっぱり演じる人の力。

 

アンジョリーナ・ジョリーの凛とした姿が印象的だった。

 

Amazonプライム、吹替え版で視聴、2025年12月15日、本文に追記。

金字塔とはこういうものか、『もののけ姫』4Kデジタルリマスター版を見た

アニメといえば、ロボットもので戦闘もの。ロボットがモビルスーツと呼ばれようとLFOその他の名前で呼ばれようと、人が高性能マシンを駆使して闘うのが日本アニメの常道。

 

そういう理解と世界観とは、真逆の路線でストーリーだったから新鮮で異色だった『もののけ姫』。異色だったけれど、高性能マシンを駆使しての戦闘ものには興味も関心も持てない層の関心まで集めたから、アニメという枠を超えて空前の大ヒットになったのかもしれない『もののけ姫』を4Kデジタルリマスター版(@ドルビーシネマ)で見てきた。*1

 

何しろ主人公アシタカの設定が、まず異色。それまでアニメやコンテンツのメインストリームに登場したことのない出自で、戦国時代にその地方、東の方で北の方を日本と呼ぶには語弊のあるエリア出身で、『ゴールデンカムイ』に先立つこと20年ほど前。

 

アシタカの故郷から遠く離れた西の方、ヤマトで日本では、鉄砲という火器を用いて戦う恐らくは戦国時代。超人的な身体能力と戦闘能力を持つアシタカは、日本人とは明らかに異なっている。

 

アシタカは、本来リーダーとなるべく教育されたいわば”貴種”。身なりを整えれば、その時代の指導者の前に出しても憶することのない知性やリーダーシップに包容力を兼ね備え、その人柄に直に接した人達からは、自然と”様”付けで呼ばれてる。

 

アシタカ中心に考えれば『もののけ姫』は貴種流離譚で、自分たちの故郷とは別の歴史をたどった西の方に現れた彼は、いわばタイムトリッパー。タイムトリッパーでもある彼の目を通して見た西の世界は、獅子神(ししがみ)の森を背後に背負った少女サンと、烏帽子と呼ばれる女性リーダー率いるものづくり集団が争っている。

 

烏帽子たちは、木を切り森を破壊する。そうでなければ生きていけない彼女達の集団は、知識や経験は豊富でも現役の戦士や労働を担うにはハンディがある、何らかの手傷を負った弱者を抱えているから、生計のために森を破壊する。

 

一方もののけ姫ことサンは、森が破壊されたら生きていけない、生き物多数を抱えている。

 

サンと烏帽子。どちらも引かず、そこに現れたタイムトリッパーでアシタカは、そのどちらとも会話ができて通じてる。

 

過去からのタイムトリッパーである彼は、獅子神やだいだらぼっちといった神秘の存在にも理解があり、サンたちが森の恵みによって生かされていることも理解できる。

 

サンと烏帽子、どちらも理解できるアシタカが、サンと共に森に留まり常時森を守る存在とならなかったのは、彼はリーダーとなるべく育てられた貴種だから。烏帽子や烏帽子のような存在のリーダーとなることはできても、獅子神の森のリーダーは、やっぱり獅子神で、神様。

 

人間は、神様の代わりにはなれないから、彼は人とともに生きることを選ぶ。

 

木を倒し森を破壊しなければ生きていけない集団と、森が破壊されたら生きていけない集団との闘いは、どちらも生存がかかっている。だから、見てるだけの第三者にとってはただ辛い。あるいは、切ない。

 

獅子神の首が落とされた時、たくさんの木霊(こだま)も静かに消えていき、獅子神の首が戻ると木霊もまた復活、あるいは再生する。木霊に獅子神。あるいはだいだらぼっちも、理解がなければ薄気味悪い存在で、その薄気味悪さは実際に獅子神の森のような場所、例えば白神山地のような場所を、オフシーズンに単独でさまよう時の薄気味悪さに通じるものがある。

 

人の手が入っているものは怖くないけれど、人の手が入ってないものは怖い。だから、人が行き来する場所には人の手が入る。

 

高性能マシンを駆使し、稼働領域を拡張した、とある時点での強者は時にそれを忘れる。

 

ある時点は、30年か50年かそれとも100年か。強者が強者のまま、あるエリアを統治しようとした時人知が及ばない領域に遭遇し、人知が及ばない領域との折合いの付け方に習熟するほどに、統治期間も長くなる。例えば自然災害、水害・地震に干ばつ。

 

災いを被っても立ち直りが早く、傷はいつも浅い。獅子神、あるいは獅子神の森の神秘を言葉にすればそんな感じで、その種の存在は敬して遠去けるのが人間の知恵。

 

獅子神の首を落とした烏帽子は、神殺しの代償として森の恵みは得られず恩恵は受け取れないけれど、アシタカは別。

 

過去からのタイムトリッパーでもあるアシタカは、サンや烏帽子とは同じ時代に存在しながら同時代に生きてない。だから、短期スパンではなく長期スパン、例えば500年のスケールや物差しで事態を捉えることができ、獅子神の森に象徴される、サンの世界が直面している事態や危機が理解できる。

 

もののけ姫』という作品は、自然破壊に対する警鐘というメッセージ性が強く、アニメ版『沈黙の春』という見方もできる。だけど単なる警鐘を越え、折り合いの付け方を提示したものでもあって、だからこそ幅広い層の支持があっての大ヒットだったのかもと、改めて思った。

 

現在の閉鎖的関係性、例えば学校やスポーツ競技。未来や宇宙空間。そのどれでもない過去を舞台にしてさえ、虚構を織り交ぜスケールの大きな大作が作れる。アシタカの乗るヤックルや猩々が、戦国時代の日本に本当に居たのかどうか。本当ではないかもしれないけれど、本当でなくとも作品には支障がない、リアルだけ不思議だけを追求してないからの到達点で金字塔は、時々降臨するものだからこそありがたみも増し増し。

 

見て良かったと、つくづく思った。

札幌では雪が降る季節に突入

雪が白いから、イルミネーションの明かりがより映える、ホワイトイルミネーションの試験点灯。

 

追記:脚注追加、軽微な書き間違い訂正。

*1:公開当時は映画館で、以後はテレビ放送などで数回見てるけれど映画館で見るのは二度目

車やレースに興味関心が薄くても楽しめる、『F1/エフワン』見てきた

ブラッド・ピットといえば、ハンサム。ブラッド・ピットといえば、カッコいい。人好きのする笑顔が魅力的な美青年は、年を取ってもやっぱりカッコよかった。

 

ブラッド・ピットがカーレーサーを演じる映画、『F1/エフワン』見てきた。観終わったあとの気分は、爽快。

 

優勝圏外のチームに招聘された、ブラピ演じる主人公のソニー・ヘイズは、レーサーとしてのキャリアは長いけれど無冠。無冠だけどキャリアは長く、正攻法ではない走り方も知っているクセの強い人物。

 

音速の貴公子というキャッチフレーズを背負ったF1界のスーパースターがいたけれど。貴公子でもなければスーパースターでもない。だけどプレーヤー=レーサーとしてのキャリアは長く、一定の評価は得ているかつての天才、今は職人気質なレーサー役を、ギラギラ野心を燃やす必要もなくほどよく枯れた(=渋くなった)ブラピが、年齢相応に演じていて好感度大。カッコいい。

 

映画は全編にわたってF1という祝祭の場に相応しい賑やかな音楽に彩られ、演出も派手。娯楽映画はこうでなくっちゃという趣向でいっぱい。F1の売りはなんと言っても爆音だから、大きなスクリーンでまずは見てみたかった。

 

ストーリーも娯楽映画らしく、過度に複雑になり過ぎず、とはいえ緩急はしっかりあるので退屈はしない。娯楽としてとっても安心できるつくりになっていた。楽しめる。

 

『リバー・ランズ・スルー・イット』から何十年も経つと、かつての美青年も渋くなって日本流に言えばすでに還暦を越えている。還暦を越えても鍛え上げられた身体には洗い晒しのジーンズやシャツというカジュアルなスタイルがよく似合い、ひと昔前の60歳オーバーとは全然違う。

 

『リバー・ランズ・スルー・イット』ではフライ・フィッシングというものがあることを知り、『セブン』や吸血鬼ものなど彼が主役でなければ見ることも記憶に留めることもなかった。それら多数の作品を思ったとき、観客を呼べるビッグスターの偉大さがよくわかる。

 

『F1/エフワン』で、ビッグではないレーサーを演じるブラピは、息子のような年齢のチームメイト、ジョシュア・ピアスと衝突しながら共にトップをめざす。ジョシュア・ピアスにはステージママのように母親が付き添っていて、お金のかかるモータースポーツの最高峰であるF1にさえ参入できる、ニューリッチらしい雰囲気でいっぱい。

 

時速300キロで超高性能マシンが走り回るサーキットは時には大破して、安全第一な大衆車の世界とは真逆。

 

真逆だから、クラッシュのようなマイナスイメージが先行すると、少子高齢化でただでさえ少ない子供を危ない目には遭わせたくないと、新規参入できる土壌(=資金に余裕ができた)が整ってもニューカマーの参入は捗らなくなるかもしれない。

 

作中で主人公のソニー・ヘイズは、何度か「お金が目的じゃない」と繰り返す。清貧から生まれてくる台詞ではなく、界隈が潤ってお金が回るためにはリスクがあってもリスクを乗り越えなくてはならず、お金という余裕があればリスク対策にお金が回せるということなんだと、個人的には理解した。

 

着飾った人々が集い、投資対象としてチームを値踏みする。

 

自動車産業オイルマネー、さらにいえば道路を作る人、そうした産業にとっても祝祭の場であるF1やサーキットは、大衆車一台売って儲けはなんぼという世界とは対照的で、一度に動くお金は桁違い。

 

大衆車一台売ってなんぼでは足りないお金が、やりようによっては瞬く間に集まる。そういう場が、安全第一で想定外が許されなくなると予定調和、言い換えれば出来レース色に染まると観客は興ざめで、お金も集まらなくなる。

 

産業が潤っていれば興行も派手で、ド派手な興行がニューリッチを産業に運んでくる。そうした好循環の一環が、モータースポーツを題材にしたコンテンツ。なのかもしれない。

 

お金が目的ではないソニーが求めるものは、お金では買えないもの。走り切った時の爽快感や、チームが一体となった時の達成感や高揚感も、お金では買えない。

 

お金では買えないものだから、自らやりだし走り出す人が増えたとき、年齢相応に枯れて渋くなっても人好きのする笑顔は相変わらずでそのまま。カッコいい人は年を取ってもカッコいいままで、例え見たこともないような変わった車に乗っていてもステキだった。


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札幌では今年も大通公園でビアガーデンが始まって、夏真っ盛り。狸小路の狸が二匹で羊は一匹。祝祭気分もいっぱいさ。


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観客を呼べる芸が、送客できるファミリーを呼んでくる。

小説か映画か。ちょっと考えて、結局映画で見てきた『国宝』。これは、『たべっ子どうぶつ THE MOVIE』の動画配信を心待ちにしている者による感想です。

 

『国宝』は、昭和から平成にかけての歌舞伎界を舞台に、芸を極めて人間国宝になった人物を描いてた。女形(おやま)に部屋子(へやこ)。歌舞伎特有のシステムもストーリーに上手に取り入れて、歌舞伎には全く馴染みがない層でもお話についてこれるようになっていた。

 

例えば成駒屋成田屋などの屋号があって、襲名によって名前が変わる。だから『国宝』でも喜久雄という名の主人公の少年は、部屋子となって花井東一郎という名を貰い、やがて(花井)半次郎という名跡を継ぐ。

 

渡辺謙演じる花井半二郎が二代目で、喜久雄は三代目。順当なら半二郎の実子が継ぐはずだった名を、住み込みで修行していた”よその子”が継いだものだから、実子と部屋子の周囲では嵐が起こる。

 

商業演劇あるいは興行の世界で、大役に抜擢されることと、大役に抜擢される主役級を常に輩出し、屋号=家を維持することは天と地ほども違うはず。

 

若くして両親を失い、普通に生きていくにはハードルが高いスティグマ持ち。主人公は引き取られた歌舞伎役者の家で芸にのめり込んでいくけれど、彼の前にあったのは芸の道という一本道。

 

目の前に敷かれた道をただ邁進していたら芸に上達し、邁進しなかったら道は失われて踏み外すしかなかった。選択肢が増えた平成や令和では説得力に欠けるから、舞台は昭和。

 

芸を磨けば受け入れられて居場所もできるけれど、芸だけでは大役はつかない。芸の道を邁進し、露出の多い名跡を継いでも芸だけでは”歌舞伎界”はついてこなかった。

 

観客を呼べる芸か、観客を送客できるホニャララ家、しいては血筋か。という争いや諍いは、表面化することはなくともずっとその世界では燻ってそうで、主人公が冷遇されるのは、芸だけで呼べる観客には限度があるんだ。という、システムの壁が立ちはだかるからなんだ。と思ったこれは、『たべっ子どうぶつ THE MOVIE』はかわいいし、楽しいと思う者による感想です。

 

芸の指導は師匠によるマンツーマンで、完全なテキスト化も言語化も無理そうで、暗黙知に満ちている。生きざまが刻まれた芸をコピーし、その上に弟子である自身の生きざまを重ねていく。

 

伝統と名の付く芸術、例えばクラシック音楽などが今でも廃れず根強いファンがいるのは、作法を踏まえた上で個性を発揮しているものが好ましいから。で、説明がつくんじゃないだろうか。

 

”神さんと話してたんやない。悪魔と取引してたんや”という印象的なセリフは、予告で使われていたもの。細部は違っているかもしれないけれど、”きれいなものなんか何にもないけど気楽なの”という台詞に凝縮される、人物も人生もまた印象的。

 

光だけでなく影にもちゃんとスポットライトを用意しているから、光だけ影だけの片方だけでは満足できず、物足りない層にも届く。

 

後ろめたさを感じるものは、大量消費には向かない。大量あるいは大衆消費社会では、大量に使われるものが王になりがち。

 

王ではなく宝。宝物だから、その価値がわかる人たちだけで大事に扱っている。

 

南座歌舞伎座に、その他。上演される舞台が特別なら纏う衣装も豪華で、幕間に提供されるお弁当などの食事も含めると、衣・食・建物と日本文化のハレの要素が結集している。

 

本来ハレの舞台に集う彼らがそうではない場所にまで現れるのは、ハレの舞台に観客を呼び込むため。

 

京都の南座から八坂神社にかけての界隈は、今では海外からのインバウンド客の影響が濃厚だけど、かつては歌舞伎関係者も贔屓にしているというお店が多く、落ち着いていた。手頃とは言えないかもしれないけれど、質がいいからハレの日向けという雰囲気は、昭和が遠くなるにつれて薄くなった。

 

NY歌舞伎に、アニメや漫画作品とのコラボ。大衆演劇として生まれた歌舞伎は、ユーザー目線でおもてなし上手。昭和のスター誕生システムとは、完全に決別しているから作れたであろう現代から過去を照射した映画で、本当におもてなしされているのは一体誰なのか。

 

と、考えるのは楽しいけれど、私はやっぱり『たべっ子どうぶつ THE MOVIE』派。送客の苦労や興行の成否に関する憂いや迷い。なにひとつ匂わせることなく、ただ一生懸命歌って踊り、喜ばせて楽しませようとしている姿こそが目と心の保養。

 

飲んだくれて飲み歩くのは、送客のためで”お得意さま”作るためやお得意様のためなんでしょ?と、思われると無心にはなれずに後ろめたさを感じるもの。だから、歴史から学んで先を見ている方なら、同じ轍は踏まないはず。

 

観客を呼べる芸と、観客を送客できる血筋、ひいてはホニャララ家との融合が、理想。理想が現実になったら、人間国宝だって生まれるんだよ。というシステムを描いた映画として秀逸で、国特有の事情を背負った興行を抱えている国なら他の国でも通じ合うものがあるはず。歌舞伎というこの上なく日本的な素材を扱いながら、日本以外でも通じる作品だと思った。

6月の晴れた空には、白い花がよく似合う

藤娘に鷺娘、曽根崎心中に二人道成寺(←タイトルはウロ覚え)。歌舞伎の舞台では、桜吹雪が舞って紙吹雪が舞うけれど。白い衣装、青い背景の中で踊る女形はまるで、深海のマリンスノウの中でヒラヒラ舞い踊る、人魚みたいでもあった。

映画になったお菓子、『たべっ子どうぶつ THE MOVIE 』を見てきた

たべっ子どうぶつといえば、アレ。ヘビーユーザーじゃなくてもその存在は、スーパーやコンビニでよく知っている。

 

そのたべっ子どうぶつが映画になった!!!はぁ???

 

というわけで、キャラ(何しろライオンやサルといった動物だ)もタイトル(=商品名)もよく知られているけれど、ストーリーなんてあるわけないじゃん。というものが映画になったらどうなるのか気になったので見てきたら、超展開の連続。

 

始まりは、ノリノリのコンサートシーンから。元気いっぱい全力で歌やダンスで観客をおもてなしする、たべっ子どうぶつおかしーずは、世界で活躍するみんなのアイドル。移動はプライベートジェット。

 

そのおかしーずが、ワールドツアーを終えてわが家であるスイーツランドに戻ってくると、なんだか様子がおかしい。アイドル達が留守のあいだに一体何が???

 

という感じでストーリーは進んでゆき、キャラとタイトルがあって舞台が整えばストーリーが生まれ、進行していくんだと教えてくれる。

 

たべっ子どうぶつ達は、観客を楽しませて笑顔にしようと一生懸命。おもてなしする側の一生懸命に応えるように、観客も懸命にエールを送り、もてなす側ともてなされる側が渾然一体となると、場=ステージは盛り上がってプライベートジェットだって飛ばせちゃう。

 

見る側と見られる側が混然一体となって盛り上がるという点では、サッカーや野球のようなスポーツもそう。だけどアイドルのステージに勝敗はなく、観客を喜ばせたかどうかが唯一のモノサシ。

 

そこに居るだけで愛らしく、場を和ませてくれる。存在そのものがすでに善。見た目も可愛らしく愛らしいアイドル達が、喜んでもらおう笑顔になってもらおうと献身的で、さらに善行を重ねている。

 

ステージの上では観客と渾然一体、ステージを離れた彼らは愛らしさはそのままに、どうして?なぜ?という異状事態に遭遇する。

 

おもてなしが最重要ミッションのステージと違って、ステージを離れた彼ら、特にリーダーのらいおんくんは、僕って何?というアイデンティティーの揺らぎも抱えている。

 

おもてなしに徹すればいいステージ上と違って、勝手の違う様子が変わったわが家で彼らはどう振舞えばいいのか。歌の上手なぺがさすちゃんの歌声に、うっとり耳を傾ける人々は今もいるけれど、彼らが次々と直面する異常事態に対する解が、超展開。

 

キッズ向けのアニメではあるけれど、子供向けだからと手を抜くことなく作り込んである。だから、子供に与えるものを厳しく選別する大人目線のチェックも難なくクリアーし、子供向けアニメのすそ野の広さと頂きの高さを見せつけている。

 

たべっ子どうぶつといえば、アレでしょ?と、元々はビスケットという出自もちゃんと踏まえてた。

 

ビスケットのたべっ子どうぶつは、くどい甘さではなく食感もサクサク。いくつでもいくらでも食べられそうで、そのくせヘビーユーザーを慮ってか物価諸事高騰と言ってもお安い。

 

このクオリティでこのお値段?という完成度の高さで、お菓子と同じく映画も完成度が高い。

 

よくも悪くも影響を受けやすく、選択肢がそう豊富にあるわけではない。子供にも安心して与えられ、おやつや小腹が減った時にはコレという定番かつ、この価格でこの高クオリティと驚くようなものは、たいてい世界級。世界で売っているor売れているから手頃な価格で提供できる。

 

この映画を大人目線で見た時に大事なポイントは、たべっ子どうぶつのメインユーザーである小さなお子様とその保護者にとっては、このレベルが標準でスタンダードだということ。

 

子供向けのおやつも映画や動画などのコンテンツも、たべっ子動物をモノサシにコンテンツやお菓子のお手頃さや優劣を判断していくことになる。

 

そういう映画だから作り込んでいて完成度も高く、子供にはいいものをという普遍性を備えているから、子供じゃない大人でもこれはいいものだと安心して見ていられる。

 

音楽もポップで元気いっぱい、あるいはステキな歌声で、何度でも繰り返し聞いていられるし聞きたくなる、ミュージカルとしてもとても優秀。実写でこのレベルの映画を作れるのは、登場人物のひとりであるペロが大人になる頃なのかも。

 

ここからは、映画そのものには関係ない蛇足。

 

日本経済が元気いっぱい、バブルを謳歌していた頃の流行作家(という存在があった)として著名な森瑤子という人は、百貨店からのお題に合わせて器用に小説を書いていたんだとか。読者多数のはずのマスメディアでそう喧伝されていた。

 

お題が例えばシャンパンやアクセサリーなど、庶民にも手の届く贅沢品であったとき、その愛読者は彼女の小説を読みながら、お題にそった広義の広告を受け取っていたことになる。

 

売り上げに直結していなくとも、直接受け取る広告よりも商品の持つ良いイメージを広く薄く浸透させる効果はきっと高く、小説内で受け取った”何となく”よいイメージが刷り込まれて浸み込んでいく。

 

広告主からの依頼を受けて作るコンテンツにはそういう面があり、だからネガティブなイメージは極力排除される。そもそもネガティブなイメージは排除された上に成り立っているコンテンツだから、ネガティブな面にことさらスポットをあてるのはナンセンス。という理解で動く、または動いていた業界あるいは界隈があるんだという豆知識も、ひとつのモノサシ。