クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

使い勝手が信頼につながる

来月から給料は仮想通貨払いな。と、言われたら暴れる。安全資産と言われる金(きん)で支払うと言われてもイヤだ。

f:id:waltham70:20180306003901j:plain

本日のおやつ。

例えば邦貨にして給料30万円分の仮想通貨を給与支払い日に受け取ったとして、現実には支払手段として普及していない仮想通貨はそのままでは使えない。そのままでは使えないから、Suicaのような交通系ICカードにチャージしたり、あるいは生活資金用の銀行口座に移しかえる必要がある。

 

すると「為替・exchange」が存在し、移しかえる時点での仮想通貨のレートによって受取額が変動する。ついでに交換時に手数料がかかるとなれば、さらに手取りが目減りする可能性もある。

 

受け取るのが金貨や金塊(になるほどの額ではないかもしれないけれど。。)であっても、国内に居るのに使う時には為替が必要となるものは、決して給与にはして欲しくない。

 

とはいえ海外在住でありながら、給与は現地通貨ではなく日本円で支払われている海外駐在員の場合、日本円から現地通貨に交換する際には日常的に経験している理不尽。

 

仮想通貨あるいは金で支払うこととなった場合、給与振込口座代わりの交換所的なものを、まずは個人の側で指定しろと言われたら、困惑する。どの交換所を選ぶべきか。まずはそこからのスタートとなるから、円建てに比べたら著しく使い勝手が悪い。

 

ついでに現金やICカードを使う時には、偽札やデータの改竄を心配することはほとんどない。

 

現金に限れば、もし偽札であれば何らかの違和感を感じるに違いないという、「偽造が難しい」日本円に対する物理的な信頼がある。仮想通貨は「仮想」なだけに真贋も見分けられず、物理的に信頼することがまず難しい。

 

ICカードのデータについて、改竄を心配したこともほぼない。多数の人間が日常的に使っているものだから、その保守にも多大な労力が割かれていることを、体感的に知っている。

 

仮想通貨もデータのカタチをしていて目には見えないけれど、仮想通貨が物理的に紛失するさまを見せつけられた後では、ICカードのデータと同じような信頼を寄せることは難しい。

 

仮想通貨は、知識のない人には真贋の見分けが難しい技術回りの話がてんこ盛りで、真贋の見分けコストが高過ぎる。

 

盗難コストがあるあたりは物理的貨幣っぽいにもかかわらず、物理的な貨幣である紙幣やコインが紛失した時と比べれば、いくら盗まれたかの価値の算定時には物理的貨幣にはない幅、変動が生じるとか。わかりにくすぎる。

 

給与の一部を仮想通貨払いにという取り組みは、自社株買い推奨っぽくもあるけれど、その実体は取引相手から押し付けられた仮想通貨の下げ渡しだったらどうしましょ。力関係がフラットではない交易では、あり得ないことではなし。

 

国家による裏付けが存在しない通貨は、過去の歴史にも登場・流通しているから、国家による裏付けは必ずしも通貨が信用される条件じゃない。金もダイヤモンドも、国家による裏付けはないけれど、信頼度は抜群。

 

結局、容易には偽造されないから受け取り時も支払い時も安心して使える。かつ誰でも容易に発行できるものではないからという、ある種の権威の裏付けが必要で、その双方が揃っていない通貨は、誰が旗を振っても貨幣としては流通しないのかも。

 

権威が“これを通貨として認めよ”と告知したところで、使う側がこれは貨幣だと認めない限り、やっぱり貨幣にはなり得ないから、ユーザビリティこそが鍵なのかも。と、極めてユーザビリティに欠けることをやってるからよくわかります。

 

汎用性に対する転々流通性という語彙を得たことが、いちばんの収穫だったかもしれない、『仮想通貨に「信頼」は成立するのか』という本というより論文は、隙間時間に読むのにピッタリの長さと内容だった。

 

次に読むんだったら、ユーザビリティへの配慮とマネロンの助長防止をどう両立させるか、かな。

 

国内で為替が発生する通貨あるいは貨幣といえば、江戸時代のお米。大名は石高、生産可能なお米の量でランキングされていたけれど、両替商がなければ日常の生活は不便だった。

 

士農工商と身分の上では武士が最上位にあって、商人を最下位にランキングしていた江戸時代の制度は、結局のところ商人に対する名状しがたい憎悪を込めたものかも。お米だけでは生活できなかったのは、結局のところ江戸も現代も変わることはなく、通貨が必要だから。

 

だから権力層から権力を剥ぎ取りたかったら、内国為替、国内で流通する通貨に変動する為替を持ち込めば、商人に頭が上がらなくなる。

 

という立ち位置から仮想通貨回りを眺めると、また違った風景が楽しめる。

 

お休みなさーい。

雪解け水

大河と文明とは相性よしで、エジプト・黄河メソポタミア・インダスと、大河流域には古来より都市国家が成立したと、これは昔習った世界史でのお話。最新の世界史では、どう教えてるのかは知らね。

f:id:waltham70:20180306003903j:plain

久々の青空だった。

日本史の世界でも、水利を巡ってしばしば争ったと、これはフィクション・ノンフィクションが教えてくれる。大規模かつ計算された灌漑施設を古来より備えている都市は、やっぱり古来から文明が発達した都市なんだと納得できる。

 

都市生活に欠かせない水が豊富なだけでなく、水路を備えて都市のすみずみにまで行き渡らせ、誰でもあるいは必要な人が便利に水を使えるシステムを構築できた。巨大建造物を建築・建造する技術と巨大プロジェクトを遂行する組織力があった。大勢の人を動員して作業にあたらせる権力があった。集めた人員を食わせるだけの食料があった。

 

うん、どう考えても都市国家にしかできない所業。だから、巨大プロジェクトを現代に伝えるモニュメントである、古代の水道橋やカナートを見ると、脳内へぇボタンが押されて感動するんだな。ダムしかり。

 

イランの砂漠を流れる大運河。夏季には50℃まで気温が上昇する、乾いた土地とは思えないほどたっぷりした水も、古代の水利施設でカナートを利用したものとか。

 

砂漠の中を滔々と流れる大河。しかもそれが人工的に作られたものだったら、そのべらぼうさにただ驚く。土地の収用にさえ苦労する、現代ではとても再現できない大技で、ビッグプロジェクトを成功させた巨大な権力に恐れ入る。

 

大きな権限をもらったからといって、誰もが後世に残るような巨大建造物を残せたわけでもなく。『グラディエーター』ですっかり有名になった暴君コモデゥス(コンモデゥス)は、聖堂のような建築物もそれなりに作ったみたいだけど、それよりもコロッセウムの中で実際に剣闘士もどきとして闘った暗君として記録されている。

 

立派な業績として後世にまで伝わるのは、誰もがわかりやすく恩恵を受けられる巨大建造物の方。ただ自身が楽しむために作ったものは、狂王ルードヴィヒが残したノイシュバンシュタイン城級に突き抜けないと、業績にはカウントされない。

 

ノイシュバンシュタイン城級の歪んだ美意識の塊を、幾つも後世に残されたらかなわんからな。歪んだ美意識の塊は、そう簡単に後世には残せないよう、現代では美の審判者たちが目を光らせている。

 

ということを考えた、気温が急上昇した日曜日。ドカ雪が急激に融けて、道路は水浸しの大洪水。水溜まりを踏み抜いた車から上がる水しぶきも盛大で、雪の壁がなければおちおち歩いてもいられない。雪解け水がある限り、北海道が水に困ることはない。

 

融ける雪を何らかの形で都市生活に生かし、じゃぶじゃぶ水使ってもヘーキ以外の何かが生まれたら、そりゃめでたいことで。

 

レインシューズが活躍する季節のはじまり。流氷見学にも耐える、真冬のコートの出番ももうなし。ローマが滅んだのは西ゴート族の侵入がきっかけで、それって移民の大量流入ってことよな。

 

おらが村あるいは街の作法が通じない大量の移民の流入は、古今東西その街の姿や景色を変えてきたってことでもあって、歴史は繰り返すから、歴史に学べと説く歴史本が溢れるのかも。

 

お休みなさーい。

流し雛

桃のカタチをした桃カステラ。昔いちど食べたことがあって、美味しさよりも見た目の可愛いらしさで、今でも忘れがたい郷土菓子。

f:id:waltham70:20180303235845j:plain

これは桃マシュマロ。

長崎では雛祭りには欠かせないお菓子だそうで、雛祭り間近になると大小さまざまな大きさの桃カステラが街中に溢れる光景を思うと、ほっこりにっこり。テレビのニュースでは、紙製のお人形を依り代として川に流し、娘の健やかな成長を願う流し雛の行事が映し出されてた。

 

ひいな遊び、お人形さんで遊ぶのも、もとはといえば貴族のお遊びだったもの。昔は限られた人のお遊びだったからこそ、特に面白くなくても「お貴族様気分」でやってみたい。という需要は、きっと一定数ある。特に面白くもないものを、文句も言わずにこなせるのも、お貴族様の素養や資質のひとつ。

 

舞台を過去や外国に移し、明確な証拠や反証は示せないから雰囲気、印象操作で裁く“事実に基づいたお話”は、タチが悪いったらありゃしない。“基づいた”ってところがミソで、どこからが創作なのかあえてわかりにくくしてると、中身がどれほど誠実でも作り手に対する不誠実な印象は否めないやね。

 

作り手は、毎年うん千億という赤字出してますという一文の持つ破壊力は絶大で、だからといって、隠したい資産についてオープンにしてまで反論する馬鹿はいない。赤字や借金にしつこく言及するのは、隠し資産についてこそ知りたいから。と、考えるくらい色々なことが、素直に受け止められない今日この頃。いかんいかん。

 

「美味しそう」「きれい」「かわいい」には、あんまり裏がないから、深く考えなくて済む。

 

悪名は無名に勝るとはいえ、今年もっとも出来が悪いで賞に選ばれたラズベリー賞の作品群を見ても、そもそも知らないものばかり。古今東西の名作佳作がいつでも入手可能になると、褒めるところが見つからない作品は、どうやっても残らないようになっていくんでしょう。

 

わりと頻繁に電子書籍を利用、購入しているけれど、“タイトルがすべて“を痛感する。下世話なワード入りのタイトルの本は、やっぱり中身も下世話で、下世話な内容に感化されてはいかんと通読する気にもなれずに放り出す。

 

ことばは氷山の一角ならタイトルも氷山の一角で、その下に隠されたものの一端を端的に表してる。

 

教科書的な内容のものは、読み下すのも楽ではないけれど、そもそも感情を動かすことを勘定に入れずに書かれたものだから、読んでいるあいだも気持ちはフラット。穏やかな気持ちになれる。

 

「気」とか、スピリチュアルな方面とは縁遠いほど喜ばしいくらい興味ないんだけど、気持ちを乱さないことの偉大さこそを讃えたい、今日この頃。よくないものは、流されてゆけ。

 

お休みなさーい。

これでも弥生三月

今日から三月。雛祭りまであともうちょっと。

 

とはいえ北の国は、これから本格的な冬の始まりかな?と錯覚する、数年に一度レベルの荒天で、札幌でも朝からずっと雪。そろそろ地肌が見えそうだったベランダも、ご覧の有り様。

f:id:waltham70:20180302001925j:plain

不要不急の外出は控えてとの警告に素直にしたがって、大人しく過ごす。

 

北海道は猛吹雪、沖縄は地震と、春の始まりは波乱ぶくみ。

 

女性の社会進出の歴史は、過去にはできなかったことや当たり前ではなかったことが、今では当たり前になるという営みの積み重ねで、今さらもう不自由だった昔には戻れない。とはいえ人口逆ピラミッド型の日本では、女性の社会進出が今のように当たり前ではなかった時代の記憶濃厚な女性の数の方が多い。

 

私たちの時はもっと大変だった、苦労した。なのに。。という数に勝る人たちの不満を封じ込めるには、窮屈でも法やルールで縛るしかない。逆に言えば、法やルールで縛って対抗策を講じない限り、少数者は際限なく負け続けてイヤな思いをさせられる。

 

『ザ・タウン』という映画は、ベン・アフレック率いる覆面強盗集団に銀行の女性支店長が誘拐され、誘拐したものとされたものとが恋に落ちるという、ありえそうにないストーリーで展開するアクションムービー。

 

誘拐された方は、親しくなった相手が強盗とは知らないまま相手と知り合うので、思ったほど荒唐無稽ではなかった。地元で生まれ育った青年は覆面強盗で生計を立て、よそからやってきた同世代の女性は、若くして銀行の支店長というポジションの対比が何より印象的だった。

 

舞台はボストン近郊のチャールスタウンで、恐らく女性は高学歴者。勤務する銀行には年配のオジサンも大勢いるのに、大勢いるオジサン達を差し置いて支店長は若き女性だから、きっと高学歴者なんだと類推した。

 

その光景を、当たり前と思えるかどうか。

 

フィクションの中とはいえカチンとくる人は、女性の社会進出を心底では歓迎していないと思えるかも。男性でも女性でも、エリートというだけで若造がトップになるのがカチンとくる人は、覆面強盗となる地元の若者によりシンパシーを感じそうで、いざという時にはこっそり彼らの味方になってそう。

 

地元を離れられない男性にとって、強盗こそがわりのいい仕事になり、よそから来た同世代の女性は、本来彼らとはまったく交わらない世界で生きる。地元を離れられない女性とよそから来た同世代のリッチマンによるシンデレラストーリーはあっても、その逆は少ない。

 

少ない理由のひとつは、女性の方が社会的で、同性の目や評判をそれだけ気にするからとも言える。

 

正攻法、誰に聞かれても恥ずかしくない仕事で稼ぐ、若くてリッチな女性は都会では珍しくもないけれど、地方や郊外に行くほど、その数は少なくなる。ただでさえ少数派で目立ちがちな女性が、好んで噂のタネになるような話題をさらに提供する義務もなし。

 

という心理的ストッパーも、働いてるかもね。

 

それなりに能力も高く、(不幸なことに)人望もあって土地に縛りつけられるベン・アフレックレベッカ・ホールの本来始まるはずのなかった恋愛は、仁義なき戦いもどきの死闘を経て、穏やかな幕切れを迎える。

 

何事もなければとっくに後にしていた、いいことも悪いことも詰まった故郷で、本当は穏やかに暮らしたかったというラストは、すこし寂しいけど清々しくもあった。

 

涙をビジネスに変えられるのは映画だけとか言う人もいるけれど、涙をチャリンチャリンとお金に変えるビジネスシステムのために、誰かの涙を次から次へと必要とするなら興覚めもいいとこで、ちっとも清々しくないやね。

 

お休みなさーい。

完結しない物語

ハッカーのユニフォームとしてのフード付きパーカー。いつから、どういう理由で定着したんすかね。ホワイトじゃないハッカーは、だいたい目深にフード被って顔を隠した人物として描写される。

 

わかりやすくていいんだけど、そんなわかりやすい恰好のハッカーがほんとに居るのかどうかはきっと別のお話。

 

手の内はすっかりお見通しで隠し事さえできない相手との勝負なら、本人さえ知らないわからないカードを切ればいい。そのつどサイコロ振って、運を天に任せた出たとこ勝負なら、いくら手の内はすっかりお見通しでも相手も出たとこ勝負という点では互角。互角に持ち込めたなら、総合力に勝る方が勝つに決まってるから、予定外で慌てることもなし。

 

人生のほとんどすべてを京都で過ごしてきたような人が、「京都のパン屋とか言うあれはなんや?」と言ったことがある、ふた昔は前のお話。

 

当時「京都で人気」を売りに、東京で大々的に売り出されていたデニッシュパンがあった。東京に出掛けた時にたまたま目にした、ほぼ京都人のその人にとっては初めて見聞きしたパン屋さん。昔からあったのは、古い商店街の中の同じ名前のちっさなお店。そのもともとあったパン屋さんでは扱ってもいないパンは、その後「ブランド」となって今でも全国チェーンでお目にかかる。

 

今ではブランドだけど、「騙り」から始まってるそのお店の商品を、手に取ろうという気にはいまだになれず。カラクリを知っている、半径5㎞圏内の人にとっては、生涯胡散臭い印象がつきまとう。

 

古い商店街の中の同じ名前のちっさなお店は、勝手に名前を使われただけなのかそれともなのか。それさえ定かではないけれど、そもそもあった古いちっさなお店も、今はもうなくなってしまったっぽい。

 

生粋の京都人には「酷薄」というワードがよく似合う。全国47都道府県のうち、もっとも酷薄なのはどこだと問われたら、間違いなく京都がナンバーワン。純朴な地方育ちの人が想像もつかないほど、正統派の京都生まれ京都育ちな京都人は、時に冷たい一面を持つ。

 

美意識に反するものを嫌って寄せ付けない選手権でも、きっと上位入賞は間違いなし。

 

その種の捏造を防ぐゲートキーパーになりそうなのは、すべてを見ていたご老人だけど、あいにく彼らは「知っている」だけで、往々にして知ってることを「あれは怪しい」と訴える手段を持たない。

 

怪しいけれど、古いちっさなお店とブランドになったお店と。どちらが世の中の為になったのかと言えば、金銭面で見たらブランドになった方で、お金の力は世の中を変える。だから禍根を残す手法を主流にすると、ボタンは一生掛け違ったままで、ラグジュアリーにはなれずに、スーパーどまり。

 

器物百年を経て霊性をおびるように、騙りも数年経てばブランドになるのなら、言ったものやったもの勝ちで、いつまでたっても変わらない構図にゲンナリする。ゲンナリするけれど、見てるだけよりもっと身近な人たちの方が、もっとゲンナリしてるはず。

 

そういう意味では、自浄作用の効かない界隈と、自浄作用が効かないからこそ活躍できる勢と。彼らが限りなく接近することで、対消滅にも限りなく接近していくと思えばよし。飽和してるものを、今さら過剰に摂取する必要もなし。

 

権威を必要とするのは、そもそも権威からは縁遠い勢。

 

完結しない物語がめったやたらと多いけれど、フィクションの中でさえピリオドを打てないのなら、そりゃ100年企業を持て囃すわな。権威という“箔“を必要とするのは、いつだって新興なんちゃらで、箔を必要としない人はいつだって新しい場所で新しいことをやっている。

 

お休みなさーい。

遠慮のかたまり

法は正義で冷たいものだから、「でも」や「だって」といった曖昧な感情の置き場所はない。

f:id:waltham70:20180228005723j:plain

雪まつりという、宴のあとの雪山。

限られた任期中に自己の功績の極大化をめざし、安泰な余生めざして任期が切れたらハイさようなら。後に続く人の苦労なんて、散々煮え湯飲まされたんだから知ったこっちゃねぇ。

 

まずはマイナスから始めればいいじゃん?という不毛なサイクルを、12周くらい見聞きしたら、勝ち逃げできるシステムにこそ欠陥ありと気付いたのか。

 

逃げることさえ許されない、腐敗すれば身の破滅まで一直線かつ権力の座から退くことは自己の死まで一直線のシステムは、功績の大きな人だったからという「でも」も「だって」も許さない。

 

どんな善人でも状況次第では善人でいられないことがわかっていたら、そそも人の善性をアテにしたシステムに頼ることもない。

 

人も法もどこまでいっても不完全なら、人の情より法に裁かれる方が百倍マシと考える人は、そもそも他人に期待なんかしない。

 

春まで特にめぼしいイベントもない大通公園は、自然に雪が融けるのをただ待っている。イベントがなければ、この状態に不便を感じることもなし。

 

雪が解けて凍って路面がアイスバーンになっての繰り返しだから、局所的に路面はツルッツルで滑りやすい。

 

荷物が重たくなってしまった時は気軽にタクシーを使いたいものだけど、「近くで申し訳ないんですが」と遠慮しつつ使うのもなんだし。。と、結局は自力でどうにかしてる。

 

何人かで会食した時に、お皿に残った誰も手を伸ばさない最後のひと口ぶんを「遠慮のかたまり」とか言ったりするけれど、人より多く取ってはいけない、得してはいけないという気持ちの表れっぽくてなんだか日本人らしい。

 

遠慮なく毎回「遠慮のかたまり」に手を出すと、「あの人は口が汚い」とか言われそうなところまで含めて日本人っぽい現象。

 

相手がおんな子供、あるいは無力な老人と見るや途端に横柄になる人は一定数いるもので、「近くて申し訳ないんですが」「些細なことで申し訳ないんですが」のフレーズは、横柄な人から身を守るおまじないのようなもの。

 

でもさ、そもそもなんで遠慮しなきゃならんのよ。遠慮するくらいなら使わないわ。という気持ちを軟化してくれるのが、無人タクシー。近距離で大した金額にもならないと知ってるからこそ、気を遣う相手も居ない方がラク。

 

人が足りないとわかっている、大したお金にもならないと知っているからといって、いつでも自力で何とかできる人は、結局は強者。強者ではなくても何とかしたかったら、ツールを使えばよくて、ツールさえあればという弱者の数が、それなりに多い都市向けの解決法。

 

弱者は群れて無理を通せというのは、とってもスマートじゃない。そんなことはしたくない人は、いつだって人じゃなくてシステムに向かうんだよな。

 

悪いものに魂がないのは、魂食べられちゃったからでしょ。魂を抜かれた人型(ヒトガタ)と巡り合う機会は、できれば極小に抑えたいもの。

 

お休みなさーい。

ソーシャライトの逆襲かパワーエリートの逆襲か

二月は逃げるで、オリンピックも閉会し三月はもうすぐそこ。花粉も梅の開花も遠い世界のお話で、まずは雪解けから。レインシューズが活躍する季節が待ち遠しい。

 

情報の集まるところにお金も集まるから、銀行かIT情報サービス系か。情報がより多く集まるのはどちらかといえば、そりゃもう一目瞭然さ。ワンストップは便利な反面、相手にはこちらの情報も筒抜けと思えば、薄っすら気味が悪い。

 

金髪碧眼の欧米系セレブリティと一緒だとさほどでもないけれど、ナイスバディでブロンド美人のイヴァンカさんが、アジア系の中に一人だといやもう目立つったらありしゃしない。

 

ブロンド美人は「頭カラッポ」の代名詞でもあるから、政治家の妻には向かないとボーイフレンドに振られるところから始まる『キューティ・ブロンド』。

 

リーズ・ウィザースプーン出世作で、構えずに楽しめるコメディの良作ながらAmazonはリーズがお嫌いなのか、オスカーも獲った『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』も、Amazonビデオでは見つからず。

 

キューティ・ブロンド』を始めて見た時は、西海岸育ちのリッチで無邪気なお嬢様が、頭でっかちで感じの悪い東海岸エリートの巣窟、ハーバードロースクールに殴り込みという痛快なストーリーが、ただ面白かった。

 

西海岸と東海岸。お勉強秀才とリア充のミーハーと。相性が悪そうなもの同士を同じ土俵で戦わせてみたら、意外や意外、お勉強秀才集団はリア充のミーハーに歯が立ちませんでした。という、庶民の願望をしっかり踏まえてる。

 

リーズ・ウィザースプーン演じるピンクのお嬢様エルの武器は、負けん気の強さに加えて、彼女のリア充ネットワーク。ソロリティという、大学の社交クラブで培ったネットワークが、ここぞという時の切り札にもなってた。

 

ついでに、知る人も居ない東海岸で彼女のよき友となるのは、ネイリストでヘアスタイリストってところも見逃せない。おしゃれ大好きで身なりに気を使う女性あるあるで、リッチな女性が階級の違う普通の女性とどこで親交を深めるのか。よくわかってる。

 

エルの同級生はみな意識高い系だから、難民問題や貧困の解消といった、世界共通の社会的課題の解決に興味や関心が傾きがち。一方のエルは愛情たっぷりに育ち、学生時代も謳歌したタイプだから、興味や関心も等身大。

 

同時代に生きるエリートが最下層の人々に熱いまなざしを注ぐ一方で、真ん中の人はすっ飛ばす。その、すっ飛ばされがちな真ん中の層を、エルのネットワークは巧妙に拾い上げる。

 

友愛で結ばれたネットワークの前に、新しい世界の扉が次々開いていく。鍵となるのは友愛だから、「繋がっとけば有利」という打算や功利が入り込んだ時から、ネットワークは変質する。嬉しいや楽しいというポジティブな気持ちで繋がったネットワークは強く、ネガティブな感情で繋がったネットワークほど脆い。

 

キューティ・ブロンド』を今見返したら、お勉強秀才というパワーエリートに対し、ソーシャライト(Socialite)の勃興、あるいはカウンターと見ることもできそうだけど、何しろAmazonビデオ化されてないので、確かめられず。

 

ソーシャライトとは、ざっくり言えばお金持ちの家に生まれ、その生まれ育ちを生かして社会的に活動する人のこと。黙ってても大金、腐らないお金が転がり込んでくる階層の人は確かに存在するんだから、その種の人にしかできない活動をしてもらうのは、ある意味合理的。

 

その種の人にしかできない活動とは、コネを生かした社交生活。コネの前に開く扉があれば、躊躇なく開くのもソーシャライトの必要にして十分な資質で、エルはその資質を存分に生かして大活躍してた。

 

本来は友愛で結ばれたネットワークだから、功利や打算でのみ形成されたネットワーク持ちのソーシャライトが、社会に悪影響を与えるのはいかがなものか。という悪しき例が増えた時が、ソーシャライトの見直し時で、お勉強秀才集団であるパワーエリートの逆襲が始まる時。

 

と、考えると今日も明日も明後日も平和に過ごせる。

 

お休みなさーい。