クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

競技のルール

なぜこの場所にこんな人が?と思う、カッコいいだけでなく豊かそうで、余裕たっぷりだから礼儀正しく腰の低い、ステキ欧米系外国人個人観光客を見掛ける平日真っ昼間のデパ地下。

 

富裕層をターゲットとしたインバウンド観光に、札幌市は予算たっぷり使ってくれても全然かまわないと思ったね。

 

オリンピック女子フィギュアスケートの女王様が決定する日。最終滑走グループが滑り始める前に家を出るはずが、始まってしまったらやっぱり見てしまう。録画してるのに、つい見ちゃう。

 

実力が拮抗する上位グループに、自己ベスト更新で波に乗りそうな上位グループを追う勢と。大番狂わせを期待するも、結果は順当。赤いチュチュ着たザギトワが金メダル。最終滑走者メドベージェワの得点にブーイングの声が上がる観客席の反応は、判官びいきも含めて観客のハートを掴んだのはメドベージェワだったということかもね。

 

競技だから、やっぱり最後は技術点がものを言うけれど、情感たっぷりに見る人の情動を大きく揺さぶってくる演技の方が、記憶に残りやすい。

 

そもそもフィギュアスケートが人気なのは、情動を揺さぶる情感込みの競技だからで、もしもフィギュアから音楽が消え、情感を伴った演技が消えたら今のような人気を保てるのだろうかと時々思う。

 

技術という絶対評価と、演技構成点による美しさという相対評価がひとつの競技の中に混然一体となって存在することで、「完全勝利」のハードルを次から次へと上げていけるところが競技の魅力。

 

赤いチュチュ着て、跳ねて飛んで。若くて溌溂として元気いっぱいね。でも、情感面ではメドベージェワと拮抗してるから、メドベージェワの情感面がもっと評価されていれば、逆転もあったかもねと「たられば」の話は尽きることがない。

 

情感という表現を語る上で絶対はないから、そこに作為、あるいは操作の余地を勝手にみつけることができる。

 

こんな競技があったら面白いなと、勝手にフィギュアスケートの未来のカタチを想像する。

 

自己の否定は進化への第一歩とか言うらしいから、フィギュアスケートからまず音楽を消してみる。音楽なしで、規定時間内にどれだけ多くのジャンプを飛べるか勝負。三回転、あるいは四回転に二回転と、単純に成功したジャンプの回転数を足していって、数の多いもの勝ち。

 

回転数が同じだったら、より難易度の高いジャンプを飛んだ方が勝ちで、フィギュアスケートの技術面に振り切った競技。絶対評価しか存在しないから、操作の余地あるいは作為の入り込む余地もなし。という競技には、一定数の支持がありそうなもんだけど、どうなんでしょ。

 

とはいえフィギュアスケートの魅力は、情感たっぷりに魅せる表現力にこそアリ。という人の方がきっと多数で、だからアイスショーには大勢のファンが押し掛ける。フィギュアスケートから音楽が消え、情感も消えたその先には、“それもうヒトがやることないじゃん”という次元がきっと待っている。フィギュアスケートのような競技ではまだまだ先だけど。

 

でも、より早くやより強くといった、わかりやすい指標に振り切り最速や最強が総取りできる競技世界が来たら、そのためには人体改造も厭わない人種はきっと出てくるに違いない。と、勝手に思ってる。

 

近未来にはオリンピックとパラリンピックの垣根さえ取っ払われ、最強と最速だけをひたすら追及する競技さえ誕生するかもしれないけれど、なかばサイボーグ化した人間と生身の人間がぶつかり合う、「万人の万人に対する闘争」が実現した無階級社会って、おっかないでしょ。

 

階級は、各競技や競技者を守るために設けられたもの。

 

強いものと対戦したくない時には、階級を越えて弱きものを対戦相手に選ぶ。そんな戦術は、階級のある競技では外道だから、外道は外道にふさわしい末路を辿るんでしょ。弱いものいじめが骨の髄まで染みついた人が、いかにもやりそうなことよね。

 

お休みなさーい。

愛情と敬意>好奇心

誰もが表現できる時代だからこそ「個」の気配が消えた、長文であっても読みやすく、個性らしい個性が感じられないことが逆に個性になっている。そんな文章に、価値があるように思える今日この頃。

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煮りんごのケーキ。

自分で書くものは、到底そのレベルには達しないんだけどさ。

 

イヴ・サンローランの生涯をテーマにした、ドキュメンタリーと伝記風な二種類の映画を見たことがある。対象として取り上げる人物への愛情と敬意が、好奇心に勝っているかどうかで、見終わった後の印象もずいぶん異なるものだと思った。

 

愛情と敬意に勝っていれば、対象となった人物も好ましく思え、好奇心に勝った好奇の視線が強ければ、好ましからざる人物としての印象が強くなる。

 

描く人によって描かれる人物の印象は、よくも悪くもどうとでもなるんだよな。

 

だから多面で複雑な内面を持つ人を、一方向から見た「赤の他人」によるプレゼンテーションを鵜呑みにして、簡単に評価しちゃいかんいかん。ということで、堤清二氏に関する二冊目の本『叙情と闘争 辻井喬堤清二回顧録』を消化中。

 

先に読んだ『堤清二 罪と業 最後の「告白」』に比べれば、とっても読み進めにくい。1ページあたりの情報量が二倍くらい濃いから、読むスピードもそれだけ遅くなる。

 

堤康次郎という、西武グループの創業者にして衆議院議長まで務めた政治家の父を持ち、学生時代は共産党員として活動、卒業後は経営者にして文学者だからな、堤清二氏。

 

政界・財界に文芸界隈と、交友のあった人物や界隈が多彩で多岐。しかも世に知られた著名な人物ばっかりで、個人史がそのまんま昭和史に直結しそうな勢い。コネがあったとはいえ、マッカーサーアイゼンハワーにまで会ってるって言うんだから、そりゃすごい。

 

勢いのあるニューリッチの前には、次から次へと各界の扉が開くものなのかと、錯覚する。癖のある人物だったとはいえ、大物政治家の息子ならではと言うべきか。

 

最初は読み難くて生硬だった文章も、章を追うごとにどんどん読みやすくなってゆき、鬱陶しそう面倒くさそうな人という印象も、薄れていく。むしろ、冷製で理知的な面が露わになっていく。

 

面白かったのは、不仲と噂されていた義弟にして西武鉄道グループオーナーの堤義明氏に対しては、悪感情を隠してなかったところ。仲が悪いのは伝聞にしか過ぎないのかな?と思っていたけれど、不仲説には根拠があったらしい。

 

2009年にハードカバー発行、その後2012年に文庫化と、決して昔々に書かれたものではないにもかかわらず、時が癒し薬にならずに兄弟は不仲なままだった。2005年の証券取引法違反による義明氏の逮捕が、不仲を決定づけたのか。金持ち喧嘩せずとか言うけれど、喧嘩する人は喧嘩してる。

 

ともに経営の一線からは退いているから、遠慮もないのか。感情的な振舞いを、メディアに残すことにためらいもないあたり、やっぱり今時の経営者とは、ちと違ってる。

 

堤清二は、阪急創始者である小林一三に、同じ電鉄系デパート経営者として関心があったのか、この回顧録でもわざわざ章を割いて、思い出や彼について思うことを語ってる。

 

そのくだりが、『堤清二 罪と業 最後の「告白」』で小林一三についてのインタビュアーとの問答とはちと趣が異なり、どちらが彼、堤清二氏の本音なのかわからなくなる。

 

言葉の力を熟知した明晰な人が、不用意に不用意な発言を記録に残すとは思えないから、過去の発言を言質に取られての狼狽かなと解釈しとこ。本当のことなんて、本人談による映像メディアでもない限り、確かめようがないんだから。

 

ところでホロコーストで生き残った証人の発言を、AIに記憶させるプロジェクトを最近見た。

 

解釈や編集で恣意的に歪められ、本人の望まない不用意な発言でもって後世に記録されたらたまらんからな。

 

後世に名を残すつもりで歪められた発言が世に流布するのを望まない人は、積極的に動画メディアで「これこそが俺・私の言葉で考えたことなの!」というのを、記録に残した方がいいんじゃないすかね。

 

筆が立ったゆえに文章の力に頼りすぎ、過去の発言が未来を縛って望まない人物像が世に流布したら、ただ不幸よなと思うばかり。

 

声の大きな人に頼るだけでなく、いろんな人の意見を聞いた方が、多面な人の複雑な内面には迫れるのかも。取材対象者に対する媚を極力排したら、対象者に対する悪感情こそがすっかり露わになることもあるんだから。

 

お休みなさーい。

ニューリッチ

パンが無ければ、ケーキを焼けばいいじゃない。

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これは買ってきた、とある日のおやつ。

あってよかった卵とバター。小麦粉と砂糖は、切らしてる時の方が珍しい。おかげで雪の中を外出しなくても済んだ。雪の中の外出が面倒かつ億劫になると、ホームベーカリーの購入を検討するようになるんだな、きっと。

 

フィギュアスケートと将棋と。羽生と羽生と宇野と藤井に日本中が熱狂するに決まってる日に、米大統領選に介入でロシア人起訴とか。重大そうなニュースをこっそりぶつけるのは、「知る権利」に対するアリバイ作りか何かなんすかね。

www.cnn.co.jp

反応が薄いのをいいことに、ホラ、ものの軽重がわからん奴らに、知らせる必要なんかないでしょと「報道しない自由」を行使したがりな、底意地の悪い人なら考えそう。

 

寝込んでる時に見た『フォックスキャッチャー』という映画は、大富豪デュポン家の御曹司による殺人事件を描いたもの。デュポンといってももうベンベルグと同じくらい、今ではすっかり知る人ぞ知るっぽい会社なんだけど、かつては頻繁にDU PONTのマークを見掛けたものさ。

 

悪名は無名に勝って、利用できるものは何でも利用するつもりの映画化かな?という気がしなくもないながら、映画の中でいっちゃん印象的だったのは大豪邸。

 

移動手段は専用ヘリ。周囲は森に囲まれ、趣味兼用で戦車のような自衛手段持ちで、万が一Occupy Wall Street騒動のようなことがあっても、蹴散らせそうだった。広々としたお屋敷に広大な敷地と、土地が広いアメリカならではの桁違いの大豪邸。

 

日本やシンガポール、あるいは香港辺りの大富豪には望めない大豪邸も、時代を遡れば日本にもあったんだな。

 

大宅壮一ノンフィクション賞も受賞した『堤清二 罪と業 最後の「告白」』は、セゾングループ総帥という実業家にして作家、ついでに経済学の(論文)博士号持ちでもあった、堤清二氏へのロングインタビューをまとめたもの。

 

華麗なる一族』も真っ青な、複雑な家庭で複雑に育ち、ビジネスの世界で成功しながらも文学的素養は豊かと、映画化あるいはドラマ化するのにもってこいな人物。

 

かつて彼が家族と過ごしたバラと桜の大邸宅は、今では高級マンションに化けてるところが、いかにも日本らしい顛末。堤清二の父である堤康次郎と、東急グループ創始者五島慶太がライバルだったとか、東急と西武による“箱根戦争”とか。

 

今ではそんなこともあったんですか。。と思う、感動の薄いトリビアに溢れている。

 

今現在、堤清二のように複雑な家庭で複雑に育ち、ビジネス面でも成功し、文化的素養も豊かでかつての“箱根戦争”もどきの経済戦争エピソードを持つビジネスマンって誰になるのかな?と思いつつ、読んでいる。

 

大したページ数でもなく、インタビューを元にしているから読みやすい。

 

今様(いまよう)堤清二に必須なエピソードは、複雑な家庭環境と、経済戦争で戦った経験。経済戦争で戦った経験濃厚な経営者は、読み物にしてもきっと面白い。面白い読み物になるつもりでビジネスをやってるわけではない人がほとんどだから、面白いと言われたところで、面白いわけないだろうけどさ。

 

映画化あるいはドラマ化前提で、複雑な家庭環境で育った若者限定にビジネスチャンスを与え、大成功したところで大いなる挫折を味わってもらい、その間の挫折経験その他を文化に昇華し、きれいな大団円を迎えられそうだったら映画化しましょ。

 

という壮大な、アートとマネーとビジネスが融合したお遊び。貯まるばっかりで使い道のない大金持ってる、退屈し切った偏屈な大金持ちならやりそうで、馬鹿げたオファーに応じる持たざる者も多そうなのが、今どきさ。

 

若者じゃなくても持たざる、あるいは持ってるけど失いそうで、先行き不透明な中年以上も参加資格ありのサブプライムな場も用意して、サブカルチャーも参戦できるようにすれば、どこからも文句は出なさそう。

 

このゲームのポイントは、「得た経験を文化に昇華すること」。文化への昇華度合いが大きいほど、ビジネス面での成功も大きくなる仕組み。

 

文化に閉じていれば、“ゲーム“という都合のいい言い訳が通じるから。

 

好きな画家その他には、その人の嗜好が如実に表れるもので、堤清二ジョルジュ・ルオー好きなんだってさ。小説で野間文芸賞を受賞し、詩も書いたという繊細なイメージとは、また違った好みをお持ちなようで。

 

子供のイジメのようなことが西武グループでは真剣に行われていたし、義明はそんな側近に囲まれていた

(『堤清二 罪と業 最後の「告白」』本文より引用)

 という箇所には、ちゃんとハイライト引いといた。

 

複雑な家庭環境を抜け出し、経済戦争を戦い、それでも待っているのは文化のオモチャなら、ゲームと割り切ってプレイするしか、自尊心の持って行き処もなさそうね。

 

お休みなさーい。

代理人がすべてを奪う

この季節に風邪引いて熱出すと、インフルかと心配になる。寝込む前にチョコもそれ以外のプレゼントも用意済みなので、安心して寝込んでられたけどさ。

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ショコラショー。ホットチョコレートをカッコよくしたもの。

 お茶もコーヒーもショコラショーも。飲んでる最中より作ってる最中の方が、香り高くて美味しそうで幸せになれる。美味しそうな匂いというのは、差別要因だね。

 

さて、オリンピックフィギュアスケート男子シングルの試合日。

 

日本は羽生選手や宇野選手時々田中選手の活躍に興味津々。ネットで拾える範囲で、(それはつまりとってもお手軽ってことだけど)確認してみると、同じ競技でも各国の興味関心度合いにはお国柄が現れているから、面白い。

 

アメリカでアダム・リッポンの話題が出る時には、ゲイであることをカミングアウトした選手という紹介が、大抵ついている。フランスのペアフィギュアスケータ―は、黒人女性と白人男性という、あまりない組合せ。

 

ペアフィギュアでは、アジア系と欧米系という「人種融合」はもはや珍しくもないけれど、黒人と白人という組合せでオリンピックまで勝ち上がってくるのは珍しい。珍しいだけでなく、氷上ではとっても見栄えがする。最早4回転が飛べるだけでは勝つことも難しい技術の進歩とともに、社会の変化もしっかり反映してる。

 

変化をもっとも感じにくいのは、やっぱりいつでも真ん中なんだよな。。半径5メートルくらいの景色しか見てないから。

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雪玉系イルミネーション、きれいだね。

寝込んでる時に見た『代理人』という1995年の映画は、ハル・ベリージェシカ・ラングという二人の女性が、生みの母と育ての母となって、ハル・ベリーが産んだ黒人の赤ちゃんの親権をめぐって争う内容だった。

 

裁判所でのシーン。元ジャンキーのホームレスから更生した、ハル・ベリーを擁護するために証人となった女性が、“お金持ちの白人家庭が、貧しい黒人家庭から子供を取り上げる政治的正しさにはもううんざり”的なことを発言する。

 

事情はもっと複雑で、最初に赤ん坊を捨てた(しかもゴミ箱に)のは、ハル・ベリーの方。死んだと思っていた赤ん坊が、実は生きていたと知り、更生した後に親権を取り戻そうとする。

 

政治的にまったくもって正しくない行いをした人が後に、黒人の子供は(シングルマザーであっても)黒人の母親の元で育つべしという、政治的正しさを持ち出して争うところがキモでもあった。ちなみに1995年の作品だから、”その当時の常識”で描かれている。

 

でもねぇ。死にそうな黒人の子供を放っておけなかった、ジェシカ・ラング演じる白人の育ての母は、めちゃくちゃ赤ちゃん可愛がってたんだよな。。周囲の反対を押し切って養子に迎え、白人家庭の中の黒人養子という、困難な家庭をそれなりにうまく回してた。

 

将来の選択肢が広がる豊かな家庭で育つことか、同じカルチャーやルーツを持つ家庭で育つことか。どちらの方が政治的に正しいかという点が争点でもあって、裁く方も「難しい」と言いつつ裁いてた。

 

政治的に決着はついても、温かい家庭から無理くり引き剥がされた子供は泣き止まず、新しい環境にも馴染まないから政治的決着のその後、後日譚がある。

 

自分は非道な母親ではなく、母親として適格であると言わばお墨付きをもらったハル・ベリー。だけど子供目線からすれば母親とは受け入れがたい存在を、今後はこの人を親として慕いなさいと子供に命じることは、政治的に正しいことなのか。いつまで経っても子供の涙を止めることのできない母親は、非道ではないのか。

 

人種的に正しくなくても愛情いっぱいに育ててきた子供を突如奪われた、奪われた者の欠落はどうやって埋めるのが「正しい」のか。政治的にセンシティブな問題に、「愛情」から解を見つけようとする視点は、机上の空論からはいつも一番遠いんだよな。

 

センシティブな問題がその辺りに転がっていて心かき乱されるから、解を求めて苦闘してきた歴史があるとないとでは社会や世の中の深みってもんが、全然違うことがよくわかる作品でもあった。

 

ご都合主義から遠くなればなるほど、深みや余韻が生まれるのかも。タイトルで損してる系作品。『代理人がすべてを奪う』とでもしたい感じ。

 

ハビエル・フェルナンデス選手。にこやかに軽やかに、苦労とかタイヘーンという努力を微塵も感じさせずに楽々と難しい技もこなすから、羽生選手の演技より心象がいい。

 

苦労はどうしても語りたくなるものだから、にこやかに軽やかに難しいことをこなす姿には、素直に拍手喝采したくなる。フリーの演技も楽しみ。

 

 お休みなさーい。

文学者が考えた、お金についての異色の本『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』読んだ

お金お金、お金お金、お金お金~♪という某マネー番組のテーマソングが、至極しっくりくる仮想通貨バブルが盛り上がってはじけそうな今日この頃。

 

現金や金塊のように、実体のあるリアルマネーとはまた違う。紙幣や硬貨といった実体もなければ信用の裏付けも脆弱な、法定通貨とは別種の通貨が回す世界の存在が、大衆に知られるようになったのはきっと仮想通貨バブルのよい一面。

 

投機的色彩を帯びると、口座数が爆速で増えるという事象を目の当たりにして、貯蓄から投資運動を地味に地道にやってた人は、がっくり来たんじゃないすかね。

新しい通貨という社会実験の例は、過去にもあり

ところで法定通貨とは別の通貨や貨幣システムは、過去にもなかったわけじゃない。

 

エンデの遺言 根源からお金を問うこと』*1という古い本には、ブレクテアーテ、ゲゼルの自由貨幣にイサカアワーやヴィア銀行、テラ通貨にLETSといった、すでに消え去ったか細々と今に続く、法定通貨とは別種の地域通貨や貨幣システムが続々と登場する。

 

エンデといえば、『モモ』に『はてしない物語』で知られる児童文学作家。

 

彼が残した、お金についての疑問という一本のテープをもとにテレビ番組が作られ、1999年5月に放送されたそのテレビ番組を制作したスタッフによって書かれたのが、『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』という本。

 

だから、エンデが直接書いたわけではない。まどろっこしい。ついでに共著者とも言える“現代グループ”についての記述はなし。誰?エンデの発言をベースに、既存の経済学者の説く経済政策には懐疑的な立場から書かれてる。

 

文学や芸術を嗜む余裕を社会に残す、お金の仕組み

書かれたのは、ヘッジファンドデリバティブによるマネーの暴力が、アジアの新興国を襲ったあと。

 

パンやお米を買うのに必要な「生活のお金」が、生きるために労働を必要としない「投機のお金」と一緒にされ、脆弱な個人の生活が脅かされことに対する憤りが込められている。

非良心的な行動が褒美を受け、良心的に仕事をすると経済的に破滅するのがいまのシステムです。

(『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』本文より引用)

 とのエンデの発言を引用してるくらいだから、憤ってることは間違いなし。

 

非倫理的な行動が富を生むのなら、世の中から倫理は消える。非倫理的な行動を前にすると、黙ってられないのが、文学を生業とするもの。と、考えるとエンデがお金、ひいては暴力的なまでに猛威を振るう札束の暴力について、深く考察するのもちっとも不思議じゃない。

 

時間の経過とともに価値が減ずる腐るお金を推奨

エンデが晩年に傾倒した思想家シルビオ・ゲゼルは、時間の経過とともにお金の価値が減じていく、腐る(=減価する)お金を推奨する人。

 

減価するお金や利子がつかないお金を実体経済に持ち込めば、腐らないお金がぶっとい札束に化けて脆弱な個人の生存を脅かす、“マネーの暴力”に対抗し得ると説いていた。

 

国家は経済や思想に介入すべきではないとの立場は、共産主義とはまた別モノで、資本主義の搾取もイヤ、官僚主義もイヤ、共産主義もイヤと受け入れ難いものを消去していったら、最終的に残った仕組みっぽくもある。

 

資本主義の搾取に甘んじ、官僚主義共産主義で思想や経済に対する介入に甘んじてたら、自由な創作に打ち込める、時間も心の余裕も生まれやしない。という文学者ならではの発想が、根底にあるような気がしてしょうがない。

 

いいものが、不偏的なものとして必ずしも後世に残らなかった。その反省に立ってか、時間も心の余裕も失わずにすむ仕組みって何だと考えて、たどり着いたのが地域通貨

 

自分たちでコントロール可能な世界で、極端な富者も貧者も生み出さないシステムとして、地域通貨をクローズアップしてる。

 

この本が出た2000年代初頭以後、地域通貨ブームともいえるムーブメントがちょこっと盛り上がりを見せたけれど、今にして思えば極端な富者と貧者を生み出す金融バブルに飽いたからこその、地域通貨ブームだったのか。極端な経済格差は人間関係まで破壊してしまうから、『詩羽のいる街』で描かれたような“地域通貨が回す優しい世界“への憧れが募ったのかも。

 

文学者だから、経済や金融の問題にもクリエイティブに答えを出す

本流とはいえない経済学者や経済システムを多く取り上げているのは、現行のシステムでは解決できないという問題意識に貫かれているからと考えれば、しっくりくる。

 

ビットコインに代表される仮想通貨も、もともとは現行のシステムに満足していないから生まれたわけで。お金を使う人の属性や動機が多様化するのなら、使用者の多様性に合わせて貨幣システムも多様になる方が自然っちゃ自然。だから実験的な貨幣システムは、今後もきっと生まれ続ける。

 

この本で問題提起された、「こうだったらいいのに」という幾つかのものは、2018年現在ではすでに現実のもの。

 

腐るお金はマイナス金利として、パンやお米を買う生活に使うお金と投機のお金を分別する仕組みとして、NISAやiDeCoに。小額から積立可能な投資信託も、生活防衛のためと考えれば、これもやっぱり生活のお金と投機のお金を分別する仕組みに含まれるかも。

 

友愛を理念とした経済システムとして、クラウドファンディングやフレンドファンディング。という風に、「こうだったらいいのに」というクリエイティビティを発揮させたら、現行の不足を補うものができている。

 

減価するお金を提唱したゲゼルは、輸入業者として国際為替相場の乱高下に悩まされた経験持ちで、国際為替相場の乱高下が仮想通貨の生まれる土壌となった可能性さえ薄っすら想定する程度には、妄想が広がった。

 

今後増えていきそうなのは、株式会社が会社から降りて、財団や基金といった公益性に勝る組織への生まれ変わりか。

 

非倫理的な経済システムにダメ出ししたら、次に待っているのは公益に配慮した経済システムで、仮想通貨バブルで個人が踊っているあいだにも、社会的責任を自覚する企業はESGに取り組んでいる。

 

灰色の男たちに対する斬新な解釈

この本のなかでもっとも興味深いのは、『モモ』に出てくる灰色の男たちを斬新に解釈した箇所。

 

モモでは灰色の男たちは「時間どろぼう」とされているけれど、経済学者オイケンは彼らを金利生活者とみなし、生活のために働く必要のない者が死ぬのは金利生活が出来なくなった時と解釈している。金利生活者の生活が行き詰まる背景には、減価するお金のアイディアがあり、その解釈にエンデも同意している。

 

解釈が斬新で面白いけど、高齢化してゆき労働力が減りゆく国は、金融立国となってお金でお金を稼いでもらいたい事情もある。投機とはまた違う、投資によるお金がお金を稼ぐという金利生活くらいは許容範囲にしときたい。

 

グローバルマネーは絶対的貧困の解消に向かうから、相対的貧困を解消するのは、地域に閉じたお金の方。とはいえ地域とひとくくりにしても、地域を構成するメンバーが多様だったらひとつにはなれない。法定通貨を補完する補完通貨としての地域通貨は、企業城下町のように多様性に欠ける世界の方が、流通しやすそう。

 

地域通貨が新しい概念だった、この本が出たばかりの頃と今とは事情が異なり、お金の話として参考になる部分もあるけど、ならない部分も多々ある。スマホはローカルとグローバルをワンタップで繋ぐから、もはや地域に閉じる方が難しい。緊急避難的に流通したオルタナティブ通貨は、二つのうちひとつの道が示されたらその役割を終える。

 

イーサリアムモナーコインにリップルに。あぁそんなのもあったわねぇと、いつかはすべてが思い出になる。

 

ローカルとグローバルがワンタップで繋がるこれからのお話は、今どきのベストセラーに学ぶ方が学び甲斐もある。古い本を手に取ったのは単なる趣味だけれど、歴史的経緯を知ったことと今につながるアイディアの源泉に触れたようで面白かった。

 

よくも悪くも現行のシステムに満足できない文学者が、普遍的なものを残すための自由な時間や発想が許される仕組みについて考えたもの。自由な時間も発想も、灰色の男たちに奪われてもヘーキだったら用はない。

 

ま、こっち来いや、あるいはこっち来んなでぶん殴って、輪の中に引きずり込んだり放り出したりするのは、友愛からはもっとも遠いことは間違いないやね。

*1:読んだのは、NHK出版版。同タイトルの講談社+α版は読んでない。ほんとはとんぼの本から出てる『ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと』を読んでからの方が、エンデの真意を捉えやすいのかも

ウルヴァリンとコーヒーとエチオピアと

1時間くらいのドキュメンタリーを探していて見つけた、『デュカリの夢』。

 

ハリウッドスターがエチオピアの貧しい村を訪れ、コーヒー栽培農家の生活を体験。その体験をもとに、ハリウッドスターだからできる貧困支援プランがカタチになるまでを追ったもの。ハリウッドスターという、発信力のある個人メディアの理想形かも。

 

貧しい生活を追体験することそのものには、今や希少性なし

アメコミ原作の映画『X-メン』でウルヴァリンを演じたヒュー・ジャックマンが、エチオピア辺境の村でコーヒー栽培を営む青年デュカリのもとを訪れる。

 

エチオピア入りする前には、ジェフリー・サックスという経済学者からレクチャーを受けるヒュー・ジャックマンジェフリー・サックスという名前でピン!と来る人には、ある種予想通りな持続可能な社会に向けての取り組みが紹介されていく。

 

貧しい村で、電気やガスなどのインフラも未整備。干ばつや気候変動の影響か、近年収量は半減し、どこから手を付ければいいのか状態な場所。

 

作業はほぼ手作業で、機械化しようにもそもそも電気がない。これが農地なのか?と思ってしまう、雑木林と見紛うばかりのコーヒー農園は、大規模プランテーション農場とはえらい違い。

 

一見すると、何もかもがないないづくしで前近代的な場所だけど、ないなりにエコロジーシステムが発達していて、そこには素直に感心した。

 

ないないづくしで前近代的な場所に、最先端な技術を持ってきても使いどころなく故障したまま放置される未来しか見えない。ということを、現地の青年デュカリとともに働くことで、体感するヒュー・ジャックマン

 

そこで終わったら、よくあるハリウッドスターのエスニック体験記。その続きは、NYに帰ってから。

 

ヒュー・ジャックマンフェアトレードコーヒーの伝道者となる。

まずは発電所作らなきゃという、条件の悪い土地。そこで生きるしかない生産者が、生活できないと生産も続かない。そうだフェアトレードだとヒュー・ジャックマンは、エチオピアコーヒー、ひいてはデュカリ農園の付加価値を高めようと、フェアトレードの宣伝役をかってでる。今風に言うと、アンバサダーやね。

 

どこから手を付ければいいのか状態な場所に、大金つぎ込んでもブラックホールのように吸い込まれていくだけ。成果を実感することがなければ、支援者の支援しようというモチベーションもだだ下がり。

 

だったら、お金払うかわりにお金をもらわずに宣伝をかってでて、付加価値を高める方がずっといい。と思ったのかどうかは知らないけれど、ヒュー・ジャックマンフェアトレードコーヒー愛は、最終的にはひとつのカタチになる。

 

先進国にしかできないお仕事

ヒュー・ジャックマンが、エチオピア入りする前にレクチャーを受けたジェフリー・サックス氏について、まったく無知だったので、見終わったあとでググってみた。

toyokeizai.net

サックス氏の失敗は、市場を開発できなかったこととする記事を見つけたけれど、『デュカリの夢』は、そのアンサーで新しい挑戦になっていた。

 

先進国のお仕事は、付加価値の高い商品に高値がつく市場を開拓することで、ハリウッドスターという資本主義のてっぺんに居るような人が、資本主義ピラミッドの最底辺に居るような極度の貧困状態な人を支援するから、その波及効果も大きくなる。

 

モノはいいんだけどね。。という商品に付加価値をつけるのは、まずは名声ある人のお仕事で、名声ある人が現地まで出向いて現地の推薦を受けた人間を審査してから推挙してる、その一連の過程もすべてオープンにすることで、より商品の付加価値を高めてると言えるかも。

 

ハリウッドスターという個人の財布がいつまで持つのかという問題は、未来につきまとうけど、ヒュー・ジャックマンにはフェアトレード・コーヒーのアンバサダー的お仕事もあるわけで。

 

企業や組織が手を出せない分野で、資金力のある個人が動いて、先進国に市場をつくるお仕事は、夢を売って生きてきた人のセカンドキャリアとしても、相応なんじゃないすかね。

 

経済学者とSDGsとハリウッドスターとフェアトレードと。一見結びつきそうにない者同士のコラボが、予想外に面白かったけど個人差はきっとアリ。コーヒーの消費量は日本でも増えているそうで、選択肢にフェアトレードコーヒーが当たり前に加わると、生産国の風景も大きく変わるのかも。

 

お休みなさーい。

ドローンでアート

冬季オリンピック開幕。

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雪だるままんじゅう。

開幕式をオンタイムで見てた。夏のオリンピックに比べれば、選手の人数も少なく見ていてもダレることなし。寒さを考慮して、欠席した人も多かったせいか。

 

お揃いの赤いコートを着た北朝鮮の美女集団、ファーで覆った首元は暖かそうでも、足元はタイツではなくストッキング着用かと思われる肌色だった。まじか。濡らしたタオルが5分で凍るという極寒の地で、にこやかに笑顔を振りまく彼女たちは、見た目は美女でもやっぱり鍛え抜かれたソルジャー。

 

幼少期から「暖衣飽食」とは縁遠かったら、そりゃ我慢強くもなるやね。

 

すべてにおいて平均値の低い場所での特権階級か、すべてにおいて平均値の高い場所でのありふれた人か。

 

前者、すべてにおいて平均値の低い場所での特権階級を望む人こそが、失敗した国家の担い手なんだな、きっと。低位安定が心地いい人は、全体のレベルをかさ上げするなんてことは、望んじゃいねぇ。

 

開幕式で見た、ドローン編隊がヒト型や五輪の輪っかに変化するアトラクション。荷物を運んだり農薬を散布したり。実用面が取り沙汰されがちなドローンも、すでにアートの分野に進出かと感慨深かった。そのうち花火大会で、スターマインとの競演なんてこともあり得るのかも。かもかも。

 

雪まつりでも、年々プロジェクションマッピングは派手に大掛かりになり、ちょっと色ついただけで喜んでいた頃が遠い昔のよう。

 

自衛隊を動員して作る大雪像はやっぱり見応えがあるけれど、見ていて楽しいのは小さな雪像の方。バリエーション豊富で、2017年のトレンドもある程度踏まえているから、変わり雛を愛でる気持ちで眺めてる。

 

眠れない夜のお供は、カワイイや楽しいが詰まった緊張しない軽い読み物。

 

カワイイや楽しいあるいは“みんな仲良し”がつまった、ただただ楽しませることに特化したハートウォーミングコメディ。案外作者は辛いや苦しいの渦中にいて、心強い仲間やどんな局面でも支えてくれる、家族の温かさに飢えていたのかもと思った。

 

友情や家族の有難みをことさら美しく感動的に描けるということは、かつて友情や家族愛に心底飢えた疎外経験があり、孤独を感じたその昔、ほんとはこんな風であって欲しかったという願望を描いたら、とびきりハートウォーミングな読み物になりました、と。

 

作者の置かれた環境なんて知るよしもないけれど、幸せの渦中にいる人は、幸せとはどういうことかについて考えることも分析することもなければ、そもそもする必要もない。

 

足りないものや欠点にやたらと目ざとい人は、まずは率先して足りないものを足す行為を自らの身に当て嵌めていくと、そこかしこにハートウォーミングの小山が築かれるかもね。かもかも。

 

お休みなさーい。