クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

バラフェスタ、雨にたたられる

プロフィールにも明記している通り、このブログは暇な人が自分のために書いてるブログ。誰かのために書いてるわけじゃない。

 

大通公園バラ園が見頃を迎えた今週末は、バラフェスタ。

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のはずだったんだけど。。天気はつれなし。北海道も梅雨なのかと思うくらい、今年はシトシトじっとりで、気分よく出掛ける気にもなれず。

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(天気がよかった時のバラ

バラフェスタが終わったあとの大通公園

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 雨粒の重みで、頭を垂れるバラ多し。すっかり満開。

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青空とバラの組み合わせで、写真撮りたかったんだけど。タイミング悪くて、今年は叶わず。まぁいいさ、別の場所でリベンジさ。

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札幌よりも開花の遅いエリアは、札幌近郊にいくらでもあり。

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カラー調整しているので、実際の景色よりワントーンからツートーンくらい明るい、嘘つき写真。写真アプリは便利だね。

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(これは、ジオラマモード)

以前に見たショートフィルムの話。

 

外科手術によってある装置を埋め込まれた人は、自分の目に映る自分の外見を、好みで着せ替えできるようになっていた。

 

同じ装置を埋め込まれた人同士の間では、本来の自分ではなく、こうありたいと願った美男美女の姿が映し出される趣向。

 

外見が変わると、気も大きくなるもの。自信たっぷりになって、それまでの生活とは違うこと、例えばクラブでウェーイと踊り明かすようなこともできるようになる。ただし、シンデレラのように効き目には時間制限があり、魔法が解けたら、誰の目にも本来の自分の姿が映し出されるようになる。

 

まぁそこでいろいろありまして。。とお話は続くんだけど、たいてい誰もが、本来の自分よりも美男美女を、アバター、着せ替えとして選ぶところが面白かった。

 

つまり、別の自分になりたいと思う人の多くはコンプレックスを抱えており、コンプレックスさえ解消されれば、性格や振る舞いもガラリと変わる。

 

自分以外の何物にもなりたくない人は、この魔法の対象外さ。

 

ショートフィルムでは、魔法が解けても別によかったじゃないのという、わりとステキなオチが待っていた。

 

心当たりもないのに口の中がただれていて、なぜだ???と一瞬考え込んだけど、要は飴の食べ過ぎだった。

 

口さみしい時、チョコ食べるよりいいかと飴を選ぶようにしたら、思わぬ落とし穴、もとい福音か。口の中が荒れるから、食が進まない。そんなことで喜ぶようでは、志低すぎなんだけどさ。

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さくらんぼの味はまったくしない、さくらんぼ飴。今年は低温が続いたせいで、さくらんぼの生育も遅れ気味だとか。旬の季節は短くて。。だから、今年こそは旬に間に合うよう買いに行こう。

 

お休みなさーい。

実験的な映画、『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』見てきた

人はなぜ一線を越えるのか。そして一線を越えかねないことを暴かれた人々は、どう反応するのか。

 

ハンナ・アーレントが指摘した、ナチス犯罪者アイヒマンが陥った“悪の凡庸さ”。“悪の凡庸さ”を科学的に実証しようとした、社会心理学者のミルグラム博士と彼が実際に行ったミルグラム実験を描いた作品。金曜の夜一回だけの限定上映で見てきた。


『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』予告編。人はどこまで残酷になれるのか…

ミルグラム実験の再現を通じて、“普通の人“が一線を越える過程とともに、一線を越える・越えかねないことを暴かれた人々や世間の反応も再現している。

 

あらすじ

1961年、世界37ヶ国でテレビ放映されたアイヒマン裁判と同時進行で、イェール大学の社会心理学者スタンレー・ミルグラムによって、ある実験が行われていた。

 

ホロコーストのような大虐殺につながる残酷な命令に、なぜ人は従ってしまうのか。ミルグラム博士により電気ショックという“武器“を与えられた被験者は、60%以上の確率で最後まで武器を使い続けた。壁の向こうからは、痛みに悲鳴を上げる人の声が聞こえてくるにも関わらず。

 

実験を通じてミルグラム博士は、権威への服従が“凡庸な悪”を生み、組織的に行われる“凡庸な悪”がホロコーストにつながるとの実験結果を出す。

 

しかし博士の行った実験は、被験者を騙す詐欺的かつ非倫理的な行為だと指摘され、非難される。その手法が学術界のみならず、一般社会にも広くセンセーショナルに知られることによって、博士の行った実験は学術界でも正当な評価は得られないこととなった。

 

ミルグラム博士の学者としてのキャリアは、この実験により躓いてしまう。

 

イェール大学では終身在職権を得られず、終身在職権を得るまで曲折を経る。結局、学術的な目的で行われた博士の実験は、実験から十数年を経て一冊の著書にまとめられるまで、一般社会に受け入れられることはなかった。

 

ミルグラム実験ってどんなもの?

薄謝(謝礼の封筒、どう見ても薄いんだ)で集められた被験者は、ふたり一組で教師と生徒に扮することになる。実はここにはカラクリがあって、被験者は常に教師役となるよう、仕組まれている。

 

教師役となった被験者の任務は、簡単な単語群を読み上げていき、生徒役が正解しなかったら、電気ショックによって罰を与えること。最初に教師役となる被験者も、身をもって最弱レベルの電気ショックを経験する。

 

ミルグラム実験が恐ろしいのはここから。

 

体罰を重くしていくようなもので、間違えるたびに電気ショックのレベルが上がっていく。最弱レベルでもイタタ。。というレベルなのに、最強レベルはその十倍。壁の向こうからは、被験者が生徒役と信じた人物が、苦痛に呻く声が聞こえてくる。あるいはついになーんの声も返ってこなくなる。

 

そうなるまでに、止めそうなものやん?ところが手を止めない教師役の方が、多数なんだな、これが。

 

良心が痛んだ教師役は、実験の進行役に指示を仰ぐけれど、「大丈夫です。責任は取ります。」との明言に安心し、実験を続行してゆく。

 

良心の呵責に耐えつつ、電気ショックのレベルを上げていく人たちや、あるいは進行役の無責任な台詞に腹を立て、実験室を後にする人などが描かれる。

 

報酬はぺらっぺらの薄い封筒、薄謝なのに、被験者たちはどうしてそこまで苦痛に耐えてやるのか。もうまったく意味がわからない。

 

イェール大学という権威の場所で、学者という権力者に大丈夫、あるいは続けなさいと命じられると、続けてしまうくらい大学や学者には権威があったんだな。。と、遠い目にもなるさ。

 

実験室という閉鎖環境で、命令を下す権威がいれば、権威にすべてをゆだねてしまう。良心の呵責を抱えていようがいまいが、結果として命令を完遂すれば、閉鎖環境からの解放もそれだけ早くなる。

 

その結果何が起こっても、責任はすべて権威者にあるからね。という心理的逃避ルートが確立されると、非道なことでも人はやってしまうんだねという経緯があからさま。

 

被験者が怒るのも当然、世間から非難されるのも当然

被験者は、“ホロコーストがなぜ起こったのか?”を実証する実験だとは、知らされていない。実験の目的は“教育”だと、偽の実験テーマを信じて参加してる。

 

実験過程で良心の呵責に悩んだ人も悩まなかった人も、結果として後味の悪さを味わうことになる。薄っぺらい、ペラッペラの薄謝を見返りに。

 

もしも実験に参加した人の実名リストが、世間に流出でもして面白おかしくセンセーショナルに扱われたら?

 

細部まで精査することのない一般の人は、リストに載っただけの人物を、薄謝と引き換えに権威者に盲従し、容易に他人を害する“本当は恐ろしい”人だと思うかもしれない。

 

もしも周囲にそんな人が居れば、私だったら挨拶もしたくないか、当たり障りのない会話しかしない。得体が知れないから。しかも、時はアイヒマン裁判が全世界にテレビ放送され、ナチスの残虐行為が初めて明らかにされている頃。

 

隠されてきたあってはならないことが、社会の分断を招きつつある頃で、分断される側、虐殺者と同じ側、容易にそっちに転び得る側とみなされたら、どうすんのさという頃。場所はアメリカなんで、ナチス狩りが吹き荒れたドイツとはまた空気や事情が違うかもだけど。

 

詐欺的な手法で社会実験に参加させられ、しかもその実験では心理的な苦痛を味わい、その結果は、被験者にとって何の名誉にならなかったら、そりゃ非難もされるでしょ。

 

おまけに被験者にとって詐欺の首謀者、実験の責任者は、この実験で名声を得るとなれば、感情的にも納得しがたい。実験が行われた時点では、被験者にとって「社会の進歩のため」というインセンティブは、薄謝と同じく乏しいんだ。

 

ミルグラム博士、真面目で感じよく描かれていて家族仲も良好な感じのいい人で、学問的問いに対しては真摯かつinnocentであっても、被験者の感情にはignoranceなんだ。だから、被験者から見れば邪悪。

 

無邪気に普通の人を傷つける、お偉い学者さま。嫌われるでしょ、そんな人。

 

嫌われる、世に受け入れられないミルグラム博士のその後の人生も描くことで、学問の世界に生きる人と、一般の人との温度差もあからさま。彼が世間に受け入れられるようになるのは、普通の人にもわかりやすい言葉で実験を綴った本を出してから。

 

実験の代償は大きかった

実験結果には学問的社会的意義があったとしても、疑義のつく手法を取ったことで、博士のキャリアには結果としてマイナスにしかならなかった。

 

なぜホロコーストが起こったのか。世に知らしめることも、その問題意識も正しくても、手法が間違っていれば、世の中には届かない。問題意識の高さが理解されるのは、普通の人の身の回りにも、ホロコーストに準じる惨事が起こってから。

 

閉鎖した組織や環境で責任者が居て、いざとなれば責任は上から取っていくもので、命令される側が責任を取らされることはなかったら、ミルグラム実験の縮小劣化コピーはそこかしこで今も普通に起こってるでしょ。

 

命令する人、人の上に立って指揮や指示を出す人は、いつだって少数。決して責任を取らされることはないSJWは、今日も元気にあいつが悪いこいつが悪いと意気軒高さ。

 

“悪の凡庸さ”に骨身が染みるほど痛めつけられでもしないと、きっと一生わからない。

 

実験は現在も継続中

実験を描いた映画は、その構造も実験的。

 

まず、場面が変わっても書割っぽい背景や室内がメインで、舞台の場面が変わっただけで、ミルグラム博士の置かれた環境はずっと閉鎖されているかのよう。

 

権威への服従が、“凡庸な悪”につながることを実証した博士なのに、博士もやっぱり学問的成功や経済的成功を目指している。

 

人として生きる限りそれは当たり前の姿ではあっても、権威や世俗的成功に背を向けないあなたは、“凡庸な悪”から逃れられる稀有な人なのか。という見方もできる。

 

たまたま彼が生きた時代には、全体主義が暴走しなかっただけ。全体主義が暴走しないような仕組み作りに、ミルグラム博士が尽力したわけでもなし。

 

なぜミルグラム博士の背後に、唐突にのっそり「象」が現れるのか。二人いる彼の子供のうちのひとり、息子の顔はなぜ緑色なのか。

 

象が画面に現れた時には、幻でも見たのかと思ったよ。。クレジットにもしっかりElephantと記載があって、安心したさ。

 

象と緑色した顔の子供と。何の説明もなく登場した不気味なモチーフには、一体なんの意味があるのか。

 

キュレーションメディアの煽情的なタイトルに釣られてクリックしたら、中身ぺらっぺらで取材もしてないコタツ記事(って言うんだってさ)でどっちらけ。みたいな気分に襲われました。

 

悪い奴はあいつにあいつらだと、硬派な記事を装いつつヘイトをまぶした読み物、あるでしょ。そんな感じ。

 

この映画は、札幌では一回限りの上映。多分、上映館もそんなに多くなく、DVD化やSVOD化されるのかどうかも未知数。

 

つまり、最初から大勢の人に見られることを前提とされていない限定公開の作品。責任は取るよと権威者の承認があれば、権威に盲従して一線を越えるのは、あるいは薄謝を盾に良心を試されているのは、一体誰なのか。観客を被験者として試してるようで、意地が悪い。

 

壁の向こうから苦痛に呻く声が聞こえてきても、60%以上の人は実験を継続し、誰一人として壁の向こうの様子は見に行かなかったんだってさ。

 

戦争という惨事は、次から次へとエンタメのアイデアの源泉となるから、やめられないし止まらないんじゃないの。と、シニカルな気持ちになりましたよ。

 

お休みなさーい。

 

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トマトを使った、冷製マリネ2種

いつまでも、そのままだと思うな検索順位と検索結果。オスカー・フィッシンガーって、誰なんすかね???

 

どうしても残しておきたいものは、自ら地道にサルベージするのがいちばんさ。久しぶりに、レシピの書き起こし。

 

気付けばはてなブログにも、はてなダイアリーと同じく書籍化というサービスが実装されてた。以前からあったのなら、気付かずにいて申し訳ない。自分がもっとも使いやすいレシピブックが作りたかったから始めたんだよ、レシピの書き起こし。初志貫徹めざして、ボチボチがんばろう。

 

というわけで、トマトのマリネ2種。

 

トマトのハニーマリネ

オリジナルのレシピでは、冷凍したミニトマトを使用してる。その方が、解凍したトマトから出る果汁がいい仕事してより美味しいんだけど、そこはアレンジ。生のトマトで代用さ。

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トマトは湯剥きする。トマト適量の、頭とお尻にそれぞれ切り込みを入れ、お湯の中でしばしゴーロゴロ(お湯には長く浸さない)。その後、冷水に取って裂け目から皮を剥く。

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マリネ液の材料{オリーブ油大さじ2・酢大さじ1・はちみつ大さじ1・タバスコ小さじ少々・塩コショウ}を、よく混ぜて、食べやすい大きさにカットしたトマトと合え、冷蔵庫で冷やせば完成。

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あれば乾燥パセリ少々を振れば、見栄えもなおよし。パセリのつもりが、この時はオレガノ使ってた。オレガノは、トマト料理と相性よし。タバスコがアクセントになって、甘過ぎない後味がいい感じ。

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この中のレシピを参考にしてる。この本を買った当時は、真面目に作り置きにも取り組んでたなぁ。。と、遠い目になる。不便な場所の方が、間違いなく人間は賢くなるね。

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トマトの甘酢和え

マリネから油を抜くと、よりさっぱりして食べやすくなる。最近はマリネより、甘酢和えの方が口にあう。

 

凝った料理は外で食べるもの。家の中で食べるものは、さっぱりあっさりで、白いご飯に合う方がいい。あぁ味覚の加齢化が(も)止まらない。

 

やっぱり湯剥きしたトマトを、甘酢で和えるだけ。

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甘酢の材料は、トマト1個につき{酢小さじ2・砂糖大さじ1・だし大さじ1・塩ほんのちょっぴり}。

 

だしは単なる水に、顆粒の和風だしの素をほんの少々溶かして使ってる。テケトーな量のかつおぶしを、テケトーな量の水に入れて、電子レンジで加熱してもいいんだけど、最近はもっぱら手抜き。

 

急いでる時は、器ごと冷凍庫に5~10分入れて急冷してから、冷蔵庫で冷やしてる。冷たい方が美味しいので、冷やす手順は手抜きしない。冷蔵庫で十分に冷えたトマトを使えば、冷えっ冷え。

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仕上げに、好みで刻んだ紫蘇を散らしても。

 

シラスなんかまぶすと、さらに居酒屋のお通しっぽくなる。お通しは、野菜系の方が嬉しい派。タンパク質取り過ぎだから。こちらのレシピは、ネットで一瞬見かけたレシピ。もともとはテレビのレシピっぽいけど、真偽は知らね。

 

大通公園バラ園は、週末のバラフェスタを前に見頃を迎えてた。

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気温の上昇に伴い、一気に開花。今年の札幌は、対平年比で300%増しくらい雨が多くて天候不順だから、青空と満開のバラという絵面はなかなか撮れず。ついでにアマチュアカメラマンも多数出没中で、接写以外でバラのみという絵面を撮るのも難しい。。

 

高値で売り払うよりも技術の流出の方が、国にとってはイヤで問題なんだなぁと、東芝の売却先ニュースに思う。技術者がどの程度大事にされてたのかは、知らんけどさ。

 

明日はちゃんと、脳みそ使おう。

 

お休みなさーい。

 

馬鹿げて広い滝野すずらん丘陵公園で、トレッキングしてきた

世の中で、もっともウットリできる数字は消費カロリー。その反対に、もっともゲンナリする数字は摂取カロリー。できれば常に、消費カロリー>摂取カロリーでありたいもの。

 

というわけで、滝野すずらん丘陵公園で、張り切ってテケテケ歩いてきた。

地図を見てもわかる通り、北海道はでっかいどうを実感する、巨大な公園。

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 (これでも、公園の一部でしかない)

400ヘクタールあると言われても、どれほど広いものなのか。実感ないから、わかんね。グーグルさんに聞いてみたら、東京ドーム約85個分と出たけれど、その数字が正しいかどうかは、知らね。

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運動前に、エナジーチャージ。酒屋さんの一角にあるジェラート屋さん、「果林樹」のもの。国道沿いにあるので、寄り道しやすいお店。ウマウマ。

 

滝野すずらん丘陵公園といえば、季節の花が楽しめる、カントリーガーデンゾーンがいっちゃんポピュラー。遊歩道が整備され、“目で見て楽しく歩ける”ゾーンなので、ベビーカーを押した親子連れや、杖をつきながらの年配の人でも大丈夫。観光客の姿も多し。

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行ったときは、見頃を過ぎたチューリップが刈り取り間近で、すずらんも見頃を過ぎようかという頃。見頃を過ぎていたとはいえ、すずらんの芳香が漂っていた。清々しくていい匂い。

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白い紫陽花のようにも見える、オオデマリは満開。わっさわさと花をつけたオオデマリの木、枝が折れそうで重そうだった。

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カントリーガーデンゾーンを過ぎ、子どもの谷も、すずらんの丘展望台も過ぎると、滝野すずらん丘陵公園の本領発揮。深―い森が広がっている。この日の気温は、20℃以上あったけれど、長袖・長ズボンで肌が露出しないような恰好で臨んだ。

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こんな場所だもの。

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ブヨとか、マダニとか。歩きやすく整備された歩道や、清潔なトイレがあるとはいっても、そこはやっぱり大自然のお膝元。首元にタオルなし(忘れてた。。)となったのが悔やまれた。

 

多分、ロコの人たちが遠足や野外学習で訪れるような場所が、“滝野の森ゾーン”。

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遠くかすかにキャッキャと楽しそうな声が聞こえてくるものの、姿はなかなか見えず。お気楽に散歩できる場所から、一気に深い森に入る。

 

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これが有料公園(入園料410円プラス駐車場代410円かかる)とか、まじっすか???な道が続く。速やかにカントリーガーデンゾーンに帰りたくなったけれど、気付けばどんどん深入りし、森の中を分け入るはめになった。ここまで“普通に森“だったとは、想定外。

 

とりあえず、森見の塔あたりを目指す。

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(緊急時の連絡先が、ちゃんと明記されてるから安心。さすが有料公園)

要は歩きたい、運動量を増やしたいだけとはいえ、高低差のある道は、意外と歩数が稼げない。筋肉は使ってるのかもしれないけど、一向にアプリの歩数、あるいは消費カロリーが増えないので、ムッとする。

 

ムッとしている鼻先に、芳香が届く。が、香りはすれど、匂いの元となりそうな花は周辺には見当たらず。

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(森ゾーンに入ると、足元も砂利道になる。悲しい。。)

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蕗の香りとは明らかに違う。食べられるのかどうかは知らないけれど、蕗いっぱい。

 

山の天気は変わりやすく、だんだん雲行きも怪しくなってくる。ステキトレッキングという浮かれた気分は速やかに吹き飛び、心細くなってくる。周囲の鬱蒼とした緑が恨めしい。駐車場もはるか彼方で眩暈がしそう。

 

そんな時に見つけた、とっても可憐な花。一瞬で、ネガティブモードも吹き飛んだ。あんまり見たこともない、珍しい花。山歩きが好きな人、こういう出会いが好きなのかもね。

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 開花間近のヤマシャクナゲ。とっても可憐だけど、特にいい匂いがするわけではなく。

 

いったいどこからいい匂いがしてくるんだ???と、狐にでも化かされたような気分でいたところ、ついに正体見っけ。あぁそうだ、タイサンボクの匂いだ。

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タイサンボクの木はたいてい巨木なので、はるか頭上を見上げでもしないと、花も見つけられず。初夏の花はたいてい真っ白で、清々しいやね。

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子どもの谷ゾーンにようやく戻ってきた頃には、小雨に振られる羽目に。汚れてもいいような恰好だったから、別にいいけどね。

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ルピナスの花が揺れる草原。

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人工の滝。

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有料公園内とはいえこんなのを見慣れると、本物の大自然に出逢っても(* ̄- ̄)ふ~んと感動が薄くなる。

 

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滝の裏側から撮った写真。こんなことまでできてしまうから、大自然の滝は、もっとすごくないと感動も少なくなるんだよな。。

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カントリーガーデンゾーンの休憩所からお花畑を見る。どこかのヨーロッパと言っても通じそうな、異国感。

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植物が生えた屋根を見ると、建築探偵藤森照信氏のニラハウスを思い出す。その方面にはなーんの知見もないけれど、建築を見るのが好きになったきっかけは、藤森照信の建築探偵だった。

 

子どもの谷ゾーンにはジブリっぽい建築物もある、滝野すずらん丘陵公園

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最後は雨に降られそうになって、焦って急いだにも関わらず、消費カロリーは平服で平地をテケテケ歩いている時の方が上だった。

 

高低差があるから、思ったほど歩数が稼げなかったのか。アドベンチャー気分は満喫できたけれど、そこが不満。とはいえ見渡す限り緑・緑・緑の大洪水で、しっかりリフレッシュできた、よいところ。

 

お休みなさーい。

祭りのあとの快晴

友達100人できない人でも部下なら100人できる可能性があり、時として経営者にサイコパス的気質のある人が現れるのは、そういうことだよねっと。

 

札幌まつりが終わった途端の快晴。嫌味か。

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去年、あるいは一昨年に比べると、明らかに天候不順で寒かった札幌まつり。ピーヒャララーな(実際はそんなメロディーじゃないけどさ。。)祭囃子に導かれ、ちょいと見物とフラフラ出歩くには曇天過ぎて、中島公園まで足が向かず。あんず飴にだけ未練あり。

 

高位公職っぽい扮装をした男性グループが、祭り行列の先頭を行く神輿渡御は、神事らしく粛々と行列が進むのみで、行列を迎える方の忍耐力も試される。

 

お祭りらしく、もっとはっちゃけていたのが、狸小路商店街のお神輿。

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(画像判定をかく乱するべく、時代をわかりにくくするためにセピア色にしてみた)

外国人観光客のカメラやスマホが一斉に向けられていた、写真映え&インスタ映えする光景。神輿の上に載って音頭を取る男性の姿は、なんだか三社祭っぽい。

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狸小路商店街「青年会」の神輿となっていたけど、神輿の上に載ってる人は、どう贔屓目に見ても青年には見えず。成年ならわかんだけどさ。。

 

金曜日の夜とあって、繁華街にある飲食店はどこも盛況で、お祭りのせいか何なのか。飲みの口実にしてる人は、確実に居ると見たね。

 

一夜明けた土曜日は、ドライブ日和。

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遠出した記録がデジカメに貯まる一方で、いい加減アウトプットしたいと思いつつも、馬鹿げた量の写真を前に、ヤル気が雲散霧消していく。撮ってる時が、いちばん楽しいんだよな。

 

ソフトクリームの美味しい季節。今日食べたソフトクリームも美味しかった。が、写真は別の日に食べたロールケーキのもの。ジャムをはさんだ素朴な味で、こちらも美味しかった。何でもかんでも写真に撮ってるわけでもない。

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今年は雨や曇天が多く、出掛けたい意欲と晴天がかち合わない。

 

北海道はでっかいどうで、観光する場所には事欠かないけれど、天候が悪けりゃそもそも出掛ける気にもなれず。

 

夏に向けて、もう少し晴れ間が増えてもよさそうなもの。

 

お休みなさーい。

百聞は一見にしかず『異邦から/へのまなざし―見られる日本・見る日本』読んだ

京都にある国際日本文化研究センター(=日文研)が設立されて、早30年。

 

日本の文化・歴史を研究する機関なのに、頭に「国際」とついているのは、世界の中で日本の歴史や文化をどう位置付けるのかを、研究命題としているからだとか。

 

創立30周年を記念して刊行された『異邦から/へのまなざし―見られる日本・見る日本』は、日文研が蒐集してきた写真や絵葉書などの“ビジュアル資料”をまとめたもの。

異邦から/へのまなざし: 見られる日本・見る日本

異邦から/へのまなざし: 見られる日本・見る日本

 

 9割が“ビジュアル資料”で、解説を含めて文章は極小。なので、美術展に足を運ぶ感覚で眺めればよし。

 

百聞は一見にしかずで、諸外国が日本をどのように見て、日本が近隣諸国をどう見てきたか。そんなの千の小難しい言葉を使わなくても、見たらわかるじゃんという趣向になっている。

 

というわけでこの本は、外国から見られてきた日本と、日本が見てきた外国についての二本柱で構成されている。最後に、その両者が溶け合ったらどうなるかのまとめ付き。時代は主に幕末から昭和のはじめ、そして終戦まで。

 

日本について外国人が外国語で書いた日本文化についての文献=「外書」から、写真や挿絵などのビジュアル資料=「外像」をピックアップしたものが、“見られる日本“のまとめ。

 

そして当時は「外地」と呼ばれた、旧満州や朝鮮・台湾といった日本の周縁についての絵葉書や写真などのビジュアル資料をピックアップした、“見る日本”のまとめとにパートが分かれている。どちらも八万点という膨大なコレクションから選りすぐられたもので、その数およそ500点。

 

現代でもあら面白い、きれい、珍しいと思った時に思わずカメラを向けてしまうように、ピックアップされた写真や絵の中には、そりゃ撮りたくもなるやねと納得する珍しいものも多数。

 

自分たちの文化にはない変わったものは、記録として残したくなるものだから。

 

フジヤマ・ゲイシャ・サムライといえば、日本に対するステレオタイプ御三家。ジュール・ヴェルヌの原作を映画化した『八十日間世界一周』でも、日本を描いたシーンは富士山から始まってた。

 

残されたビジュアル資料も多く、定番の観光名所で必ず記念撮影するように、日本と言えば富士山だね!芸者だね!サムライだね!と、行った証拠とばかりに記録に残されてきた成果なのかも。

 

見られ慣れた被写体が、ステレオタイプとして後世に伝わっている。

 

日本への入港ルートといえばほぼ横浜一択だった時代、NYで自由の女神に出迎えられるように、日本では富士山に出迎えられるものだったと考えれば、納得。

 

そして芸者や侍といった人たちも、市井の人に比べれば、数の少なさで見られ慣れていた人たち。

 

特に遊女のように見られることに抵抗のない被写体は、相手が外国人であっても惜しげもなく普段の姿を晒し、当時を知る貴重な記録となっている。職業は特殊な人たちなんだけど、生活ぶりは市井の人と、さして変わるものでもなし。

 

あられもない姿も見せてくれるんだから、被写体としてはとってもありがたい存在だったに違いない。

 

市井の人の暮らし、例えばお花見や潮干狩りや時には物売りの人の姿なども、ばっちり記録に残ってるわりには“食べ物”そのものの写真は少ない。ってか、ほとんどない。

 

21世紀のインバウンド観光では日本食が大人気で、インスタでもカジュアルなものから高級なものまで美味しそうな食べ物の写真が溢れてるのとは大いに事情が違う。エキゾチック過ぎて、当時の外国人の口には合わなかったのか???と、想像するのも楽し。

 

美人というのも被写体としてはポピュラーで、花柳界の女性以外にも多くの写真が残されている。その割にはイケメン、ハンサムの写真は少なく(侍は居るけどさ。。)、当時の人にとって旅行とは、男性のするものだったんだな、ということも類推できる。

 

現代のネットやネット以外の記事でも、大多数の人が知らないことについて、どのような写真(=ビジュアルイメージ)を添えるかには、底意や真意が現れてくる。

 

良いイメージを伝えたいものには、良いビジュアルイメージを添えたくなるもの。

 

見られる日本=「外像」において、甲冑をまとった武士はカッコよく伝えられているのに、平時の侍は小役人っぽく描かれていたりする。外国人にとって平時の侍は、「煙たい存在」だったのか、それともありのままに描いたらカッコよくなかったのか。

 

巫女や神官のような職業人に向けられた、尊敬の眼差しが、平時の武士から欠落してるのは何故なのか。「外書」=外国人が書いた文章では、どのように記述されていたのかが、気になるところ。

 

その一方で良いイメージを伝えたいからか、植民地とした「外地」は、立派な建物や街の景色をピックアップしたもの多し。

 

素晴らしい建物を作った、あるいは素晴らしい建物のある街を占有した僕たちすごいじゃんという、誇らしい気持ちがほのかに垣間見える。

 

見られる日本では、自然や娯楽、女性・子どもなど各テーマがあり、各テーマのボリュームは、残された全外像のボリュームに比例している。つまり、やけに数が多いなと思ったテーマは、そのまんま残されたビジュアル資料も多かったことがわかる。

 

日文研の現所長、小松和彦氏は妖怪研究の第一人者でもあるから、ちゃんと妖怪パートもあるあたりはご愛敬。

 

ある年代において、最もよく好まれた被写体は何かがわかったら、そこにはきっと「時代の空気」が現れる。

 

見ることは観察することで、観察眼、あるいは見る作法を、外国から見られることで身に着けた日本が、今度は「外地」という見知らぬ国を見る時にその作法を応用している。

 

異質なものとして眺められた対象は、自らを異質なものとみなす相手を異質ととらえて、世界を眺めるようになる。

 

最初期に外地に赴いた日本人は、行政官僚や満鉄職員のような駐在員といった、どちらかといえば支配階級寄りの、知識階級層。

 

知識階級層だから、日本が諸外国にどのように見られてきたかという情報にも触れられたかも知れず、お手本に倣って赴任先の任地を眺めたと考えても、そうおかしくはない。

 

何をどうやって見ればいいかもわからない手探りの時は、見よう見真似から入ると考えるのは自然でしょ。

 

まったく無知の対象について、興味関心の赴くままに自由に振る舞えるのは、無知だからなせる業。「見られる」ことをすでに意識した知識階級には、ハードル高かったかもね。

 

500点はあるビジュアル資料の中で、いちばん好きなのは、A happy family group.~幸せな家族~とタイトルがつけられた、両親と二人の兄弟が仲良く椅子に腰かけお花見をしている写真。

 

昔に生きた人とはいえ、同じ日本人という同胞だから、ことさら変わった風景や風俗よりも、今も昔も変わらない光景にこそ、心惹かれる。

 

今海外を旅した時、異国趣味としてのオリエンタリズムを掻き立てられる場所は、スマホのない場所。スマホがある限り、どこに住んでどんなに変わった衣装に身を包んでいても、その中身や行動様式は大して変わりゃしない、と思ってしまう。

 

オリエンタリズムが明確に存在した時代の記録からは、異質なものをどのように記録して記憶してきたがよくわかる。

 

その場所でしか見つからない、珍しいものを見つけるまなざしと、そこがどこであろうと普遍的なものを見つけるまなざしは、きっと別のもの。

 

広辞苑』の新村出が寄贈した海外絵葉書コレクションも、日文研の貴重な研究資源になっているとか。

 

百聞は一見にしかずの映像(含む画像)資料の研究は、まだ始まったばかりでこれから本格化するらしい。画像検索の精度も日々向上し、千や万の言葉よりも、一枚の写真の方がインパクトを持つ時代、見ると見られるを考えるよい好機にもなった。

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

 

 

オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

 

 エドワード・サイードの名前、久しぶりに見たな、そういや。

 

お休みなさーい。

見られるから、らしくなる  

 

YOSAKOIが終わった途端、さわやかに晴れ上がる空。嫌味か。この写真は今日撮ったものではないので、イメージをお伝え。晴れ上がったものの、風の冷たい日。

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YOSAKOI期間中の大通公園を中心とした繁華街は、どこかの文化祭会場にでもなったよう。それぞれのチーム衣装に身を包んだ人たちが、思い思いに闊歩し、屋台フーズ、焼きそばとかソフトとかをほおばる姿はどう見ても文化祭。

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オリエンタリズムあるいはジャポニズム感あふれる衣装は、たいてい着物、和服をデフォルメしたもので、袖が長くてヒラヒラしてる。

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グーグルやアップルの新製品発売に熱狂する人たちと、同時代に生きてるとはにわかに信じられない光景。確かに2017年には違いないけれど、この会場だけ時間はゆっくり流れてる、あるいは時を止めたかのよう。

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鉢巻きに薙刀。この衣装を、自ら選ぶところにYOSAKOIらしさがある。

 

毎度のことながら、パフォーマンスを見るより衣装を見る方が興味深い。フッションスナップがあれば、じっくり見たくなる。

 

現代日本を語るファッションといえば、無印やユニクロは欠かせないものだけど、ここはハレの場だもの。メトロポリタン美術館川久保玲の個展が開催された同じ年とはいえ、“新しさ“を発見するのは部外者には難しい。ほんのちょっとした工夫が、新しかったりするんだろうけど、すぐには発見できず。

 

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ほんのちょっとファーを肩から垂らせば、ゴールデンカムイ風で、遠くかすかにアイヌの香り。ルーツにこだわったファッションが、YOSAKOIでの共通解っぽいので、そのうちアイヌ風のデザインを取り入れたチームも出てくるのかも。かもかも。

 

どう考えてもデコトラのオマージュとしか思えない、チームを先導する車。この上で歌い手さんが歌い、MC担当の人が、音頭を取る。

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歌われる歌も、どう考えても現代日本のヒットチャートには絶対に出てこなさそうなメロディーばかりで、演歌ちっく。景気いいんだけど、ど根性かつどことなくエレジー。

 

君ら哀しみに負けないの好きやな。。という気分に襲われる。ぼくのりりっくのぼうよみは、はるかかなたで、汗飛び散ってるせいもあってウェット。

 

一見してどこからどう見ても無印、あるいはユニクロファッションに身を包み、感情の起伏に乏しい感じでパフォーマンスしたら、斬新で目立ちまくると思うんだけど、そういうのにはお目にかかれない場所。

 

YOSAKOIってこういうもんでしょ、という視線に忠実に振る舞うチームが、やっぱり強い。

 

どう考えてもフォトジェニックで、インスタ映えするパフォーマンスでお祭り。見られることが前提となったら、ますますその路線は強固になって、拍車かかって踊る時代まつり化していきそう。

 

お休みなさーい。