人はなぜ一線を越えるのか。そして一線を越えかねないことを暴かれた人々は、どう反応するのか。
ハンナ・アーレントが指摘した、ナチス犯罪者アイヒマンが陥った“悪の凡庸さ”。“悪の凡庸さ”を科学的に実証しようとした、社会心理学者のミルグラム博士と彼が実際に行ったミルグラム実験を描いた作品。金曜の夜一回だけの限定上映で見てきた。
『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』予告編。人はどこまで残酷になれるのか…
ミルグラム実験の再現を通じて、“普通の人“が一線を越える過程とともに、一線を越える・越えかねないことを暴かれた人々や世間の反応も再現している。
あらすじ
1961年、世界37ヶ国でテレビ放映されたアイヒマン裁判と同時進行で、イェール大学の社会心理学者スタンレー・ミルグラムによって、ある実験が行われていた。
ホロコーストのような大虐殺につながる残酷な命令に、なぜ人は従ってしまうのか。ミルグラム博士により電気ショックという“武器“を与えられた被験者は、60%以上の確率で最後まで武器を使い続けた。壁の向こうからは、痛みに悲鳴を上げる人の声が聞こえてくるにも関わらず。
実験を通じてミルグラム博士は、権威への服従が“凡庸な悪”を生み、組織的に行われる“凡庸な悪”がホロコーストにつながるとの実験結果を出す。
しかし博士の行った実験は、被験者を騙す詐欺的かつ非倫理的な行為だと指摘され、非難される。その手法が学術界のみならず、一般社会にも広くセンセーショナルに知られることによって、博士の行った実験は学術界でも正当な評価は得られないこととなった。
ミルグラム博士の学者としてのキャリアは、この実験により躓いてしまう。
イェール大学では終身在職権を得られず、終身在職権を得るまで曲折を経る。結局、学術的な目的で行われた博士の実験は、実験から十数年を経て一冊の著書にまとめられるまで、一般社会に受け入れられることはなかった。
薄謝(謝礼の封筒、どう見ても薄いんだ)で集められた被験者は、ふたり一組で教師と生徒に扮することになる。実はここにはカラクリがあって、被験者は常に教師役となるよう、仕組まれている。
教師役となった被験者の任務は、簡単な単語群を読み上げていき、生徒役が正解しなかったら、電気ショックによって罰を与えること。最初に教師役となる被験者も、身をもって最弱レベルの電気ショックを経験する。
ミルグラム実験が恐ろしいのはここから。
体罰を重くしていくようなもので、間違えるたびに電気ショックのレベルが上がっていく。最弱レベルでもイタタ。。というレベルなのに、最強レベルはその十倍。壁の向こうからは、被験者が生徒役と信じた人物が、苦痛に呻く声が聞こえてくる。あるいはついになーんの声も返ってこなくなる。
そうなるまでに、止めそうなものやん?ところが手を止めない教師役の方が、多数なんだな、これが。
良心が痛んだ教師役は、実験の進行役に指示を仰ぐけれど、「大丈夫です。責任は取ります。」との明言に安心し、実験を続行してゆく。
良心の呵責に耐えつつ、電気ショックのレベルを上げていく人たちや、あるいは進行役の無責任な台詞に腹を立て、実験室を後にする人などが描かれる。
報酬はぺらっぺらの薄い封筒、薄謝なのに、被験者たちはどうしてそこまで苦痛に耐えてやるのか。もうまったく意味がわからない。
イェール大学という権威の場所で、学者という権力者に大丈夫、あるいは続けなさいと命じられると、続けてしまうくらい大学や学者には権威があったんだな。。と、遠い目にもなるさ。
実験室という閉鎖環境で、命令を下す権威がいれば、権威にすべてをゆだねてしまう。良心の呵責を抱えていようがいまいが、結果として命令を完遂すれば、閉鎖環境からの解放もそれだけ早くなる。
その結果何が起こっても、責任はすべて権威者にあるからね。という心理的逃避ルートが確立されると、非道なことでも人はやってしまうんだねという経緯があからさま。
被験者が怒るのも当然、世間から非難されるのも当然
被験者は、“ホロコーストがなぜ起こったのか?”を実証する実験だとは、知らされていない。実験の目的は“教育”だと、偽の実験テーマを信じて参加してる。
実験過程で良心の呵責に悩んだ人も悩まなかった人も、結果として後味の悪さを味わうことになる。薄っぺらい、ペラッペラの薄謝を見返りに。
もしも実験に参加した人の実名リストが、世間に流出でもして面白おかしくセンセーショナルに扱われたら?
細部まで精査することのない一般の人は、リストに載っただけの人物を、薄謝と引き換えに権威者に盲従し、容易に他人を害する“本当は恐ろしい”人だと思うかもしれない。
もしも周囲にそんな人が居れば、私だったら挨拶もしたくないか、当たり障りのない会話しかしない。得体が知れないから。しかも、時はアイヒマン裁判が全世界にテレビ放送され、ナチスの残虐行為が初めて明らかにされている頃。
隠されてきたあってはならないことが、社会の分断を招きつつある頃で、分断される側、虐殺者と同じ側、容易にそっちに転び得る側とみなされたら、どうすんのさという頃。場所はアメリカなんで、ナチス狩りが吹き荒れたドイツとはまた空気や事情が違うかもだけど。
詐欺的な手法で社会実験に参加させられ、しかもその実験では心理的な苦痛を味わい、その結果は、被験者にとって何の名誉にならなかったら、そりゃ非難もされるでしょ。
おまけに被験者にとって詐欺の首謀者、実験の責任者は、この実験で名声を得るとなれば、感情的にも納得しがたい。実験が行われた時点では、被験者にとって「社会の進歩のため」というインセンティブは、薄謝と同じく乏しいんだ。
ミルグラム博士、真面目で感じよく描かれていて家族仲も良好な感じのいい人で、学問的問いに対しては真摯かつinnocentであっても、被験者の感情にはignoranceなんだ。だから、被験者から見れば邪悪。
無邪気に普通の人を傷つける、お偉い学者さま。嫌われるでしょ、そんな人。
嫌われる、世に受け入れられないミルグラム博士のその後の人生も描くことで、学問の世界に生きる人と、一般の人との温度差もあからさま。彼が世間に受け入れられるようになるのは、普通の人にもわかりやすい言葉で実験を綴った本を出してから。
実験の代償は大きかった
実験結果には学問的社会的意義があったとしても、疑義のつく手法を取ったことで、博士のキャリアには結果としてマイナスにしかならなかった。
なぜホロコーストが起こったのか。世に知らしめることも、その問題意識も正しくても、手法が間違っていれば、世の中には届かない。問題意識の高さが理解されるのは、普通の人の身の回りにも、ホロコーストに準じる惨事が起こってから。
閉鎖した組織や環境で責任者が居て、いざとなれば責任は上から取っていくもので、命令される側が責任を取らされることはなかったら、ミルグラム実験の縮小劣化コピーはそこかしこで今も普通に起こってるでしょ。
命令する人、人の上に立って指揮や指示を出す人は、いつだって少数。決して責任を取らされることはないSJWは、今日も元気にあいつが悪いこいつが悪いと意気軒高さ。
“悪の凡庸さ”に骨身が染みるほど痛めつけられでもしないと、きっと一生わからない。
実験は現在も継続中
実験を描いた映画は、その構造も実験的。
まず、場面が変わっても書割っぽい背景や室内がメインで、舞台の場面が変わっただけで、ミルグラム博士の置かれた環境はずっと閉鎖されているかのよう。
権威への服従が、“凡庸な悪”につながることを実証した博士なのに、博士もやっぱり学問的成功や経済的成功を目指している。
人として生きる限りそれは当たり前の姿ではあっても、権威や世俗的成功に背を向けないあなたは、“凡庸な悪”から逃れられる稀有な人なのか。という見方もできる。
たまたま彼が生きた時代には、全体主義が暴走しなかっただけ。全体主義が暴走しないような仕組み作りに、ミルグラム博士が尽力したわけでもなし。
なぜミルグラム博士の背後に、唐突にのっそり「象」が現れるのか。二人いる彼の子供のうちのひとり、息子の顔はなぜ緑色なのか。
象が画面に現れた時には、幻でも見たのかと思ったよ。。クレジットにもしっかりElephantと記載があって、安心したさ。
象と緑色した顔の子供と。何の説明もなく登場した不気味なモチーフには、一体なんの意味があるのか。
キュレーションメディアの煽情的なタイトルに釣られてクリックしたら、中身ぺらっぺらで取材もしてないコタツ記事(って言うんだってさ)でどっちらけ。みたいな気分に襲われました。
悪い奴はあいつにあいつらだと、硬派な記事を装いつつヘイトをまぶした読み物、あるでしょ。そんな感じ。
この映画は、札幌では一回限りの上映。多分、上映館もそんなに多くなく、DVD化やSVOD化されるのかどうかも未知数。
つまり、最初から大勢の人に見られることを前提とされていない限定公開の作品。責任は取るよと権威者の承認があれば、権威に盲従して一線を越えるのは、あるいは薄謝を盾に良心を試されているのは、一体誰なのか。観客を被験者として試してるようで、意地が悪い。
壁の向こうから苦痛に呻く声が聞こえてきても、60%以上の人は実験を継続し、誰一人として壁の向こうの様子は見に行かなかったんだってさ。
戦争という惨事は、次から次へとエンタメのアイデアの源泉となるから、やめられないし止まらないんじゃないの。と、シニカルな気持ちになりましたよ。
お休みなさーい。
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