クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

邦題が残念すぎる、『マネー・スキャンダル 破滅への欲望』見た

原題は『EQUITY』。株式や正当な権利、あるいは公正・公平を意味する単語で、その方がゲスっぽい邦題よりもずっと内容に即してる。

 ウォール街投資銀行でタフに働く女性ナオミを筆頭に、ガツガツ働く女性を描いた作品。映画というより、テレビドラマっぽい。有名な女優も俳優も出てこないのに、ストーリー、内容の面白さとスピィーディーさで引き込まれた。

 

登場するのは、「仕事こそわが人生」タイプの女性たちばかり。成功のモチベーションは「お金」と言い切り、女性が野心を露わにして何が悪いのさ?と120%仕事に生きる姿が描かれる。

 

煎餅かじりながら、別世界バリキャリの世界を垣間見る。ロースクール出身者だったり、バリキャリらしいバリキャリ(この言葉もたいがい古いんだけど、他に適切な言いようがないのでしょうがない)が、ガツガツ働く姿だから、好感度大。

 

お金はあって当たり前。お金を稼ぐことよりも、「お金を稼ぐ仕組みの中に身を置く」のが楽しい人たちのお話。お金そのものよりも、お金を稼げる人との評判が、彼女たちを別世界、あるいは新しい世界へと連れていく。

 

景気よくお金が循環する世界に生きてる人たちは、そんなことなんてとっくに承知。誘惑や魔の手も多い業界で、誘惑や魔の手に負けずに「より稼げる人」との評価を得ようと、がっつくナオミ、年齢不詳。若くないことだけは確か。

 

用意周到かつ細かいところにもよく気が付く観察眼に優れた人で、『プラダを着た悪魔』のメリル・ストリープほど、部下を振り回すこともない。業界の違いっちゃそれまでだけど。

 

IT企業を次々に上場させてきたナオミだけど、前回のIPOではケチがつき、負けられない戦いに挑んでる。気合じゅうぶんなナオミだけど、ナオミをさらなる高みへと行かせたくない勢が、地味に足を引っ張りに来る。

 

公正、フェアであることにこだわるナオミと、正攻法では勝ち目がないからアンフェアな罠を仕掛ける側と。そのあたりの駆け引きが、男と女、上司と部下、あるいは旧友との間でさえ繰り広げられ、気の休まる暇もない姿を描き出す。こりゃ疲れるわ。

 

こんなのやってられないという時の、アンガ―コントロール方法もしっかり身につけて、それでもままならないのは、関係者各位にもそれぞれの思惑があるから。

 

アンコントローラブルな出来事を、コントロールできたら喜びもひときわ大きくなるってもんで、アドレナリンも盛大に出てそう。

 

カードが次々に裏返り、時には打つ手なしと絶望さえ味わうような業界なのに、なぜ魅せられるのか。その答えはやっぱりマネーで、「よく頑張ったね」というご褒美が目に見える形で提示されるから、納得感も大ありなんだな、きっと。

 

努力することに、迷いも疑いも持たない。そういう人種が、正当な報酬めざしてタフに働く物語だから、ウォール街という遠い世界のことでも共感する。

 

努力、頑張ることに迷いも疑いもなければ、そりゃ前のめりに働きますわな。

 

今どきのウォール街がどんなものなのか、さっぱり見当もつかないから、ステレオタイプでタフな女性たちの競演が、かえって面白かった。ちょうどいい息抜きで、動画配信に求めているのは、ライトでいて満足感のあるこんな作品。

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(これは金柑のシロップ漬け)

 

お休みなさーい。

『ダウントン・アビー5』が終った

よそではもう桜や菜の花が咲き、春一番も吹いたとか春の便りが聞こえてくるけれど、北国の春はまだ遠し。

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最高気温も最低気温も零度以下という真冬日で、小雪さえ舞い散るありさまさ。2月もあと一週間ちょっとで、2月は逃げるを実感する。観光客も居なくなり、観光都市とはいえ、3月はもっとも閑散とする季節かも。

 

雪国ならではの景色を見るために遠出する気にもなれないのは、雪景色に新鮮味を感じなくなったから。つまりは飽きた。すでに指折り数えて、アクティブに動き回れる季節を待ち望んでる。雪道を運転できないのが、すべての敗因さ。行動範囲が限られるから。

 

ダウントン・アビー5』が終わってしまった。1週間おきというサイクルがちょうどよくて、唯一楽しみにしていたドラマなのに。動画配信では海外ドラマも見放題だけど、その気になったらぶっ通しで見れてしまうので、ありがたみなし。

 

適度に待たされるのがいいのさ。

 

主要キャラクターはどんどん卒業していき、次のシーズン6では、バイオレットとイザベルのおばあさまキャラ二人の存在感が増すばかり。登場人物の平均年齢も大幅に上昇してそうなところ、孫キャラの登場で平均を押し下げる。やっぱり平均値は信用ならねぇ。

 

最後までお付き合いする、残る視聴者も「退屈に強い」タイプできっと老成してるから、結局はお互いさまなんだけど。

 

リアリティ番組は好きじゃないから、リアリティ番組臭がうすいドラマが見たいけど、そうなるともう、動画で昔のドラマを探す方が早いのかも。時代劇どっぷりの老人みたいに、古っーいドラマや映画を漁りそうになるのでよくない傾向。

 

厳冬期の北国でさえなければ、もう少しアクティブに動き回ってるさ。

 

行くところは商業施設ばかり。

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田舎寿司。全国うまいもの市みたいなイベントで手に入れた。これ、ネットで見たことある奴や、と素直にお買い上げ。ネットで知名度を上げて、その後、イベントに出して露出を高めていく。正しい地方創生の在り方って感じー。

 

美味しい。ひと口で食べるには難儀するけれど、ネタの味付けが上品であっさりとしているから、パクパク食べられる。薄味なのにしっかり味の染みた煮物。自分では作れない&下手と自覚してるから作らないので、より美味しく感じる。

 

ゆず酢のきいた酢飯が、特に美味。

 

しょうゆなしなところもヘルシー。外国人に煮物、だしの味がどこまで受け入れられるのかわからないけれど、ヘルシーなものを食べたい欲求が強い人にウケが良さそう。

 

魚や肉を使ったお寿司、今や海外でも珍しくないみたいだから、「日本ならでは」の食べ物となると、じーさんばーさん系になるんだな、きっと。

 

じーさんばーさん系の食べ物、むしろ好物なので、コンビニやスーパーでも手に入るようになるといいな。

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イベント便乗型商品より、食指も動きやすくなる。(でも買ってるんだけどね、結局)

 

お休みなさーい。

西洋的ステレオタイプをぶち壊す『エム・バタフライ』見た

ラストエンペラー』で清朝最後の皇帝溥儀を演じたジョン・ローンが、ヒロイン役。キワモノかな?と思った通りのキワモノだけど、ゲテモノになりかねないキワモノが、最後に見事な背負い投げを決めてくる。

 投げ飛ばされたのは西洋的ステレオタイプで、虐げられるのは白人男性。見事に騙されちゃったフランス人外交官ルネ・ガリマールを、ジェレミー・アイアンズが繊細に演じてる。

 

紳士なヨーロピアンとユニセックスな魅力にあふれたオリエンタリズムの、衝突ならぬ競演も楽し。役にぴったりな俳優が見つかったからこそ、実現した作品かも、かもかも。

 

 舞台に選ばれたのは、文革目前の北京

オペラの『蝶々夫人』がベースとなった『エム・バタフライ』は、1964年の北京が舞台。1964年といえば、東京オリンピックの年で、アメリカが本格的にベトナム戦争に介入した年でもあって、この時代背景が超重要。

 

北京のフランス大使館に勤務するルネ・ガリマールは会計担当者。インドシナ紛争、そしてベトナム戦争と、アジアが紛争の火種となっている渦中の中国は、直接戦争には介入してないものの、諜報戦の舞台となる重要な場所。そこで仕入れた情報が、アメリカ辺りに流れていく仕組み。

 

オペラ『蝶々夫人』で蝶々さんを演じたソン・リリンことジョン・ローンにひと目ぼれしたガリマール。彼女に言われるまま、市中で京劇が上演される劇場にまで足を運び、ソン・リリンと積極的にお近づきになろうとする。

 

政府関係者のガリマールなのに、あまりにも安直にソン・リリンとお近づきになり過ぎで、それでいいのかとまず1回目のツッコミとして問い詰めたくなる。ちなみにこの後も何回か、それでいいのかとツッコミたくなることがたびたびさ。

 

ストレートの西洋人男性が、オリエンタルな東洋人男性と、「そうとは知らずに」恋に落ちるお話。設定が設定だけに「嘘やーん」とツッコミたくなることたびたびなのに、本人たち、特にジェレミー・アイアンズ演じるガリマールが大真面目だから、成立しちゃってる。

 

なぜガリマールは騙されたのか

ジョン・ローン演じる京劇俳優ソン・リリンは、ガリマールを騙す気満々。騙す気満々にさえなれば、騙せるのか?という疑問は、ガリマールの置かれた状況を考えれば説明がつく。

 

ガリマールは、新任とはいえ大使の信頼も厚く、仕事のできる人。仕事が出来過ぎるゆえに、古参職員からは疎まれていて、仕事面ではプレッシャーを感じていた人。ストレスが嵩じると幻想、イルージョンに逃げたくなるものだけど、ガリマールは特にその傾向が顕著な人。ロマンチストでもあって、結局そのロマンチシズムが仇となる

 

相手が女性か男性か。やることやったらそんなのすぐわかるやろという危地を、ソン・リリンことジョン・ローンは巧みにかわす。「服は着たままで」とか。???と思うリクエストも、東洋の奥ゆかしい女性ならばこそと、むしろ喜んでたかも。

 

哲学的かつ小難しい、インテリジェンスあふれる会話と、性愛に走り過ぎない触れ合いと。体と体の結びつきよりも、魂と魂の結びつきをより重視していたせいか、ガリマール、立場に無自覚すぎで、歓心を買うためとはいえ、機密事項喋りすぎ。

女がどう振る舞うべきか、男にしかわからない (作中の台詞より引用)

 とはまったくその通りで、自らの女性性を信じて疑わないものは、ことさら女っぽく振る舞う必要なんて、まったくないのさ。

 

ことさら女っぽくふるまう必要はないから西洋女性はあけすけで、欲望にも忠実。その姿に幻滅を感じてか、ますます幻想、イルージョンにすがるようになる頃から、ガリマールの転落が始まる。

 

だって、周囲の人が公人、政府関係者としての彼の判断力に、疑いを持つのにじゅうぶんな実績積み重ねたからな!

 

いっぽう北京にも文革の波が押し寄せてきて、ソン・リリンことジョン・ローンは、一見うまく逃げ切ったようで、実は零落してる。

 

ソン・リリンことジョン・ローンの心中やいかに

オリエンタルな人らしく、ソン・リリンが感情をあらわにすることも、激情に駆られることも、滅多にない。

 

笑顔さえ滅多に見せない相手に夢中になれるのは、やっぱり幻想、イルージョンのなせるわざかと思わなくもない。ところが相手のガリマールは、魂と魂の結びつきをより重視するっぽいロマンチスト。ソン・リリンがガリマールに捧げたのは、魂だったのかも

 

断ち切ろうと思えば断ち切れた関係なのに、パリに戻ったガリマールの前に、自ら姿を現したのはソン・リリンの方。

 

文革で強制労働に従事させられていたソン・リリンは、もう舞台に上がることはない。

 

二人の生活の場も北京からパリに移り、ガリマールはもう外交官ではなく、ソン・リリンももう女優ではない。生活が支配する場に移ってきてなお、二人の関係には変化なく、恐らく性愛からも遠いまま。その関係に我慢できずにぶち壊しにかかったのは、きっとソン・リリンの方

 

この映画、後半になるほど見どころが増えるので、前半で脱落するともったいない。

 

ソン・リリンは、最終的にはガリマールが政治犯として裁かれるよう立ち回ったとしか思えない。法廷にガリマールを引きずり出し、大勢の人の前でガリマールに恥をかかせる。

 

だって誰もが信じられない。二人の間には子どもができたことも、その子を人質にとられてのガリマールの行動だったことも。そもそもあんたたち、することさえしてないやんとは全法廷の人の声で、関係者の声で、ガリマールが可哀想すぎる。真相を知ったら、すべての純情で紳士な男性も泣くに違いない。

 

そして、ガリマールに「西洋イチの間抜け」というレッテルが貼られた時、東洋から西洋への復讐も完成する。

 

蝶々夫人』では、アメリカ海軍士官ピンカートンと恋に落ちて捨てられた蝶々さんは、恥じて死ぬ。エム・バタフライ』では、フランス人外交官ガリマールは、ソン・リリンによって「西洋イチの間抜け」としてこっぴどく恥をかかされる。ざまあみろという声が、特にソン・リリンを操ってたあたりから盛大に聞こえてきそう。

 

二人のあいだに愛はあったのか?

 さてソン・リリンによってこっぴどく恥をかかされたガリマールだけど、彼は単なる被害者なのか。

 

「幻想の方がよかった、生身のお前はいらん」と言われたら、言った方と言われた方と、どちらがより壊れるのか。生身の、ありのままの僕・私を愛してと思ってた相手は、たまらんだろう。

 

もしも。ガリマールに理性があり、ソン・リリンの正体を知った時にその立場を悪用し、逆スパイに仕立て上げようとでもすれば。

 

二人の話は政治的なものとなって、公人としてのガリマールの面目も立ったけれど、彼は徹頭徹尾取り乱した。公衆の面前で恥をかかされてもなお、幻想のソン・リリンを愛したと証言すれば、ガリマールの行為と恋はどこまでいっても私人としての暴走になる。

 

私人として暴走したガリマールは、獄中では狂人として囚人から喝采を浴びている。

 

好奇の視線にさらされ続ける市中よりも、獄中にあって適度に一般社会から切り離されていた方が、「西洋イチの間抜け」にとっては生きやすい。最大限相手を尊重し、信頼したあげくに残されたものが「西洋イチの間抜け」というレッテルだったら、もう正気ではいられない。

 

そこまでソン・リリンが計算したのかどうかは永遠の謎だけど、とにもかくにもガリマールは囚われの人となり、ソン・リリンは国へと帰る。

 

「西洋イチの間抜け」としてガリマールが生き恥を晒すのを良しとしないことも計算済みで、引導を渡して彼を苦痛から解放する道筋をつけたのなら、そこにあるのはやっぱり愛にしか見えない。

 

引導を渡すのも、愛がないとできないんだ。

 

よいものを見て、満足した。謎に包まれた生い立ちのジョン・ローンは、現在ではすっかり表舞台から姿を消している。考えて見れば、謎に包まれた生い立ちの彼が、清朝最後の皇帝役を演じたのはなんとも皮肉。

 

ハリウッドでも日本でも、二世三世が活躍するようになって全体が底上げされてクリーンになれば、彼のような人の活躍する場もなくなっていくのかも。太く短くを最初から志向していた彼は、賢明でもあった。

 

お休みなさーい。

ホワイトチョコで作るホワイトブラウニー

今は検索上位で表示されるとはいえ、いつまで続くかわからない&消えるかもしれないから急いで書き起こし。ネットの海に漂う、情報の命や儚し。

 

ホワイトチョコを使って作るから、ホワイトブラウニー。

 

普通のブラウニーに比べると、甘さも体感で1.5倍。時間が経つと、ホワイトチョコと混然一体となった生地がますます美味しくなるから、ついつい食べ過ぎてしまう。いかんいかん。

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【材料】

  • ホワイトチョコ 80g 
  • 無塩バター 60g 
  • 砂糖 60g 
  • 卵 1個 
  • 薄力粉 60g 
  • ベーキングパウダー 小さじ1 
  • ドライクランベリー 30~40g

下準備として、ドライクランベリーはさっと水で洗って好みのリキュール(コアントローラム酒やブランデーなど)大さじ1に漬け込んでおく。

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バターと刻んだホワイトチョコを、湯煎にかけて溶かす。フライパンにお湯を沸かし、固定用のペーパータオルを敷いて耐熱ボウルを置くとやりやすい。

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すっかり溶けたら砂糖を投入。砂糖を投入すると、生地が分離するけど慌てない。

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割りほぐした卵を加える。泡だて器より、スパチュラ(ゴムベラ)の方が扱いやすい。砂糖のジョリジョリした塊がなくなるまで、よく混ぜる。

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薄力粉とベーキングパウダーを混ぜたものを投入。

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リキュールに漬け込んでおいたドライクランベリーを投入。緑が入るときれいなので、ほんとはスライスしたピスタチオが欲しいところを、代用品のピスタチオパウダーもほんのちょっと振り入れる。

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型に流し込み、180℃に予熱しておいたオーブンで20分焼く。

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完成。参考にしたのはこちらのレシピ。

cookpad.com

冷めたら食べやすいひと口サイズ、あるいはスティック状に切り分けて、あれば粉糖(パウダーシュガー)を振りかける。ホワイトチョコ使ってるで?とアピールしたいので、見た目からして白っぽくする。

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 甘い生地に、クランベリーの酸っぱさがよく似合う。雪道に散ったナナカマドの赤い実を見るたびに、ホワイトチョコを思い出したもんだよ、今シーズンも。通るたびに、チョコっぽいと思ってたさ。

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美しいまま年齢を重ねた女性が目立つようになって、「美しい50歳がふえると、日本は変わると思う。」を実感する日々。

 

アメリカかどこかでも、元スーパーモデルの60歳過ぎた女性はいつまでたってもお美しくてナイスバディで。世の中は、年とってもきれいなままの人と、そうでない人とに分かれることを可視化するのが、人口逆ピラミッド社会。

 

あまり話題にならなかったみたいだけど、レスリングの吉田沙保里さんがTSUBAKIのCMモデルに抜擢されたのも画期的。

 

「なれるわけないじゃん」とわかり切っている、八頭身美人が宣伝する日用品が、嘘くさくてたまらない。だってあなたそれ使ってないでしょ?というのもわかり切ってるから、嘘くささにも拍車がかかる。

 

なろうとも思ってない人が宣伝する商品を手に取ったからといって、「ほら、私みたいになれるわよ?なろうよ」とやられても、何もかもがまったく違うからシラけるばかり。クラスに十人はいそうな人の方が、親近感もわくってもので、吉田沙保里さんがクラスに十人もいたら史上最強チームの出来上がりで、それはそれでまた話が違うんだけど。

 

年とってもきれいなままの人と、そうでない人とに分かれることがクリアーになって、愛でる人と、追いつこうとする人にもくっきり分かれることに。追いつこうとする生き方ばっかりクローズアップされてたけれど、それ以外の道も、別に悪かない。

 

美人コンテストの上位者だけが、人生のすべてを総取りするわけじゃない。そっち方面では、“見たいものしか見ない”は、いい方向に作用してると思ってる。

 

お休みなさーい。

 

ホワイトブラウニーと『ニュースの天才』と

ラ・メゾン・ドゥ・ショコラのチョコレートボックスを、思う存分貪りたいと夢見ていた頃が、思えば一番幸せだった。どんなに好物でも過ぎたれば及ばざるごとしで、あとには胸やけが待つだけ。夢見る頃にはもう戻れない。

 

めんどくさい、今さらという気持ちを押し殺し、思いは形になってた方がわかりやすいので、ちゃんと形のあるものも用意したバレンタイン。

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相手の好みを尊重したものと、自分の好みで突っ走ったものと。二種類用意すればめんどくささも二乗となるはずが、自分のためとなるとめんどくさいもどこかへ吹き飛ぶ現金さ。

 

単なる焼き菓子に見えるけれど、その実ホワイトチョコを使った、ホワイトブラウニー。普通の焼き菓子より激甘。酸っぱいはずのクランベリーを加えてさえ、甘っ!!!!という感想しか出てこない。でもいいの、一度は作ってみたかったから。

 

実際に経験してみれば、欠点もよく見える。

 

捏造、フェイクニュースがテーマとなった『ニュースの天才』は、2003年制作の映画。劇場公開時は、まったく興味がなかった。キュレーションメディアのコピペ記事騒動や、アメリカ大統領選におけるフェイクニュース騒動を経たあとに観るから、前のめりになれる。

ニュースの天才 (字幕版)
 

 大統領専用機エアフォースワンに唯一置かれる雑誌となれば、権威の匂いがプンプンする。主人公は、その権威ある雑誌『THE NEW REPUBLIC』で、最年少ライターとして働く青年スティーブン24歳。

 

描かれるのは、デジタルメディアが世界を制する前の世界で、紙の雑誌の権威がまだ生きていた頃。ついでにピュリッツァー賞がまだ輝かしい響きを放っていた頃でもある。

 

デジタルメディアもすでに台頭しているけれど、彼らが使っている検索サーチがヤフーなところに、時代が出てる。グーグルが覇権を握る前なんだな、舞台は。

 

さて権威ある雑誌『THE NEW REPUBLIC』内で、最年少ながらヒット記事を次々に生み出すスティーブン。編集部の平均年齢は26歳と若く、ノリは部活っぽい。デジタルメディアの、オフィスっぽい雰囲気とは対照的。スティーブンが書いたある記事に、他のメディアが疑いを持ったところから、記事の捏造疑惑が持ち上がる。

 

政治評論を得意とする『THE NEW REPUBLIC』といえば、権威の象徴みたいなもの。疑いを持ったデジタルメディア(フォーブス・デジタル)は大喜びで、権威が犯したかもしれない過ちに飛びついて調査を始める。

 

この映画は、報道に携り、その仕事に誇りを持っている人が見れば、少なからず腹を立てるであろう人物を主人公にしてる。

 

反感を持たざるを得ない人物を主人公に選び、そのうえで“誰のために書くのか”を突きつけてくる。

 

スティーブンは、最年少ながらライターに抜擢されてるだけあって、優秀かつソツのない人物。社内での人間関係には気を配り、ヒットを次々に飛ばす最年少ライターとして、妬みの対象とならないよう、気を配ってもいる。

 

政治談議が好きで、『THE NEW REPUBLIC』編集部の部活ノリを心から愛してるようで、実はそうでもないところが、スティーブンというキャラクターのキモ。

 

業界内では憧れのポジションであっても、業界外から見れば、また違った評価が下されるもの。医者か法律家こそ至高という両親の価値観を受け継いでいるスティーブンは、ロースクールに進学する夢をあきらめてない。

 

従来の『THE NEW REPUBLIC』とは違ったカラーのヒット記事を連発し、権威ある雑誌の“新しい顔“になるかのごとくふるまいながら、その内心は揺れている。

 

権威だけはあるけれど。。。という場所は、往々にしてお金の匂いからは遠いもの。

 

労多くして実り少なしだから、編集部の平均年齢が26歳と低いのも頷ける。生活を優先させたものから去っていき、最後まで残ったごく少数の社会の木鐸によって率いられているっぽいのが『THE NEW REPUBLIC』という雑誌。

 

評論、特に社会評論なんて分野は、万人に喜ばれるものじゃない。権威にとっては煙たい鬱陶しいもので、嫌がられることを承知で営々と積み上げてきたから、最後に信用という看板が手に入る。

 

嫌がられてなんぼの商売で、儲からなくて当たり前。優秀な人にしかできないのに、同じように優秀な同窓生はもっと稼いでいて、心を折られること100万回くらい経てようやく権威に近づける。きっとそんな場所。

 

信念がなければ続かない。そして、スティーブンにはその信念がなかったことが、徐々に明らかになっていく過程が、この映画の最大の見どころ。

 

ヒット記事を連発する期待の新星が、疑惑に対する釈明として“子どもじみた嘘”を繰り返すさまは、ただ哀れ。しかもスティーブンを追求し、追い詰めるのが、能力を侮り馬鹿にしていた新編集長という趣向がいい。

 

報われないことの多い仕事だけど、小石を積むように信用を積みあげてきた、ベテランなめんなよ。

 

社会の木鐸として、今日も明日も明後日も。奥ゆかしく自分のなすべきことを粛々とこなしてる人たちは、そんなこと口にもしないから、かわりに“幼児退行”した目立ちたがりの姿が、スクリーンに映し出される。

 

面白可笑しいだけの、真実でさえない記事で注目を集めたいのなら、何も権威の場所でやることなくヨソでやりゃあいい。

 

この映画、捏造が暴かれるまでを描くのと同時に、スティーブンが“編集心得”を後輩に説く趣向になってるところが最高にクール。

 

“よき編集長は編集部員を守るもの”とか、看板汚したその口でスティーブンが語るそばから、彼の不正行為や、不正隠滅行為が暴かれていくから面白い。しかもその手口が超子どもっぽい。信念が薄っぺらくてペラペラなのが、よーくわかる。

 

ラストシーンは、空っぽな彼を象徴するようなシーンで終るけれど、真にやるせないのは、エピローグ。

 

信念を持たないくせに精力的だった彼は、いったい誰のためにせっせと捏造記事を量産していたのか。承認欲求モンスターに食い荒らされ、信用の看板も食い荒らされた雑誌の権威は地に堕ちたけれど、彼自身はちゃんと第二の人生を生きている。

 

お金にならないから生まれたとも言える記事捏造の時代から、はるか遠く。今ではPVがお金に変わるからと、フェイクニュースが世に溢れている。

 

事実を検証するためのツール、検索サーチの踏ん張りどころで、そのうちこの時代はグーグル使ってたんだね、と懐かしがられたりしてね。

 

お休みなさーい。

バレンタインも近いので、『バレンタインデー』見た

チョコはほとんど出てこない。

 

ハロウィン🎃の時の渋谷が異常な盛り上がりをみせるように、バレンタインになるととりわけ盛り上がるのが、アメリカのロスアンゼルスなのかもしれない。かもかも。

 

 バレンタインデーに同時進行する、老若男女による複数のコイバナが錯綜する群像劇。いくつになってもイチャイチャ、愛情表現もあからさまな人物がいっぱいで、アメリカ人(多分都会限定)のエネルギッシュさに圧倒されまくり。何食ってりゃ、こんなにイチャイチャできるのさ。。と、日本人としてはたじろぐばかり。

 

出演陣も豪華。

 

テイラー・スウィフトアシュトン・カッチャージェシカ・アルバアシュトン・カッチャージュリア・ロバーツにジェイミー・オリバー、はてはクィーン・ラティファにシャーリー・マクレーンまで。一人くらい、好きな俳優見つかるやろ?と言わんばかりの豪華さで、一人でも多くの人に「好きになってもらいたい」「見て欲しい」と、設定からして愛がいっぱいさ。

 

多分オーバーに演出されてるとはいえ、日米のバレンタイン事情の違いを知る上でも面白い。

 

ストーリーの中心となるのは、花屋の青年アシュトン・カッチャー。すべての道は花屋に通じると言いたいくらい、バレンタインには大忙しとなる業種だから、ストーリーの中心となるのもお花屋さん。

 

微笑ましい愛のキューピッドとなることもあれば、期せずして知らなくてもいいことまで知ってしまう、なかなかに悩み多きポジション。花束やアレンジメントづくりに、配達まで、夜更けまで大忙し。

 

結婚適齢期アシュトン・カッチャー自身も、恋の天国と地獄を行ったり来たりで忙しい。花屋、そのお客、その先の人間関係、あるいはそこですれ違った人たちと、袖すり合った人たちのコイバナが次々と繰り広げられる。

 

年齢相応に、彼氏とイチャイチャしまくりのテイラー・スウィフトが、とびきりカワイイ。超キュートで、超ラブリー。どれだけイチャついていても、「若いっていいわねぇ」とスルーされる年齢の時に思いっきりイチャついた人間は、きっと真っすぐに進んでいくさどこまでも。

 

と、思える愛されキャラ時々呆られ系を、のびのびと演じていて、好感度大。物怖じせずに、好きなものに好きと言い切る打たれ強さの秘密は、きっとこんなところにある。

 

場数を踏まなかったせいか、あるいは踏みまくってか、真っすぐにいかずにジグザグ折れ曲がりまくりの大人の恋も複数同時進行で、不実な人と誠実な人の明暗もくっきりはっきりで、苦笑するしかない。

 

ジェニファー・ガーナ―演じる小学校教師の恋は、真っすぐにのびのび育った彼女の恋が、これでいいわけないと周囲の助けによって修正される。

 

誰も望まない恋や愛が見たいんじゃない。みんなに祝福される、ブラボーとみんなが喝采を送りたくなる恋や愛が見たいんだという、揺るぎないコンセプトにも愛がいっぱいさ。

 

この映画を見ると、日本がいかに「お一人様に優しい」国かと思い知らされる。パートナーが居て当たり前。パートナーチェンジも当たり前なのは、それだけ一人で生きるのに厳しい国だから。

 

アン・ハサウェイ演じる奇妙な女性は、奇妙な人生を生きるしかない、人生の重荷を背負ってる。一人では潰されそうだから、誰かと重荷を分かち合う。多分そんな理由で、パートナーを求める人が彼の国には多いんだ。

 

夫婦になっても孫が生まれても、いつまでも互いの愛を確認せずにはいられないのも、家族関係がドライで、日本のように体面や親族に縛られないことの裏返し。いつでも解消できる関係なら、せっせと繋ぎとめるしかない。繋ぎとめても切れちゃうものは切れちゃうから、切れない関係、いつまでも続く愛こそ貴重なんだ。

 

ほぼ一年ぶりの逢瀬という、たった一日のために片道14時間かけてジュリア・ロバーツが旅をするのも、いつ終わっても不思議のない関係だから。会える時に会っておかないと、「次の機会」は永遠に訪れないかもしれないから彼女は空を飛ぶ。

 

ジュリア・ロバーツの空の旅のお供となる男性が、とっても思いやりのあるステキな男性で、どんな相手と恋に落ちるのかと思いきや、そこに着地するかとサプライズも待っている。(← 勘のいい人なら、もっと早くに気付くに違いないけど。。)

 

それがみんなに祝福されるものならば、誰がどんな人と恋に落ちたっていいじゃない。という哲学に貫かれているから、後味がいい。“みんなに祝福されるもの”というところが、ポイントさ。

 

バレンタインとはいえ、相手がいない人向け、ほんとは居たはずなのに。。という人向けの見せ場もちゃんとあって、可能な限りすべての人に愛とハッピーを届けようとしているところがとことん後味がいい。

 

絵に描いた餅、理想は理想でしかないとしても、理想の形はこうなんだと高々と掲げてくるから、理想も現実になりやすいのさ、きっと

 

大切な人をちゃんと大切にしている人ほど、博愛にも近くなるんだねと思う、ラブ&ハッピーが詰まってる。モノより思いとか言うけれど、モノがあった方が愛も伝わりやすいやね。

 

お休みなさーい。

証言は大事『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』見た

テレビ史上初の記録映像シリーズとなった、アイヒマン裁判。

 

大物ナチス戦犯のひとりであるアドルフ・アイヒマンを、人道に対する罪で裁いたアイヒマン裁判では法廷にカメラが持ち込まれ、その一部始終が全世界に向かって放送された。

 『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』は、アイヒマン裁判を放送することになった監督やプロデューサーといった、テレビサイドの人から見た裁判を描いてる。

 

時代は、ロシアのガガーリンが世界初の宇宙飛行士となり、キューバ危機が勃発して第二次大戦度、世界が核戦争にもっとも近づいていた頃。

 

次々に“ホット”なニュースが起こり続けるなか、すでに「ナチス悪い奴、許すべからず」で終っていた出来事を、裁判に持ち込んだとはいえ、全世界に放送するほどのニュースバリューがあったのか。

 

史実を確たる史実とするためには、映像のインパクトが欠かせない。

 

もしも、アイヒマン裁判の一部始終が映像記録に残されていなければ。そこで証言した人たちの証言が残っていなければ、あったことさえなかったことにされてしまったかもしれないから、やっぱり映像の証拠能力は強力なんだ。

 

願うことはただひとつ。もう生きていたくないから殺してくれというような目に遭った人に対して、あったこと、事実を語って記録に残すことは償いの一種。

 

裁判そのものは地味だから、“世紀の裁判”とはいえ、世の中の人はホットなニュースに夢中で関心は薄い。けれど監督には勝算ありで、「証人の証言が始まれば変わる」との読みどおり、証人が証言台に立ち始めると、流れが一気に変わる。

 

平和に暮らしている戦後の人が知らなかったこと、想像もしなかったおぞましい出来事が次々と明らかになっていく。

 

そのほとんどは、21世紀に生きる人間ならよく知っていることだけど、戦後はやっぱり臭いものに蓋で、歴史の闇に葬られていたもの。

 

テレビ史上初の記録映像シリーズとなったアイヒマン裁判は、厳重に封印されていた臭いものの蓋を開け、語ることさえ許されずに汚物として沈黙を強いられた人たちの、声を聴く作業。

 

タブーを破る作業だから途中で妨害にも遭い、告発者の家族や自身も危険にさらされる。

 

証言する人の中には途中で気を失う人も居て、二度と思い出したくもない出来事は、語ることさえ負担になるものなんだ。

 

ところでこれは裁判で、法廷には被告であるアイヒマンも同席してる。カメラは執拗に彼を追い、彼が“崩れる”さまを映像に残そうとするんだけど、まぁこれがなかなか崩れないんだな。

 

民族抹殺という、後世の人が聞いたら呆れかえるような悪魔の所業。指揮系統のてっぺんに居る人たちは、いかなるモンスターかと思いきやさにあらず。

 

映画には実際の裁判映像が出てくるけど、“悪の凡庸さ“とアーレントに評された人は、かといって平凡なおじさんでもない。のらりくらりと決定的な失言を巧みにかわす、それなりに頭の切れる、任務に忠実な人。戦後だから無能な勤勉者っぽく見えるだけ。

 

虐殺の事実を知った人たちが言葉を失くし、あるいは生き残った人たちが甦った過去に苦しめられるなか、アイヒマンその人は何を思うのか。

 

もしも彼が人間らしい言葉を残せたなら、後世の人の評価も変わったものの。官僚的な人はどこまでいっても官僚的で、その枠も羽目も外せなかったのが彼にとっての悲劇。

 

モンスターではないけれど、かといって人間味も感じられない。満員の通勤電車にはよく居そうなタイプで、苦痛から逃れるための最適解には弱そうで、アイヒマンは決して特殊な人ではないと思わせる。

 

通勤や仕事のストレス、おもに“自分はこのような苦痛を味わう人間ではないはず”というある種の選民意識が、アイヒマン化を加速する。

 

アーレントがアイヒマン裁判で触れた、一部のユダヤ人によるナチスへの協力についてはスルーで、そこはちょっと深みに欠ける。わかりやすさに舵を切ると、複雑な要素はカットするしかない。

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それでも、世紀の裁判を後世の人の視聴にも耐えるよう、カメラワークにまで気を配った、“記録する側の視点”としてはそれなりに面白かった。ジャーナリストは、目立つところだけつつきたがるカササギのようなものとか(一部不正確)。含蓄あるセリフも堪能した。

 

世界を揺るがした悲劇は、報道する側にも相応の覚悟と技量が求められる。カッコいいからと報道に憧れる人の気が知れない。知らなくていいことまで知ってしまう、本来はとっても気が重い作業なのに。

 

臭いものの蓋を開けたあとでもアレはアレ、コレはコレと割り切れるのなら、その人はとってもアイヒマンに、ファシズムに近いんじゃないか。

 

お休みなさーい。