テレビ史上初の記録映像シリーズとなった、アイヒマン裁判。
大物ナチス戦犯のひとりであるアドルフ・アイヒマンを、人道に対する罪で裁いたアイヒマン裁判では法廷にカメラが持ち込まれ、その一部始終が全世界に向かって放送された。
『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』は、アイヒマン裁判を放送することになった監督やプロデューサーといった、テレビサイドの人から見た裁判を描いてる。
時代は、ロシアのガガーリンが世界初の宇宙飛行士となり、キューバ危機が勃発して第二次大戦度、世界が核戦争にもっとも近づいていた頃。
次々に“ホット”なニュースが起こり続けるなか、すでに「ナチス悪い奴、許すべからず」で終っていた出来事を、裁判に持ち込んだとはいえ、全世界に放送するほどのニュースバリューがあったのか。
史実を確たる史実とするためには、映像のインパクトが欠かせない。
もしも、アイヒマン裁判の一部始終が映像記録に残されていなければ。そこで証言した人たちの証言が残っていなければ、あったことさえなかったことにされてしまったかもしれないから、やっぱり映像の証拠能力は強力なんだ。
願うことはただひとつ。もう生きていたくないから殺してくれというような目に遭った人に対して、あったこと、事実を語って記録に残すことは償いの一種。
裁判そのものは地味だから、“世紀の裁判”とはいえ、世の中の人はホットなニュースに夢中で関心は薄い。けれど監督には勝算ありで、「証人の証言が始まれば変わる」との読みどおり、証人が証言台に立ち始めると、流れが一気に変わる。
平和に暮らしている戦後の人が知らなかったこと、想像もしなかったおぞましい出来事が次々と明らかになっていく。
そのほとんどは、21世紀に生きる人間ならよく知っていることだけど、戦後はやっぱり臭いものに蓋で、歴史の闇に葬られていたもの。
テレビ史上初の記録映像シリーズとなったアイヒマン裁判は、厳重に封印されていた臭いものの蓋を開け、語ることさえ許されずに汚物として沈黙を強いられた人たちの、声を聴く作業。
タブーを破る作業だから途中で妨害にも遭い、告発者の家族や自身も危険にさらされる。
証言する人の中には途中で気を失う人も居て、二度と思い出したくもない出来事は、語ることさえ負担になるものなんだ。
ところでこれは裁判で、法廷には被告であるアイヒマンも同席してる。カメラは執拗に彼を追い、彼が“崩れる”さまを映像に残そうとするんだけど、まぁこれがなかなか崩れないんだな。
民族抹殺という、後世の人が聞いたら呆れかえるような悪魔の所業。指揮系統のてっぺんに居る人たちは、いかなるモンスターかと思いきやさにあらず。
映画には実際の裁判映像が出てくるけど、“悪の凡庸さ“とアーレントに評された人は、かといって平凡なおじさんでもない。のらりくらりと決定的な失言を巧みにかわす、それなりに頭の切れる、任務に忠実な人。戦後だから無能な勤勉者っぽく見えるだけ。
虐殺の事実を知った人たちが言葉を失くし、あるいは生き残った人たちが甦った過去に苦しめられるなか、アイヒマンその人は何を思うのか。
もしも彼が人間らしい言葉を残せたなら、後世の人の評価も変わったものの。官僚的な人はどこまでいっても官僚的で、その枠も羽目も外せなかったのが彼にとっての悲劇。
モンスターではないけれど、かといって人間味も感じられない。満員の通勤電車にはよく居そうなタイプで、苦痛から逃れるための最適解には弱そうで、アイヒマンは決して特殊な人ではないと思わせる。
通勤や仕事のストレス、おもに“自分はこのような苦痛を味わう人間ではないはず”というある種の選民意識が、アイヒマン化を加速する。
アーレントがアイヒマン裁判で触れた、一部のユダヤ人によるナチスへの協力についてはスルーで、そこはちょっと深みに欠ける。わかりやすさに舵を切ると、複雑な要素はカットするしかない。
それでも、世紀の裁判を後世の人の視聴にも耐えるよう、カメラワークにまで気を配った、“記録する側の視点”としてはそれなりに面白かった。ジャーナリストは、目立つところだけつつきたがるカササギのようなものとか(一部不正確)。含蓄あるセリフも堪能した。
世界を揺るがした悲劇は、報道する側にも相応の覚悟と技量が求められる。カッコいいからと報道に憧れる人の気が知れない。知らなくていいことまで知ってしまう、本来はとっても気が重い作業なのに。
臭いものの蓋を開けたあとでもアレはアレ、コレはコレと割り切れるのなら、その人はとってもアイヒマンに、ファシズムに近いんじゃないか。
お休みなさーい。