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クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

傑出した才能が自らを滅ぼしていく『完全なるチェックメイト』見た

チェスシーンで退屈するかもと、大きなスクリーンで見るのは敬遠したけれど、チェスシーンこそ真剣勝負でもっとも見応えがあった。

 たかがチェスとはいえ、東西冷戦時代の1970年代、直接ドンパチやるわけにはいかなかった米ソ間の、威信をかけた代理戦争みたいなもの。だから、たかがチェスとはいえ緊迫感満点なんだ。

 

現在でもチェス史上最高の一戦(と言われているらしい)である、アメリカ人ボビー・フィッシャーと世界王者であるソ連のボリス・スパスキーの対決がメイン。

 

チェスは知らなくても、ボビー・フィッシャーの名前なら知っていた。ってかボビー・フィッシャーしか知らん。さほど将棋に詳しくなくても羽生さんなら知ってる、という現象に似てるかも。

 

羽生さんはチェスもプレイしたり、不世出の強さで門外漢にもその名を知られているけど、ボビー・フィッシャーは奇行で知られた人。映画では、いろいろと謎の多い人物の前半生にスポットをあて、チェスプレイヤーとしての傑出した才能と、才能に身を焼かれるまでが描かれる。

 

ボビーは、師を持たずに独力で強くなった人。師を持たず、ただプレイヤーとしてのレベル上げにだけ集中していたから、なるべくしてとっても強くなった人。

 

そりゃこんな幼年時代を過ごして、何らかのタイトル獲らんかったら嘘やろう。。というのがちびっこから青年期にかけてのボビーの生活。

 

大人に混じって大人顔負けのプレイで大人を凌駕してきたボビーには、チェスに強くない大人の言うことは聞くに値しないかのようで、往々にして傲岸で鼻持ちならない。

 

ボビーが鼻持ちならなくて傲岸だから、結局親身になってくれる人や味方になってくれる人を得られず、彼はますます攻撃的になっていく。ごく少数の人以外、みんな敵状態。

 

プレイヤーとしては順調に成長を重ねていくけれど、家庭環境が特殊で家族による庇護も希薄だったせいか、精神のバランスを欠いたまま大人になっていく。

 

四六時中チェスのことしか考えてなかったことを示すエピソードとして、チェス盤に向かってない時でも、口頭で次の一手を指している。「キング→ルーク3」のように、しりとりみたいに常に次の一手を考えていて、もはや次の一手を考えることそのものが、息抜きになってるかのよう。

 

練習量が半端ない。

 

練習量が半端ないプレイヤーで思い出すのは『3月のライオン』の桐山零。彼も練習量が半端ないプレイヤーだけど、ややコミュ障気味とはいえ常識や礼儀はちゃんと身に着けている。フィクションの人物とノンフィクションの人物を比べるのもアレだけど、その違いはやっぱり環境で、零には師もいれば、家族には先立たれたとはいえ疑似家族的な温もりに囲まれてる。

 

競技に専念できる環境は、傑出したプレイヤーとなるためにはあった方がいいけれど、だからといって人としての人格も育まれ、逆境でも取り乱さない強さを作るのかは疑問。

 

ボビーを見ていると、プレイヤーとして強くなるたびに、人格の成長に必要な何かが剥がれ落ちていくようで、不憫。ただもうひたすら不憫になってくる。

 

ただでさえ人格にもろいところがあるのに、そこに米ソ代理戦争としての世界王者戦が、彼の精神をさらに不安定にする。

 

精神のバランスを欠いている時に、もっともやってはいけないことが、ごく少数に向けた“極端に偏った意見に耳を傾ける”こと。

 

精神が不安定気味なのに、あやしいユダヤ陰謀論的な、あやしい教義を説くヘンなもんを四六時中聞いちゃってるから、 ボビーはますますおかしな人になっていく。

 

その危うさに気づいているのも、少数の人だけ。気づいてはいても、どうしようもない。

 

ボビーが耳を傾ける可能性があるのは自分を負かす人だけ。対戦相手であるスパスキーしか、同時代には存在しなかったことが、ボビーの不幸に拍車をかける。

 

奨励会に所属する人たちは、時に敵になることもあるけれど、同時代に同じ将棋というツールを使って会話できる友でもある。でも、チェスの世界には奨励会的なものもなければ、同じチェスというツールを使って会話できる同レベルの人は、鉄のカーテンの向こうにしかいない。

 

ボビーとスパスキー。同じく国家を背負わされたプレイヤー同士だけど、スパスキーは国家の庇護に分厚くくるまれている。ボディガード多数でメディアの盾にもなってくれそうで、静かに物を考えられる贅沢なホテルも用意してくれる。

 

結局当時のソ連は人材こそが宝で国家の最大の売り物であったから、傑出した才能持ちには手厚い庇護があったんだとわかる。

 

ソ連がモノづくりの匠の国だとは、寡聞にして聞いたことがない。ソ連崩壊後も、ソ連製のナントカがないから、とある業界が困ってるなんて話も聞いたことがない。

 

それに対してアメリカは産業の国だから、傑出した才能の持ち主でも、国家の威信をかけて代理戦争に狩り出されても、ガンバレヨ!と電話が来るくらい。プレッシャーだけかけにくる。作中のボビーは、スパスキーに比べて自身の待遇の悪さを嘆くけど、ボビーが頼るべきはほんとは国家ではなく“産業界”だったのよね。

 

不幸なことにボビーの生い立ちがまた、彼自身にはどうしようもない枷となって、産業界の支援もあてにできない状態だったんだけど。

 

傑出した才能をバックアップする環境を得られなかったから、ボビーの精神は崩壊に向かう。ボビーにはどうしようもないのに勝手に背負わされた先天的なものと、後天的なボビーの度し難い性格が混じりあって、もうほんとにどうしようもないほど「ヘンな人」が出来上がってしまった。作中でも「ヘンな人」のエピソードがてんこもり。

 

ガンバレヨ!で勝手に背負わされた国家の威信が、どれほど人の精神を狂わすものなのか。

 

冷静沈着なスパスキーでさえ、時に取り乱し、たかがチェスとはいえ、途轍もない重圧のかかった試合だったから、世紀の一戦となったのかと思った。少なくとも現代では、再現不可能な重圧だから。

 

21世紀になったとはいえ、オリンピック(あるいは代表戦か?)で負けたら檻に入れられる国も世界にはあるらしくて、バカらしい。傑出したプレイヤーは、競技の上達以外は考えなくてもいい環境をめざすべし。

 

たかがチェスが、たかがで終らなかった時代の不幸が世紀の一戦を生んだのなら、もう二度と世紀の一戦なんて生まれなくてもよし。見たいのは、もっと清々しいもの。

 

そう思うほど、勝手に託され、勝手に背負ってしまい、二度と平穏な暮らしには戻れなかったボビーが痛々しい。

 

チェス盤が刻まれた公園のテーブルで、無心にチェスで遊んでいた時代がもっとも幸福そうに見える不世出のプレイヤーは、もう彼で終わりにしようと人々の記憶に刻むために作られた映画。そう思ってもいいくらい。

 

プレイヤーとして強くなるたびに、人としての平穏な生活から一歩遠くなった。精神のバランスを欠きながら、それでも必死で次の一手を考え抜いた人の、人生のハイライトシーンを切り取った映画。痛ましい姿が、記憶に刻まれることもある。

 

 無観客試合といっていい将棋の名人戦は、プレイヤーを守るためでもあったんだね。

 

今週のお題「映画の夏」

 

お休みなさーい。

 

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