『海は燃えている』という、イタリアのドキュメンタリー映画がありまして。ウォッチリストには入れているけれど、見ると鬱になりそうでそのうち。。と思ってずいぶん経つ。アメリカは中南米からの、ヨーロッパはアフリカからの、そして日本は近隣アジア諸国から押し寄せる難民が大きな問題になるよ、と10年くらい前に予言された。
先進諸国共通の問題に、先進国を標榜する国がわしゃ知らんで通るのか。通したいから、先進国から降りるという非常手段があり、一国あるいは一エリア内の平和はその中では保たれる。鎖国って奴やな。
カーテンの向こうがずいぶん明るいような気がした、真夜中。外ではやっぱり雪がしんしんと降っていた。
ホワイトイルミネーションは、まごうかたなき一面の真っ白さ。日が暮れる前にさっさと帰ってきたから、点灯後の光景はまだ見てないんだけど。これからしばらく夜10時までは煌々と明かりがついてるはずなので、いつでもいいやとのん気なもの。
Tの国かCの国か。
世界はTeaを日常の飲み物とする国と、Coffeeを日常の飲み物とする国との二つに分かれるんだと、これは何かの本を読んだときに仕入れた知識。チャイ(CHAI)の立場はどうなるんや。。という大雑把すぎる分類だけど、なんとなく納得感はあり。
水とアルコールの間の中間の飲み物として、何を飲んできたのか。そこにはきっとその土地ならでは来歴があって、文化人類学とか生活史とかに行き着きそう。
熊笹茶というお茶を飲んだことがある。熊笹という、北海道ならそのあたりの野山に生えてそうな植物を原料としたもの。特別美味なものではなかったけれど、単なる葉っぱでもお茶になるのかと、それなりに新鮮だった。
葉っぱがあればとりあえずお茶はできるから、Coffee>TeaでCoffeeが良く飲まれる地域ほど文化文明度も上がる時代が、きっとあったはず。なんてったってCoffeeはどこでも育つ作物ではないから、遠方と交易する能力や、あるいは遠方の農場を経営する能力(含む経済力)がないと、Coffeeを日常の飲み物とすることはできない。
Teaの文化もよーく見てみれば、紅茶・日本茶・中国茶とそれぞれ最高ランクに近づけば近づくほど洗練されていき、産地や生産者で高値がつく商品作物ではあるんだけれど。高値がつく商品作物という認識がなく、家で飲むものとしか思ってなかったら、外で高いお金出して飲んだりしないわな。
昔々紅茶教室に通っていた時、Teaについて学ぶのなら、岡倉天心の『茶の本』を読むべしと薦められて目が点(・。・;になった。紅茶関係あらへんやん。。という思いは、kindleでポチッとダウンロードした『茶の本』を読んでも募るばかり。
ちなみに岡倉天心とゆかりのある茨城県五浦の六角堂を見に行った時に、当時の岡倉天心の写真も見たけれど、十二分に素っ頓狂なおじさんだった。
素っ頓狂なおじさんなんだけど、明治の日本を代表する海外によく知られた美術家で思想家で評論家だったのよねぇ。素っ頓狂な面もあるんだけど。
紅茶という西洋文化(?)を学んでも東洋精神は忘れるなという教えだったのか、それとも目指すものは西洋と東洋の融合だったのか。あるいは単に知識ひけらかしだったのか。
今となっては知る由もないけれど、茶といえば岡倉天心と言って欲しい、あるいは思い出して欲しい一派がいるんだな、ということだけはしっかり記憶に残った。ここぞという時のコレとして思い出して欲しいという目的のある人が、小金ばら撒いて、人前に立つ講師を養成するのかもね。
しなくてもいい苦労は人を歪ませるというよりも、もともと持っている資質を先鋭化させると言った方がより適切。人の意見を聞かない(聞けない)人は、より他人の意見に耳を貸さなくなり、他罰傾向のある人は、よりその傾向に拍車がかかるという風に。
ストレスが講じると、何らかのハラスメント行為で憂さ晴らしせずにはいられない人はその傾向に歯止めがかからなくなり、決して他罰にもハラスメントにも走らない人は、己を責め続けるのかも。
局所しか見れない人には止められないから、全体が見れる人が止めるしかないんでしょ。
お休みなさーい。