クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ドライフルーツとナッツとごまめ

伝統的なおせち料理では定番のごまめ。自分で作るようになってからは、ごまめにはナッツ(くるみ、カシューナッツ、ピーナッツなど)を入れている。

 

ナッツ入りのごまめを初めて食べたのは、のどかな田園風景がのぞめるおしゃれなカフェでランチの副菜として出会った。へぇごまめにはこんなアレンジがあるんだと珍しく思い、美味しかったので自分でも作るようになった。

 

そしておせちに入れるには斬新すぎるドライフルーツとナッツ入りのごまめも、作ってみるとやっぱり美味しかった。

 

ナッツとドライフルーツの相性はGood。ならば、ナッツとドライフルーツとごまめの相性もGoodで、おしるこを食べた後の塩こぶが美味しく感じるようなもので、甘いけど甘過ぎない小腹しのぎにちょうどいいおやつになった。

 

おやつにごまめを食べていると、カルシウムたっぷりという感じで精神的にいい。

 

そもそも栄養価が高くて美味しいもの、美味しくなるものは使いやすい。おせちやおやつ以外の使い道もあれば使いやすさもさらに増し、普段使いとハレの日との差別化もしやすければ普段から流通させておこうとなって、ハレの日にも登場させやすい。

 

ハレの日のごちそうとして定番のものは、つまりそういう理屈と仕組みで定番として残ってきた。その理屈と仕組みをハレの日とは真逆、非常時のストックを用意する目的に応用すると、日常でも非日常でもとりあえず食べるものには困らないという一定の安心が得られそう。

 

きっとくるであろう非常時に備えて普段使わないものを備えるのではなく、普段から日常使いしているものを備えていれば、日常と非日常がシームレス。

 

食べ物に限れば、大きな災害に見舞われた直後はそもそも食欲などわかない。

 

それでも水分補給はせねばならないし、食欲などなくても食べないと動けなくなる。火は使えなくても普段から食べているおやつがあれば、とりあえずの栄養補給にはなる。ついでに普段から食べているくだもの、りんごや柑橘類などの日持ちのするフルーツがあれば栄養補給の選択肢は拡がる。

 

電気やガスは使えなくても火が使えれば、キャンプやバーベキュー気分でしのぐことができる。

 

非日常は不快なことの連続で、不快に対する耐性が低いとの自覚があれば不快に対する耐性を鍛えるか、不快からいかに早く脱出するか考えるようになる。

 

すぐに脱出が難しければ、一週間~10日はしのげる分だけ非常時に備えるようにする。どう考えても一か月以上はかかると思えばもっと多く。備える側が備えに対する準備を手厚くすればするほど非日常の色合いが濃くなって、非日常を厭う側は非日常からの脱出を急ぐようになる。

 

強権をわかりやすく発動すると、かえって反発が大きくなって物事が進まなくなる民主的な社会では、自発性に委ねるのが最適解。

 

何かしらゲンが悪い。あるいは寝覚めが悪い。そこは別に危なくないしいいところだよという評判しか聞こえてこないのに、感じるのは別のものだったらそこはやっぱりそういうところ。

 

ここに生きた人達は、きっと安らかな死を迎えられなかったんだろう。という場所、過去例えば維新の時にでも内戦状態に陥ったことのある場所は、結局最後は大規模開発でもするしかなく、過去の来歴などすっかり洗われて、過去そのものをしのぶ手掛かりさえ失われてしまうものなのかも。

 

新旧が混在している。古くて立派な家があれば、新しくて立派な家もある。という場所は、逆に言えば大規模開発の必要などなく、各々が各々の家なりに幸せな人生をおくったんだろうという結果から生まれた景色なのかもしれない。

 

ごまめに入れるドライフルーツは何がいいのか。色々考えたあげく、手に入りやすいパウンドケーキやヨーグルトに入れる、ドライフルーツセットに落ち着いた。

 

ドライフルーツに凝れば、その土地でしか手に入らないフルーツが入って郷土色的な色合いが濃くなる。お雑煮が元々は郷土色豊かだったのは、郷土色や各家庭の味を出しやすかったからで、郷土色を出しやすい料理が他にも増えれば郷土色豊かなおせち=ハレの日の食文化が出来上がる。


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郷土色は、残そうとしないと残らない。ローカルなきローカルな地は、その代わりグローバルにより近くなる。そういうものなんだろう。

たくましく女性らしく

現代で生きていくためには全然まったく必要そうでない寺社奉行という存在は、時代小説、つまりエンタメで仕入れたもの。

 

遠山の金さんは町奉行。町方、つまり市井で起こる事件を捜査して裁く人。対して寺社奉行は、寺社(神社仏閣)の管轄するエリアで起こった事件を捜査して裁く人だったと記憶してる。

 

町方と管轄を分けるのは、市井を支配する最高権力者よりも長く続いているものに対しての配慮。あるいは遠慮で、それが江戸で徳川の時代なら、江戸時代よりも長く続いている組織には長く続いた組織なりの法や支配の体系があるから、無遠慮に踏み込まない。と、考えればわかりやすい。

 

場合によっては勝たせてやった、あるいは花を持たせてやった側には増長や驕りがあり、勝たせてもらった方には遠慮が生まれる。

 

そういう力学などないものとして、異なる体系を持つ相手のセンシティブな部分に無遠慮に踏み込むと、返り討ちにされる恐れが十二分にあるから気を付けようね。という処世でもあるのだと思う。

 

今年のひな祭りはまだ肌寒く、雪だってまだ降り止まない北国のことだから、糯米をそのまま炊いた白いおこわにした。おこわだとお寿司よりもほんのり温かで、今年のひな祭りはまだまだ温かいものが恋しくなる寒さだった。

 

白いおこわに刻み梅とサヤインゲンで、ほんのりピンクと黄緑にいろどって、魚食の国らしく白身の魚で作ったでんぶをやっぱりピンク色に染めて、白身魚のマリネ(甘くない柑橘、柚子や橙の果汁とほんのちょっとの薄口しょうゆで〆た)と花型に抜いたピンクのかまぼこを一緒にトッピング。蛤の潮汁を添えて、ひな祭りの食事にした。


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切り身でしか見たことのない”ソイ”という魚は鯛に似て、白身で扱いやすい。

 

でんぶのようなふりかけは大量に作ると大変だけど、一食分プラスアルファ程度なら、刺身のサク半分でじゅうぶん。半分はマリネ。茹でるなり蒸すなりしてからフライパンで炒り、梅酢のようなものでピンクに染める。

 

ラディッシュ、赤カブに紅芯大根。梅酢以外にもピクルスにしておくと自然に赤く発色する野菜があり、梅酢のように使ってる。

 

もしも自分がこれからの時代に女の子を育てるとしたら、まず望むのはたくましさ。

 

たくましさを求めると一時的にユニセックス、男も女もなくフリルやリボンのような女らしさは後回しになるけれど。たくましさを身につけた女性が女性性を失っていくのなら、女性は残らず従来女性が好むものとされてきたものも残らなくなる。

 

フリルにレースにリボン、などなど。女性性あふれたものはやっぱり余裕の産物で、女性が女性性を存分に発揮しているならそこには余裕がある。

 

ものすごく男性らしい人がものすごく女性らしい人を否定するかというと、きっとそうじゃない。ものすごく女性らしい人がものすごく男性らしい人を否定するかというと、そうではないように。

 

”らしさ”を高めて磨いていくと、対極にあるらしさを磨いた人にしかできないことがよくわかるようになる。だから安易には否定しない、ということでもあると思う。

 

男性が男性らしくなくなり、女性が女性らしくなくなって性差がゆらぎ、男らしくもなく女らしくもないものが最も生きやすい場は、デコボコのない世界。

 

都市が都市らしく、ネオンギラギラ。あるいはイルミネーションきらきらでピカピカだったら、自然は自然らしく緑ゆたかでいられることでもあって、どちらもらしくない時、都市でもなければ自然ゆたかでもない状態が生まれるんだと思う。


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男らしさと女らしさ。あるいは都市や人工物が都市らしく人工物らしいと、自然が自然らしい。

 

その差は本来紙一重で、紙一重程度の差だから楽々越境できるけれど、あえて超えないから各々がらしくいられるんだ。というのは、超えてしまってらしくなくなった人や物を見ればよくわかる。ということでもあるのかも。

思い出のポークチャップ

せまい。ツールが足りない。条件が悪いと食事作りは手抜きになりがち。

 

簡単にできるものと既製品を使う時の手間と費用を考えた時、既製品を使う方が合理的なのは最初から既製品への導線が引かれているから。そういう条件下で周囲を見回せば、そういう場所には既製品があふれているはず。

 

環境を変えるのが難しかったら悪条件を克服するしかなく、悪条件でも手を抜きたくないようにすると、どこかにしまい込んだ何かを引っ張り出すことになる。低温調理とかそのエッセンス。

 

蒸すと素材が柔らかく仕上がって、使い慣れない機種のレンジでレンチンするよりも思い通りになりやすい。ということを学習した、”用事”で出掛けた先で作ったのはポークチャップ。

 

豚のかたまり肉を好きな厚さにスライスし、耐熱性のビニール袋に入れてフライパンや鍋で茹でるだけ。チャック式の某ジップロックよりも、口で縛るタイプのビニール袋の方が持ち手が長くて扱いやすい。

 

塩コショウもなし。ただ好みの固さになるまで蒸しただけの豚肉を、油(なくても可)で炒めた玉ねぎ・ピーマン・マッシュルームなどのきのこ類にトマトケチャップ、ウスターソース、しょうゆで煮込んだソース(酢豚から酢を抜いてトマト感を出したもの)にからめて出来上がり。

 

ちょっと濃いかな?と思うポークチャップソースに豚肉の茹で汁を合わせるとマイルドに。炒めた野菜類からでるうまみも調味料だから、基本のポークチャップソースは濃い口になりすぎないように、いろいろ足したいところを我慢する。

 

以前旅先で食べたポークチャップの味とはちょっと違うけど、(きっと各種ソース類の味が違う)それはそれで白いご飯によく合う味になった。

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調理後のビニール袋には冷えると油が白く固まって残り、油分の多い食べ物を調理したあとの調理ツールをきれいにするための労力を考えると、ポイッと捨ててしまえるところもいい。

 

それを言い出すと、水を汚さないためには油分の多いものは控えるのが好ましいとなるから、手間のかかるものはたまでよし。たまにだったらごちそう感もあって、ごちそうだったら手間と釣り合うようになる。

 

食生活をありし日のように後退させるキーワードはヘルシー。お米を炊くのに必要なのは水だけ。昔あるいは伝統的な和食は油は使っても大して使わず、食後の後片付けでも汚れが大して気にならないものだった。

 

日頃の食生活がヘルシーかつローカロリーだったら、たまーに高カロリーかつこってりを食べても気にならない。

 

ハレとケでバランスが取れていた。食生活そのものをひと昔前ふた昔前に戻すことは難しくても、ハレとケでバランスが取れていた。そういう状態に戻す方が簡単かも。

 

オーブンがないと難しい、骨付きラム肉のローストも蒸した状態でいったん保存(冷凍or冷蔵)しておいて、仕上げに軽く焼き色だけを付けると適度に油が抜けて、柔らかく美味しく食べられた。油が落ちて、食材が柔らかくなる。蒸すという作業あるいは工程はステキねーと再認識した。

 

札幌にはまだ雪が残っていた頃、用事で出掛けた先では桜も梅もすでに咲いていた。桜は早咲きの品種だったけど。


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日本は南北に長くて、今でも地域差はやっぱりある。


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だから、ある場所では合わなくても別の場所でなら合う。ということはきっとある。

雪まつり初日は快晴だった

節分の日はイワシだろうと、今年はイワシで押し寿司を作ってみた。


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(一日置くと、酢飯もしっかり固まった。当日は、固まりきらない酢飯が崩れてしまった。。)

ほんとは節分といえば、丸干し。だけど、丸干しだとアイデアが浮かばない。鯖と同じくイワシも青魚。押し寿司といえば鯖寿司なのは(出身地によっては鱒も有り)、やっぱり成型しやすいからなのか。酢飯のかたまりをすっぽりと覆ってくれる大きさがあって、イワシよりも身崩れしにくい。

 

流通しやすいものには、やっぱりそれなりの理由がある。流通など気にしなくてよかったら、好きに作れる。

 

身崩れしやすいものは断面を見せればよく、見栄えにこだわることで小細工へと細分化して、新しいジャンルが誕生したのかも。

 

チョコとプレーン。2種類のスポンジケーキを交互に組み合わせた断面が市松模様のケーキを初めて見た時は驚いた。きれいに作るにはそれなりの練習が必要だけど、それなりで十分以上の手応えがあったらそれでよし。

 

と、そこで止める。その先に進まないのも、果てなど見えない世界では一種の勇気で英断なんだと思った。

 

雪まつり初日は快晴で、雪の白さがまぶしかった。


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雪像のひとつはゴールデンカムイで、杉元とアシリパがお友達をいっぱい連れてきた。そう言われても納得するくらいアニメやゲーム、サブカルキャラが例年になく多いように思った2024年のさっぽろ雪まつり大通会場。


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何かのキャラクターなんだとわかっても、何のキャラクターかまですぐにソレとわかるものはそう多くなく、万人が知ってるキャラクターはやっぱり偉大。藤井君の雪像も、近くで見た時には誰?で、実在の人物の顔は高難度。

 

知名度のあるキャラクターはひと目を惹くけれど、日本らしさあるいは北海道らしさを求めて雪まつりを見に来た人が記念撮影したいと思う雪像は、知名度のあるキャラクターとは限らない。


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ゴールデンカムイ=網走監獄=知床世界遺産で道東経済振興に。初音ミク=雪ミク電車=札幌観光で道央の経済振興に。もはやキャラクターと言えなくもない新庄=Fビレッジで北海道の知名度向上に各々多大なる貢献があると知っている。

 

だからつい写真だって撮りたくなるけれど、何がどの辺に貢献しているのかわからなかったらスルー。ついでにサングラスで新庄とわかったものの、サングラスをしてなかったらやっぱり誰これ?で、”サングラスをかけさせた”という辺りがキャラ映えの成果。


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架空のキャラであってもリアルと結びついていると、強い。姉妹都市とか。

 

雪像のひとつ3代目の札幌駅舎は、プロジェクションマッピングで彩られると見栄えも増して、夜見る方が細部までくっきりはっきり。駅舎が低層なのも、ゴールデンカムイの世界観と合っていた。


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陰影が加わると、真っ白だった雪像にも奥行きが足されて見応えが増すけれど、天候によっては完成時のまま雪像を鑑賞できるとは限らない。


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晴れてる方がいいけれど、気温が高過ぎると雪像あるいは氷像だから解けてくる。雪に降られればせっかくの雪像も台無しだけど、そもそも真冬のイベントで雪が降らない方が珍しい。基本快晴だったものの日中は小雪が舞い、晴れてたから雪像が解け出すのも速く、昼間と夜では同日であってもすでにまったく同じではなかった。

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このネタ、来年はもう苦しいかも。その反面、2023年に何があったかを思い出すにはちょうど良さそう。

 

必ずしも好コンディションで鑑賞できるとは限らない。というお天気まかせなところも、アートに振り切らない雪まつりのいいところ。完成度を高めても、天あるいはお天気は無情。という時もあるから、見ている方は飽きない。


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(これはアートに振り切った方)

たくさんある雪像や氷像のなかでは、今のところいちばんのお気に入り。


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河童が海老をかぶってかっぱえびせんより、万人受けしそう。見に来る人が日本人ばかり、平均年齢高めばっかりだったら、かっぱえびせんでよかったんだろうけど。


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神は細部に宿るで細かいところを見ると、より楽しめる。キャラに頼らずアイデアで魅せる工夫は、雪像が多少崩れても素晴しい。


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控えめな展示↓親善は一日でならず、控えめかつ見えない努力の結果。

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雪まつりとは関係なく、あら素敵と思った雪だるまのビフォーアフター。どれほど完成度が高くとも天は無情で、跡形もなくなってしまうのも雪像という素材のよいところ。


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完成した瞬間がもっともクオリティが高い。雪像は動かないけれど、天候(=環境)由来で時間の経過とともに変化する。単なるオブジェクトだったら変化しない方がいいけれど、単なるオブジェクトではないから変化する。そういうものだと思って、今年も雪像鑑賞を楽しんだ。

 

毎年開催される季節のイベントが、滞りなく行われる。その事実がすでに喜ばしい。

花びら餅と小豆

紅白のお餅(求肥)を重ねた姿を花びらに見立て、はさむ餡は白餡。一番の特徴は甘く煮た牛蒡(ごぼう)。

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(添えたのはミルクティー

お正月、というより新春に食べるお菓子”花びら餅”は、ごぼうというお節料理に欠かせない食材が使われているからよりお正月っぽくて新春らしい。

 

ごぼうは、食べるとごぼうだとわかる程度にはごぼうの風味が残り、それでいてしっかり甘く煮詰めているから柔らかい。白餡と甘く煮たごぼうを使った新春の和菓子として特に疑問も持たずに食べているけれど、出回り始めた時には珍しかったんじゃないだろうか。

 

三月の雛祭りにはひし餅にひなあられでお花見には花見団子、五月の端午の節句には柏餅で、六月には水無月。秋の十五夜には月見団子と季節や季節の行事と合わせて食べたくなるお菓子(和菓子)がいくつか思い浮かぶけれど。

 

行事にちなんだお菓子(和菓子)に共通するのは、特定のお店に限らずいろんなお店で買えること。

 

例えば半世紀。50歳年上の人(多分、記憶明瞭な人を見つけるのがすでに難しい)に、あなたの新春の景色、お正月に食べたものや過ごし方はどうでしたか?と聞き取ると、決定的に違うのはきっと食べるもの。

 

家庭で作ったお節は、一度では食べきれないストックが冷蔵庫に貯まる。何種類もお節を作るのは大変だけど、ごほうびは1月の半分、小正月まではきょう何作ろうと悩まなくて済むこと。冷蔵庫内のストックや買い置いた食材を、ただ使い切っていけばいいだけだから。

 

食べ過ぎ飲み過ぎた、胃にもお財布にも優しい七草粥小正月の小豆粥。本来小正月は鏡開きで、鏡餅でぜんざいを作るだったと思うけど、鏡餅を飾るとは限らず、お正月は和洋取り混ぜて甘いものを食べる機会も増える。だから、甘くないけれど小豆は使う、小豆粥にここ最近は落ち着いている。

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(黒豆は新しく作ったもの。まめまめしくありたい)

お節を自分で作るから冷蔵庫にはストックがあり、作らずに買って済ませるとお正月らしい食材も料理も小正月までもたずにあっという間に消費しつくす。昆布の佃煮は、お節を作る時のだし昆布の再利用。冷凍しておいて、時間ができた時に佃煮にした。

 

そんな風にお正月の景色は徐々に各々が暮らしやすいように変わっていく。変わっていくなかで残っていくのは、納得感のあるもの。お正月という季節感がありつつお正月以外にも使えそうなもの。

 

日常的にごぼうを料理に使っていれば、多少残ったところで無問題。

 

豚汁や寄せ鍋のような汁物に使うか、きんぴらや煮物に使うか、それともサラダに使うかかき揚げ(天ぷら)に使うか何を作ろうかと悩むだけ。

 

たたきごぼう(酢の物)、八幡巻き(肉料理)、煮しめ(煮物)とお節での出番が多いのも日常的な食生活での出番の多さを物語っている。使い回しがきくものは始末に困ることはないけれど、日常食でも出番の少ないものは始末に困る。

 

伝統的なお節の中身が変わっていくのはそのためで、現在ではNGな表現が過去はスルーされていたように、食文化も文化だけに中身が変わっていく。

 

そもそも使い回しがきくものの始末には困らず、多少需要予測が外れても価格や供給量で調整すればいいだけ。困るのはそもそも使い回しがきかない、出番の少ないもの。需要予測が外れて足りなければ忘れられるし、多過ぎれば新たな出番、新しい使い道を増やすことになる。

 

だから始末は、楽をする手段が増えるほどに難しくなって高度になり、高難度に耐えられる側のお仕事になっていく。

 

始末で最も簡単なのは、そもそも始末する必要などなくしてしまうこと。でもそれでは文化は残らない。

 

お正月にはピザにハンバーガー、あるいはカレーにギョーザやチャーハン。日常的にはそういったものをほとんど食べることのない人が”非日常”を楽しむためにお正月休みに楽しむ分にはいいんだけど。

 

非日常性が薄れて日常と地続きになり、単なる長期休暇ならクリスマス休暇にくっつけて、クリスマスにお節を食べる。というのも未来の姿としてはあるのかもしれない。

 

必要に迫られた時に取る手段に文化はない。あるいは文化は後回し。

 

紅白のお餅を花びらに見立て、白餡を包んで甘く煮たごぼうを添えた花びら餅も、最初はあるお店のものだったのかも。お店が消えても季節に食べるものとなれば文化は残る。

 

その季節さえ消えた時の文化の形を想像できた人が、文化とつながりあるいろんなものをいろんなものに託して残した、あるいは残そうとしてるんだと思った。


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一月は、北海道神宮が一年でもっとも賑わう季節。年末まではシロクマの雪像が木に張り付いていた。

お正月はハレの日

辰年にちなんで買ってみた、トロピカルフルーツの一種ドラゴンフルーツ。

 

糖度は8度ちょいだけあってさっぱりした味わい。スイカから水分を抜いてちょっとだけねっとりさせたような食感で、ややサクサク。キウイのような黒い種が散っているけれど、キウイのように気にすることなく食べられた。

 

ドラゴンという名を冠した名付けが、一番の関心かつ感心ポイント。

 

黒豆・栗きんとんにごまめにたたきごぼう紅白なます。ユリ根のイクラ和えにカニしんじょと帆立とほうれん草のしんじょ。豚ハム・ローストビーフに牛肉ロール、海老と山芋のうま煮にしめ鯖マリネ、筑前煮に大根のべっこう煮には焼き生麩をトッピング。カキのオイル煮込みにはギンナンを添えて、パクチーの明太子クリームチーズ和え。サーモンテリーヌに豚ハムとチーズのゼリー寄せ、ブリの漬け焼きに金柑のシロップ煮。それに買ったものを合わせれば、冷蔵庫はいっぱい。

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冷蔵庫よりもおもに胃袋の容量の問題で、今回はこぶ巻きもだて巻きも見送った。

 

例年のこととはいえ、年末におせち料理を作っていると比喩ではなく眩暈がする。眩暈がするほどの過負荷な作業は、好きでやってるから特に気にすることもなく平気でこなせるけれど、好きでもないのにやっていたら単なる苦行。

 

二度三度と回数を重ねるうちに過負荷でもなくなっていくから、何か新しいものを追加する。出来上がりももちろん大事。それ以上に、作るという作業そのものを体感する方が年中行事としては大事で、手抜きを考えるのは別の人のお仕事。

 

何しろ、そもそもやらなくてもいいことだから。

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材料を揃えるのがむずかしくなったかどうか。揃えた材料の質が良くなったか悪くなったか。作りたいと思っても作るための環境は変わっていくから、やっていることは料理や調理でも気持ち的には実験。

 

環境が刻々と変わりゆくなかで、今でも変わらずおせち料理という日本式の食文化が続けられるのかどうか。確かめたいのはそんなところ。

 

生まれも育ちも北海道の人から見れば、きっと違和感のある内容。出身地である関西から見たとしても作るものにはきっと違和感があるはず。お手本やサンプルに違和感あるいは苦手感があるから、自分で作りたくなる。

 

今年は家庭料理っぽさ、普段の食事でも出せそうなものを取り入れてみたので、お煮しめ筑前煮の味付けで濃くしてみた。しょうゆ大目になるから出来上がりは茶色っぽくなってしまうけど、味が濃いものは白いご飯との相性がいい。

 

家庭料理っぽいものをお正月に取り入れたくなるのは、環境由来の変化。環境に変化がなければ非日常性は増したはずで、例えばラム肉で煮込み料理みたいなものも作りたかった。

 

家人に評判がよかったのは、ごまめ。あらそんなものが美味しく感じるようになったんだと思うけれど、ごまめは作り立ての方がより美味しい。美味しく仕上げるのは面倒で、面倒な作業を厭うとあんまり美味しくないものになって別になくてもいいになりがち。

 

普段は口にしない小魚系はきっとカルシウム豊富で、ほんとは普段から食べた方がいいんだよなと思いながらもケーキを作るよりもハードルが高い。

 

そもそも面倒な工程が多く見栄えも大事だから、おせち料理は普段からお菓子を作り慣れていれば作りやすい。それでもケーキやお菓子を作る方が負担にならないというのも一種の教育の成果で、日本には目移りするほど美味しいお菓子がいっぱいなのも納得。

 

半端に余ってしまう食材は使いにくい。だから有効活用や使い回しの回路が開くと、余すことなく使い切れる。


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(師走にはまとまった雪が降り、雪国らしい年末の景色になった。)

だしを取る昆布は旅行先で買ったもの。旅行先でご褒美かつお土産用として買ったものだから、とても普段使いはできないもの。だしを取ったあとも有効活用したいから、次はあれを作ろうこれを作ろうになる。そうやって始末がつくと、たいへん清々しい。

ありし日の

かぼちゃのポタージュを作る時は、いつも皮まで使う。

 

色味は悪くなるけれど、煮物だったら皮ごと食べるから。勤労感謝の日に作るかぼちゃのポタージュは皮無しで。いつもなら使う部分を使わないとごちそうっぽく、雑味がないからいつもより美味しく感じた。

 

かぼちゃ、玉ねぎ、バターにブイヨンキューブ、牛乳と塩こしょう。ポタージュに使う材料はそれだけ。かぼちゃ以外の材料はすべて共通にして、かぼちゃの品種やブランドだけを変えて作れば、ブランドや品種の良し悪しがよくわかる。

 

かぼちゃの出番が最も多くなるシーズンに、一番美味しいかぼちゃを用意するなら良心的。出番が多くなるからと在庫一掃の機会にするなら良心少なめか非良心的。

 

心の中の閻魔帳はそういう機会に着々と積み重ねられ、年単位で積み重ねられた良し悪しの天秤となる。良心的な商売人だったかどうかは、やる前からわかっていることなんだろう。

 

ふた昔かそれよりもう少し前。京都の寺町二条には、”せいほう”というケーキと紅茶の店があった。

 

どのケーキも美味しかったけれど、今でももう一度食べたいと思うのはりんごやチェリーなどフルーツを使ったもの。美味しいチェリーパイが比較的色んなお店に並び出した頃でもあって、その前か後ではチェリーパイが好きな主人公が活躍するアメリカのテレビドラマが人気だった。

 

国内(=制作国)だけでなく、海外でも大人気。その種のエンタメ作品の凄さ、あるいは偉大さは案外そんなところにあって経済波及効果が抜群で、抜群の経済波及効果を使って売り出すものが決まっているとヒットするのも確実となって、ホームランは無理でも出塁は確実。ヒット作の蛇口が細いと、その種の予測も比較的簡単だったのかも。

 

”せいほう”の近くには”トラモント”というイタリアン、というよりパスタのお店があった。そっちは今でもあるはず。料理によってはかなり塩気がきつく、塩気はきついけれど美味しかった。本場のイタリアンはそんなものというよりは、平均的に美味しいイタリアンのお店が増えたら塩気のきつい味は個性となって、記憶に残りやすい味となる。

 

”せいほう”にはある時から軽井沢の先生こと、内田康夫が好きだというチョコレートケーキ(ドライフルーツ入り)が並ぶようになった。本当に内田康夫がその店やケーキが贔屓だったのかどうかはわからないけれど、お気に入りのケーキと一緒に売られていた内田康夫という名前は、ケーキを思い出すたびにセットでついてくる。

 

浅見光彦シリーズが好きだけれど、好きというだけでその内容はビタいち頭の中には入っていない。

 

多分女性人気がより高い、浅見光彦というキャラクターはある種の女性の願望を体現している。良家のおぼっちゃま≒王子様で、近親者は国家権力者。小さなコミュニティでは暴くことも正すこともできない不正や腐敗を正す存在だから、好かれて好まれる。

 

それはつまり、国家権力という強権でもないと正すことができない、不正や腐敗を不快感とともに身近に感じている女性たちの多さにもつながってる。あるいはいたんだろう。

 

見た目も家柄も性格も。いいに越したことはないけれど、見た目がいいだけでも家柄がいいだけでも性格がいいだけでもダメで浅見光彦じゃない。不正や腐敗を正す国家権力へのショートカットという機能が付いてないと、浅見光彦タイプの王子様にはなれない。

 

正すことのできない王子様≒おぼっちゃまは、世知に長けた女性にとってはカモでしかない。

 

その繰り返しが相互不信の歴史で、現実には浅見光彦のようなキャラは滅多に存在しないとわかっている。

 

絶対的な信頼を勝ち得ている人、場合によっては人々は、相互不信の歴史から不信を取り除いた人や人々で、それなり以上のことをやってきたという歴史の積み重ねは、属人。人に属すものだから、歴史を積み重ねないと代わりにはなれないし、ひょっこり代わりが現れるものでもなく、ましてや人でないもの(=組織)では代われない。

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勤労感謝の日のワンプレート。カマンベールのチーズフォンデュにタラモサラダ風ポテサラ、手作りソーセージにかぼちゃのポタージュスープを添えて。ポタージュはいつもよりきれいな黄色に仕上がった。ソーセージは手作りしたものより市販の粗挽きソーセージの方が断然美味しい。断然美味しいけれど、買えばいいものをわざわざ手作りすると、よりホリデーっぽい。