ポテポテと狸小路を散歩していると、いつもより明るく感じたので上を見上げると屋根が開いていた。アーケードの上には青空。
よく晴れて暖かくなったとはいえ汗ばむほどではなく、外歩きが楽しい季節。外歩きが楽しい季節も日光浴も待ちわびていた。そういう顧客が大勢いると、商店街にアーケードがかかって屋根も開閉するようになるのかも。
啓蟄は、暖かくなって虫が動き始めるさまを現した語で、季節が移り変わると動き始めるものは他にもいっぱい。選挙が近付くと喧しくなるものもあれば、ボーナスが近付くと売り込みが激しくなるものもある。
春が遅い山里ではまだ桜が咲いていた。札幌ではもうライラックも藤も満開だけど、郊外では季節の移り変わりはもうちょっとゆっくりで、タンポポや菜の花がまだ咲いている。
外歩きが楽しいシーズンに季節の移り変わりを感じやすいのは花で、桜が咲いた、チューリップが、ライラックがと咲く花に合わせて出歩いていると、気分は江戸時代。
花を見るためというのは、普段なら行かない場所に行くいい口実で、普段なら行かない場所だから欲しいのもいつもなら買わないもの。
いつもならパック入りで下処理済みのものを買うけれど、安かったせいもあってつい買ってみた“わらび”。蕗やホワイトアスパラガスと一緒で下処理はちょっと面倒だけど、ちょっと面倒というハードルを超えるといかにもわらびらしい香りで、人によってはこれが遅い春を告げるものなんだろう。
蕗にホワイトアスパラガスにわらびや山菜。採るために出掛ける人も採れたものを買う人も季節になったら動き出すもので、どちらもとにかく動いている。
採れなくなったら買いに来る人はいなくなり、買いに来る人がいなくなったら採る人がいなくなる。季節のもの、季節商品が季節になっても動かなくなるとオールシーズン化していつでも買えるものに変化して、季節感も薄れていくのかも。
本来季節に合わせて動くものは、季節に合わせて目立つようになる、例えば花のようなものと一緒だとより季節感が出やすくなる。
ライラックもスズランも晩春あるいは初夏のもので、この頃になると新緑がきれいで外歩きがより楽しくなる。とはいっても自然が豊か過ぎる場所ではある程度の群れでもないと、外を出歩くこともままならない。
立派な道が通っていても大急ぎで移動するためのもので、留まる場所がないのならそこはやっぱりそういう場所で、いろいろ準備が必要なんだろう。
久しぶりに通った道から眺めた景色がずいぶん変わっていて、驚いた。2つ目のダムがもうすぐ完成するらしい。
橋が架かっていて、山へと続く並木道(の名残)の先はちょっと小高くて、お社でもあったのかと思う。人が暮らした気配が濃厚。
ダムが完成するまでの経緯や背景をすべて取っ払って、今目の前の景色に感じるのは“今この時にしか撮れない景色”だということだけ。もう少ししたら水に沈む。
今ここだけでしか見られない景色だから、ただ川の流れる山間部ならどこでも見られるような景色とは違ってよりフォトジェニック。フォトジェニックな景色という素材を前に、上から見下ろし下から見上げるとまた違う感想が生まれてくるのなら“ものの見方や感じ方はひとつじゃない“ということで、割と健全なんだと思う。
スズランはまだまだ咲き始めで満開になるのはきっと来週末頃で、例年通りスズランといえばやっぱり6月なんだろう。ライラックはよく見ると一本の木でも色にはグラデーションがあって、ちょっと紫陽花っぽい。