クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

あの夏、いちばん変だった夏

デパートの屋上には観覧車。

 

その景色に郷愁を感じるのは、何歳あるいは何年生まれまでか。デパートへのお出掛けはレジャーのひとつで、お買い物を楽しむエンターテイメント空間でレジャー施設だったから、”小さなお客さま”向けのミニ遊園地まで揃ってた。

 

本物に比べればちっぽけ。とはいえ人口ボーナスの時代に本物にたどり着こうとすると、脱出までひと苦労で渋滞とワンセット。遊具で遊ぼうとしても行列につぐ行列で、渋滞と行列に耐える苦労を思えば外出しやすい街中のアミューズメント施設はお手軽で、十分だった。

 

楽しいことが待っていると分かっていても、そこへ至る道のりは楽しいばかりではなくどっちかっていうと苦行。大いなる苦労を帳消しにするほど素晴らしいかというと、そうでもない程度だと、お手軽な方が好まれて身近。

 

身近だったものが身近ではなくなると、お手軽でもなくなっていつでもそこにあるものからたまにしか遭遇しないものになって、郷愁を感じるようになるのかも。

 

デパートの屋上にあったものがビルの屋上に移ったのなら、そこにデパートの名残りを勝手に見る。郊外にあるはずの大観覧車が、郊外でもない場所で観覧車として回り続けるのなら、そこは作らせた人にとっては今も郊外なのかも。

 

正々堂々と。手枷も足枷もなくフリーハンドで闘う姿こそが喜ばれて尊ばれる。そういう場が、フリーハンドとはとても言えない雰囲気でがんじがらめに規制されていたのなら、場を用意した側がそうあれと望んだからそうなっていた。

 

感動的と言ったとき、想像しやすいのは良い意味で感極まって嬉しい・楽しい、あるいはスゴいといったポジティブな感情を露わにした姿。

 

だけど感情が波立って動いたならそれも感動的で、ナニコレ?や嫌悪、悔しいあるいは悲しいとネガティブな感情を露わにした姿も感動に含めると、ポジティブとネガティブ。双方の感情が噴出して大いに感情が動いて波立った感動的な出来事は、あの夏いちばん変だった夏に確かに起こったこと。

 

ポジティブとネガティブが噴出した大いに感情が動いて感動的だった出来事から、経年変化を経ると何がどのように抜けてズレていくのか。定点観測好きにはもってこいで、追いかけ甲斐のあるテーマだから、追い掛けやすいポジションへの移動もきっと激しいだろうと思う年の瀬。

 

追い掛けたくない方は、とっくに背を向けている。