呼べばやってくるで互いに融通し合えるのは、そもそも互いに持ってる者同士だから。
例えば日々のやり繰りを特定時間で締め切った時に、すぐに返すからちょっとお借りしますが通用するのは、そもそも互いに持ってる者同士だから。
綱渡りの綱が切れそうだから、切れないようにちょっとお借りしますとは全然まったく別のモノ。
綱渡りの綱をちょっと丈夫にする行為も、呼ばれたらお邪魔しますで必要な量だけ分けてあげる行為も融通という点では一緒だけど、融通する側の気持ちは全然まったく別のモノ。
なのに、綱渡りの綱をちょっと丈夫にしようとする行為と、呼ばれたらお邪魔しますで必要な量だけ分けてあげる行為を、すべて同じ融通という行為でひとつにまとめようとしたって、ひとつにはなれない。
本来すぐに返ってくるものだから、融通する側の手間賃は限りなく低く抑えられる。すぐに返ってこないものを融通する側の手間賃は、どうしたって割高になる。
手間賃の多寡には、融通される相手に対する融通する側の態度が如実に表れてくるものなんだけど。
本来なら見えていたものが見えなくなる状態というのは、現在地点を見失わせるのにお役立ち。見えなくなっていたものがある日突然くっきりはっきり見えるようになると、目が覚めるのかそれとも現実逃避に走るのか。
寝ぼけ眼がすっきりしゃっきりするのは、請求書の類。だと思ってまず間違いなし。