クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

奥歯に衣着せる

いまだかつて誰も見たことがなかった新しいメディアで、大衆とともに育つという特異で特殊な経験をすると、普通なら見過ごしてしまうことや気付かないことにも気付いてしまうのかも。

 

奥歯にものの挟まったような言い方、しなくてもいいじゃない。

 

歯に衣着せない。率直なものの見方や言い方がとりえで強みだった人が、具体的な言及は避け、抽象的かつ象徴的でわかったようなわからないような曖昧さを身に纏うようになるのは劣化か成熟か。

 

解像度が高くて平易でわかりやすいのがウリだったはずなのに、焦点がぼやけていって、焦点がぼやけていくから、何言ってんだか何言いたいんだかもわからなくなったように見えるから一見すると、劣化。

 

ホニャララの神様だとか、うんぬんかんぬんの神様だとか。

 

どの分野にも神様と呼ばれるような人が居たりするものだけど、神様と呼ばれるようなある特定分野を代表するような人であっても、晩年になると時に抽象や象徴の世界に走ってわかりにくくなる。

 

あれは、神様であっても晩年になるとキレが衰え、衰えたから抽象や象徴の世界で遊ぶようになったんじゃなくてその逆、解像度が高過ぎるから気付いた何かを、わざと曖昧にする成熟の証なのかもしれないと思ってる。

 

曖昧にするのは、当たり前の人にはついてこれないから。ついてこれないけど、技巧を凝らして見た目を美しくすると、キレイねステキねとひと目にもつきやすい。ついてこれない人にも、イメージだけは伝えられる。

 

バナナを食べ過ぎて、穴から出られなくなった魚って何さとずっと謎だった。バナナを食べ過ぎて穴から出られなくなった魚も、バナナを食べる魚について語ってきかせる人のこともずっと謎だった。

 

海に生まれ育った魚だったら、バナナなんて食べない。

 

海に生まれた魚の餌はバナナじゃないから、つまり自然の摂理に反してる。養殖技術が進んだ今なら何でもありかもしれないけれど、バナナを食べる魚について語ってきかせる人が登場した1940年代~1950年代の技術ではそんなことありえない。

 

自然の摂理に反してると言ったって、色々だけどさ。触れてはいけない、近寄ってもいけない、ましてや食べるなんてもってのほか。バナナを食べる魚に象徴される、自然の摂理に反した存在に気付いたのは、新しいメディアの最前線で大衆とともに育つという特異で特殊な環境にあった人。

 

特異で特殊な環境のなかで育ちながらも、柔らかな知性で大衆を魅了して家族に愛されていた。

 

権威をより強固に塗り固めるために使われるような、かっちんこっちんの知性じゃなくて、生まれたものや愛されたものに寄り添うように、もっと柔らかい。

 

それまで誰も見たことがないほど新しいものは本来、してはいけないややってはいけないからは遠く、もっと自由。自由な空気のなかで、存分に自由を謳歌したから気付いた不自由さや不自然さが、きっとバナナを食べる魚。

 

彼のように特異でも特殊でもない環境にいる、でも自由さではどっこいどっこいな、ただの女の子の目にもバナナを食べる魚が見えた日に彼が生を終えるのは、わかる人にはわかるよう、世代交代を告げるものだったのかも。

 

50年や100年スパンで振り返った時の特異点は、どう扱うのか。未来の先取りと見るか、それとも特異点だから後は続かないと見るか。

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ライラックの花が咲いてるのに気づいた後に、雪降ったんだけどさ。

晦日なのに、街中では雪が積もる気配もなし。本来初夏を告げるはずの大通公園ライラックが、11月に咲いたのは未来の先取りかそれとも特異点か。自然の摂理に反して不自然だったものが自然になる。その先触れだったんだよ、アレは。ということにでもなるのか。

 

撮りためただけでほったらかしの写真の整理をするにも、ちょうどいいお正月休み。1月はスロースターターで、はじまりから相も変わらずのんびりしたい。