クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

エサのことだけ考えてられません

13日の金曜日。ジェイソンが斧持って現れそうと、咄嗟に思うか否かで年齢がバレる。

 

ジェイソンが現れてもおかしくないような場所で、目の前を横切って行ったのは一匹の黒猫だった。

 

一心不乱にお食事中のリスが、見て見て!この角度からみた私、とってもキュート!!!と言わんばかりにカメラ目線だったり、仲よくポッポー♪と鳴いていた二羽の鳩なのに、一羽がおもむろにもう一羽に馬乗りになって鏡餅みたいになってたり。思えば今年も、野生からはほど遠いどーぶつの振舞いを目にしたもんだった。

 

写真撮っておいた方が、説得力も増すんだけど。どこからどう見てもカメラ目線で、野生とは思えないほどどーぶつ離れしたどーぶつの姿をカメラに収めると、何がしかの災いを呼びそうな気がしたからやめといた。

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カメラ目線のキタキツネ、再掲。ちゃんとエサにありつけてるといいんだけど。

動物を被写体にした写真では、時々奇跡のワンショットを目にするんだけど。

 

人間慣れしていないはずの野生動物が、コミカルで人間っぽいあるいは作り込まれたキャラっぽい仕草をカメラマンに見せる時。カメラマンの方が人間離れして動物の気配に近くなっているのか、それとも被写体となる動物の方が人間に近くなっているものか。さて、どっちなんでしょ。

 

ところでモグラのような小動物は、小さな体格に似合わず一日に結構な量の食料を必要とするんだとか。必要とする食料の量が多いと、食料となるエサのことを考えてる時間もそれだけ多くなりそう。

 

人間が人間離れして動物に近くなり、野生のはずの動物が「こいつ、仲間じゃん」と思ってトットコ近寄ってくるのは、もしかすると人間が食べ物、餌のことしか考えられないような状態になった時なのかも。

 

社会生活を営む人間だったら、一日中エサ、ご飯のことを考えて過ごすなんてことはあり得ない。今日のすることリストやその他をサクサク消化しながら、あらゆることを考えるはず。

 

エサとなる食料のことだけを考えて、睡眠時間以外のほぼ大半の時間を過ごすなんて姿は、ちょっと人間離れしてる。

 

エサ、それもどうやってエサにありつくかばかりを考えて一日の大半を過ごすと動物の気配により近くなり、野生のはずの動物も油断して、うっかり素の姿を晒す。とか考えた。

 

弱肉強食とか言うけどさ。彼我の力に圧倒的な差があり過ぎると、すみやかにエサを食い尽くしたあとの強者を待っているのは、終わりのない飢餓。

 

エサをすっかり食い尽くしたあとなのに、食っていかねばならん。

 

と、食物連鎖の頂点に立ったにもかかわらず、どうやってお腹を満たそうかと一日中エサのことばかり考えていると、例え最強であっても羨ましいからはほど遠い。捕食対象でエサにされるかもしれないけれど、エサにされることなんてなーんも気にせず好き勝手にのーびのびな方が、どっちかっていうよりもあらまほしい。

 

エサを求めて移動を続けたとしても、いつかは食い尽くす。どうやってエサにありつくかという煩悩から逃れようと思ったら、結局は定住しての計画生産に落ち着くんだよな。