冬は白。秋は黄色に赤で、夏は緑。そして春には色とりどりの花が咲く。
くっきりはっきり。季節の移り変わりがより顕著に感じられるのは、冬には白一色が必ず体感できる、雪が降る地域の方。雪が降って凍り付くから、被写体にだって選ばれる。
絵になる景色を被写体にすれば、もれなく人間が写り込むほど人口が増え続けると、キレイな景色に最も邪魔なのはどこでも人間という状況が、きっとくる。そうなるとカメラに求められるのは、マイナス5歳肌で実物よりもキレイに見せる技術よりも、邪魔なものは素早く消すことができる機能になるかもね。
ナイスショットに邪魔な人間は、スワイプして素早く消去。ナイスショットに邪魔な建物も、やっぱりスワイプして素早く消去。
という作法が条件反射で身に着いた、“より美しく“のために障害となるものはことごとく取り除き、編集を厭わない態度そのまんまで現実と向き合われると、出来上がってくるのはきっと現実を反映しない姿。
あるはずのものがないと実物を見た時に感じるのは違和感で、違和感を感知できるくらいならまだ編集の痕跡もしっかり残っていて、残っているから編集済みだと気付くこともできる。
現実は反映せず、あるはずのものももうすでに失われてしまってとっくにない。という現実を隠すためには、ナイスショットのためにはどう考えても邪魔なんだけど、あるはずのものはもうないとバレてしまうよりマシだからと、ナイスショットには邪魔なものを登場させ続けることになる。
現実を反映しない世界を作り込み過ぎると、作り込み過ぎた世界に現実も寄っていくことになるかも。
コト消費が行きつくところまで行きついた果ては単なる刺激合戦で、刺激を求めすぎて過激に走って過激に慣れすぎると、もう一面の雪景色を見ただけでは満足もできなくなる。過激に慣れすぎると“ほどほど”がわからなくなり、なんでも過剰になりがち。
ほどほどと、上手にお付き合いできる人たちから目を背けられるのが過剰になり過ぎたもの。
足し算ができないと、引き算もできないという考えもあるんだけどさ。足していくばっかり、あるいは引っこ抜いていくばっかりなのは、ほどほどと上手にお付き合いできない何よりの証拠。
例えば常夏、あるいは常春。季節が一つしかないと、メリットもデメリットも深掘りされる。一つしかないものは、大体ほじくり返していじくり回される。周囲の扱いが過剰になりがちで、だから季節が四つもあれば、メリットやデメリットをあげつらう声も、一つしかない時に比べればきっと控えめ。
ほじくり返していじくり回されるような扱いも、一つしかない時に比べたら負担は1/4になるはずで、一人や一つで背負うと大体何でも重くなる。軽いからと、一人や一つで背負ってたはずのものも大きく重たくなると、背負いきれなくなって放り出す。