クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

どちらを選ぶかに個性が出る

どう考えても買った方が早くて便利で、ついでにリーズナブルでコスパよし。

 

その種のものをわざわざ時間を掛けて、敢えてコスパを無視してでも自分で作ってみるのは、確認作業の一環。商売としてメシの種になって量産にも成功していたら、とても個人では叶わないし太刀打ちできない。

 

太刀打ちできないから、今現在は時間的にも気持ち的にも余裕のある人が気まぐれにホームメイドに挑戦するけれど、そのうち自作する人よりも買って済ます人が増えれば、作り方が失われるかもしれない。

 

愛好者が多くて品質には一家言ある人が多いと、製法も失われることなく一定の割合で自作する人も出てくるけれど、愛好者が少なくなると先細り。

 

作り方が失われて、何から出来ているのか材料さえもわからなくなると、ブラックボックス。本当は含まれていてはいけないはずのものが混じっていてもわからなくなり、どうせ何が入ってるんだかわかりゃしないんだからと、入れてはいけないものも混ぜるようになる。

 

モラルや道徳に期待したって無理で、“どうせわかりゃしない”という構造がある限り、絶対に起き得る。

 

だから、“どうせわかりゃしない”と変な混ぜ物だらけになったものを、変な混ぜ物があるとわかりつつ摂取し続けるのは何かとよろしくないので、変な混ぜ物だらけになったらすべて自作に切り替えるつもりで、時々試してみる。

 

かつてはみんな、自分で作るのが普通だったんだけど。というものの多くが、近頃は買って済ますようになっちゃってる。

 

作ってる側の人が、食べないようになったら要注意。そうなったら単なる作業でしかなく、作業になったら効率を考えて手抜きするようになるのが自然だから。自然に逆らうのは不自然で、不自然だから余分なエネルギーだって必要となる。

 

余計なことや余計なプロセスは、自然にまかせたら単なる手抜きになってしまう、必要なプロセスが形骸化しないための仕組み。手抜きで痛い目にあったことがなければ、余計なことや余計なプロセスの必要性を感じることもないから素早く失われ、あっという間に形骸化する。

 

余計なことや余計なプロセス。何度言っても形骸化するだけだったら、次に待っているのは絶対に形骸化しない仕組み。ついでに、絶対に形骸化しない新しい仕組みを試したくてしょうがない勢が、今ほどたくさん控えて蠢いている時もなし。

 

ほんの出来心でやった、効率を考えた手抜きが途方もなく高くついて、もう二度と効率なんて考えなくてもいいようになる可能性が、今ほどあふれてる時もなし。

 

粉飾か大赤字かで、大赤字で赤っ恥の方を選べるならちゃんと失敗に学んでると思うの。