クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

らしさがなくなったら、どこも一緒

ひとパックくらいでよかった、紅玉。安かったのもあって、後先考えずにひと箱お買い上げ。どれも掌サイズで小ぶりだから、一人で食べ切るにも調理するにもちょうどいいサイズ。

 

数が増えるとそれまでの序列が崩れるから、ひと昔前ならクッキングアップル、特に製菓用として不動の地位を保っていた紅玉も、最近は影うすげ。店頭で派手に宣伝してもらえるのは、やっぱりニューカマー。

 

そのまま食べる赤いりんご以外にも、馴染みのない横文字系かつ青りんご系のクッキングアップルが、ずいぶん増えた。

 

とはいえ紅玉は、調理した時の発色の美しさでやっぱり抜きん出てる。いつものりんごのコンポートのレシピに、剥いた皮をそのまま入れただけできれいに色づいてウッキウキ。りんごのコンポートがきれいに色づいただけで浮き浮きするとか、われながらなんて低燃費。

 

子供の扱いが上手な人は、何といっても察しがいい。察しがいいから、まだ未熟で要求を上手く伝えられない、あるいは何を求めているのかさえわからないお子様の要望にも、先回りできる。

 

子供の扱いが特別に上手いからと言って、いつも子供の世話をさせられている人が、その状況に満足しているかどうかはまた別の話。察しがいいという特質は、サービス社会では重宝がられる美点で応用範囲も広いから。

 

遠くに行くならみんなと一緒にといった時には、みんなと一緒でないと遠くへ行けないし行かない人も、おのずと想定している。一人でフラフラどこへでも行き、トライ&エラーで何とかするし何とかなってきた。そういう人は、ほっといたって勝手に遠くへ行くものだから、みんなを待つまでもない。

 

みんなと一緒でないと遠くへ行けないし行かないから、そういう人は例えば海外のような遠くを旅する時には、きっとツアーで行くに違いない。だから逆に、ツアー客を受け入れてないような場所だと足を踏み入れづらくなる。ツアーで何度も旅するうちに、ツアー客だと足元見られてることがわかるようになってきてもさ。

 

生活の場と観光地の距離が近くなり過ぎると、ぼったくるという発想が生まれがちで、コスパのいい消費に慣れた層からは、そっぽ向かれがち。それならと生活の場と観光地の距離を離したら、本当に地域のためになるのかというとそれも未知数。産業が空洞化したから、観光地をめざした。そういう場所にとっては死活問題になるから。

 

故郷を離れ、都会に出て働くようになった娘や息子を訪ねて遠方からわざわざやって来た親をもてなしたいと思うのは、普遍的な感情でユニバーサル。普遍的でユニバーサルな感情を扱うのが上手な場所に、普遍的でユニバーサルなサービスを求める人が勝手に吸い寄せられていく。

 

その一方で、外国とはいえ親は親で何度も遊びに来てるから、特別なおもてなしなんて特に必要もなくて、ただ気楽に一緒に過ごせればいいだけというありようもまた普遍的。

 

気楽に過ごせる場所と、丁重なおもてなしが可能ないかにも「らしい」場所と。そのどちらも選べて揃っているのが、都市で都会。競合に事欠かないから。次々に競合が現れるのが都市で都会で、競合が現れなくなった時点で成長が止まって、都市でも都会でもなくなっていく。

 

察しがよくてよく気が付く人ほど、競合の多い場所では重宝がられ、察しのいい人にとって住みやすい場所になっていく。

 

「らしさ」を失ったらどこに行っても一緒で、どこに行っても一緒なら問題はコストだけになりがちで、コストだけになったらただ愚直にコスパを追求してきた相手にかないっこない。