何かやどこかのランドマークになれそうな、アーティスティックなモニュメントには時々、わかったような、わからないような能書きがついている。
ほとばしる生命のきらめきを閉じ込めた、あるいは連綿と続く悠久の時の流れを表したとか何とか、そんな感じ。そう言われても、はぁそうですか。。と、首ひねるしかないようなもので、実用性からは遠い。
実用性から遠くても許されるのは、アートでアーティスティックだからで、その種のはぁそうですか。。と、首ひねるしかないような能書きを、例えばECサイトにそのまま援用すると、非実用というありようが、よりはっきりする。
カワイイやシンプル、あるいは和風や洋風といったタグと一緒に、“悠久の時の流れ”やあるいは“生命のきらめき”といったタグが並んでいても、面白がってクリックはされるかもしれないけど、多分買い上げには至らない。
手仕事のぬくもりくらいだったら、そんなタグにも一定の需要はあるかも。
でもアーティスティックな能書き、タグは、解釈の幅が広くなってしまい、実物を見た人とタグをつけた人との間で、ディスコミュニケーションが生じやすい。だから、万人にとってわかりやすいタグの方が推奨される。スタイリッシュや、新製品みたいに。
世の中にもECサイトにもモノは溢れているはずなのに、探しても一度ではたどり着けないようなモノは、万人にとってわかりやすいタグ付けを、最初から避けてるものかも。避けているのは、商流の上流にいる側なのか、それとも下流にいる側なのかは知らんけどさ。
モノは溢れてるはずなのに、買って!!!買って!!!といつでもいっちゃん前に出てくるものの顔触れが一緒だと、探すことそのものが馬鹿らしくなる。
実用品であってもありふれたものでは満足できないのは、こだわりが強いからで、こだわりが強い人から先に、探す行為そのものから離脱するようになると、残るのは受動的な人向けのもの。あるもの、すぐに手に入るもので十分満足できて、人と同じであればあるほど安心する人向けのものがすぐ目に留まるようになって、それしか残らないようになっていく。
一定数の売りが集中したら自動的に取引停止という、株なんかでよく見るアレ。
何があっても絶対に売りたいものがあり、そのために邪魔になるものはすべて封殺し、そもそも最初からなかった、存在さえしなかったように偽りたかったら、“絶対に何かを売りたい勢”が結託してアルゴリズムをハックすれば何とかなりそうと思う程度には、ECサイトも検索結果も信用してないしできない。
ECやICTが今のように成長するはるか以前から、その種の行為に一生懸命勢は一定数いて、彼らにとって使い勝手のいい道具を与えちゃったら、そりゃ張り切って道具を使い倒すに決まってる。ECやICTが今のように成長するはるか以前から存在してるんだから、ネット内をいくらきれいにしても無駄で、彼らはリアルで繋がっているから。
ひとつ使い潰したら、次のより使い勝手のいい道具へと次々に使い潰しつつ、やってることはずーっと一緒で変わらない。定点観測してる側はそんなこともすっかり承知で、著しくアンバランスな時にだけ介入するのかもね。かもかも。