クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

用法用量

手品の種明かしができるのは、マジックを披露する側にいたから。

 

ただ、マジックを見てるだけ。すごいマジックだったよと振れて回るだけで種明かしはできず知らなかったら、いくら名のある手品師の名前を継いだところで、みんながビックリするような手品もマジックも見せられない。

 

用法用量を順守する相手にしか、肝心なことは教えず伝えないようにできているしなっている。

 

定点観測するメリットのひとつは、同じ場所で見掛ける同じ名前であっても、すっかり変わってしまったことがよくわかること。新陳代謝が進んだという言い方もできるけど、新陳代謝を急いだ結果、なーんにも残らなかったら、何のために新陳代謝を急いだのかさえわからない。まさに、そこがキモで味噌。

 

直近にあった選挙の争点が一体何だったのか。もはや覚えてもいないんだけど、“札幌は味噌、旭川は醤油、函館は塩”というキャッチコピーだけはよく覚えてる。それぞれ、味噌や醤油、塩に例えられた人が誰だったのかも忘れちゃってるし、そもそも例えてもいなかったのかも知れないけどさ。

 

何時間もかけて、ただ淡々と名前を読み上げる。ただ名前を読み上げる、読み上げられる名前を聞くためだけに、何時間もそこに立つ。その行為が意味するのは、暴力的な行為なんて真っ平だってこと。

 

暴力的な行為も暴力に似た行為も大嫌いをカタチにすると、ただ淡々とになる。

 

何年もかけて同じ形で淡々と表現されると、怒りも悲しみも底無しなんだってことが逆によくわかる。

 

底無しの怒りと悲しみを与えた側は、到底その近くには居られないから移動する。ここもダメ、あそこもダメと移動し続け、そんなことがあったかどうかも知ってる人がいないような場所まで行って、また同じことを繰り返す。

 

何かの主義やイデオロギーに殉じたあるいはかぶれていると、誰かや何かに底無しの怒りと悲しみを与えてもヘーキになりがち。誰かや何かに底無しの怒りと悲しみを与えてもヘーキなのに、監視がきつくて個性も属性も発揮しようがないような時に重宝するのが、身代わり。

 

あれ、身代わりにちょうどいいと目を付けたら、目を付けた対象を徹底的に貶めて囲い込む手練手管が洗練されていて手慣れていたら、あぁ何度も同じことを繰り返してきた常習犯なんだね、と思うもの。

 

同じことが繰り返されて許されてきたのなら、そこはそういう場所なんだと色つきで見られてもしょうがないから、ある日突然色が消える。みんながビックリするような手品やマジックごと、色つきで見られたらせっかくの手品もマジックも台無し。