クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

セット売り

あっち向いてホイ。

 

あるいは、ならえ右あるいは左でそのつど律儀に右向いたり左向いたりする人は、単に風向きを読んでるだけ。右にならえと言われた時に、右にあるいは左にならえと言われても、そもそもどういうアクションでしたっけ???と、まごつくようなら風向きを読むことにも風に吹かれるままにも慣れてない。

 

慣れる必要もない環境だったら、そんな必要もそもそもなし。空気を読み過ぎて、極端なふるまいに走る原因の200%はリテラシーがあり過ぎるからだと思ってる。

 

寿命が長くなったらどうしたって母国語には習熟し、母国語がわかり過ぎるほどわかり、あうんの呼吸が通じ過ぎ、忖度もし過ぎるから極端から極端へと走る。

 

世の中に流通する情報に対して100%わかる必要は全然なくて、50%程度、半分理解できてるくらいでちょうどいい。大事なことなんて、その半分もあるかどうかなんだから。

 

テレビ、あるいは動画的なものにそれなりの時間接していても、そもそも顔と名前が一致する人は極小で、顔と名前が一致するのは超がつく有名人だけ。興味関心分野が極端に偏っていると、顔を売るお仕事の人にもし出会ったとしても、きれいあるいはカッコいい人ねと思うだけで、きっと名前は出てこない。

 

きれいあるいはカッコいいから顔を売るお仕事についたのに、きれいあるいはカッコいい人がいるとしか思われなかったら、台無し。顔を売るお仕事の人は、名前とセットで覚えてもらえないと、顔を売る意味がない。

 

顔を売るお仕事の人に対して興味関心が薄いと、顔を売るお仕事の人に対してまず思うのはコストかかりそうね。。であって、高コストを厭う人にとっては現人神、信仰の対象にもならない。

 

現人神にもなれそうな信仰の対象は、興味関心分野が細分化するほどに細切れで、ある人にとっての神様は、より切実な欲求と結びつく。

 

例えばお金持ちになりたい願望。お金持ちは言い過ぎでも、経営上や家計上で何らかの助言を切実に求めてる人に、時には資金援助込みで実効的なアドバイスがあったらそりゃ感謝されるし信仰の対象にもなる。

 

よく当たる占いみたいなもので、そうなったらよく当たるのよとつい誰かに話したくもなる。

 

お金で解決できる問題ほど簡単で、お金で解決のつかない問題ほど業が深くてどうしようもない。つまり、世の中のほとんどの問題はお金でカタが付く。だから、次から次へとお金で問題を解決していったらそりゃ感謝されるし信仰の対象にもなって、よりお金が集まるようになっている。

 

それもこれも、お金でカタのつかない問題に直面するまでのこと。お金では解決できない問題の前では、ご利益も半減あるいは雲散霧消しちゃうから、お金でカタがつくように根本から仕組みが作り変えられる。お金でカタがつかない問題なんて、あってはならないことだから。

 

右にあるいは左にならえと言われても、そもそもどういうアクションでしたっけ???と、まごつくくせにイデオロギーをおもちゃにするような相手には、そのしぐさは左しぐさという所作を、右寄りの人が好む場所で披露させ、とことんトンチンカンにするのはアクティブラーニングの一環さ。