クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

スリルがするり。

好き、嫌い。大好き。やっぱり大嫌い。恋愛あるいはイロコイのジェットコースターに乗って味わうスリルよりも、今日はリッチマン3日後には大貧民という、資産が溶けてなくなるスリルの方が、ドッキドキ。

 

ただスリルを味わいたいだけなら、大富豪と大貧民の間を行き来するジェットコースターに乗る方が、はるかに刺激的で破滅的。破滅的で刺激的だから、そんなものに溺れるのは退屈してる証拠。破産が秒読みになったら、退屈なんて言ってられないから一瞬で目が覚める。

 

あの人、愛に殉じたはずじゃなかったっけ???

 

という顔と名前がカネカネカネと言い出しても、損得勘定が出来ない人に集まるお金なんてたかが知れていて、期待薄。期待できないから、お金を集めるつもりだったら別の顔と名前を使う。

 

お金を集める必要があるので、顔と名前を貸して下さいという依頼にも快く応じてくれそうなのは、お金でカタがつく人の方。商品化に抵抗のない人が、商品になれる。商品じゃないものを商品であるかのように誤認させている場合は、顔も名前も使わせてもらえないのに、勝手に使ってるだけ。

 

勝手に使うのは腹いせでもあって、顔や名前を勝手に使われたくなかったらホニャララと、たいていは押しつけがましく何かがついてくる。

 

しつこく追い掛け回す側と、しつこく追い掛け回されるのがイヤで逃げた先に待ち受けている側は、たいてい一緒で同じ穴の狢。同類だから、イヤがる相手を追い掛け回してまでさせたいことも結局一緒。

 

追い掛け回してまで他人にさせたいことは、自分ではできないことや無理なことに決まってる。

 

美味しいと感じる味覚や、楽しいやきれいと感じる感性なんてとっくに失って、もう何にも感じないのに、うれしい・美味しい・楽しいフリをするのは拷問の一種。拷問のように、無理にうれしい・美味しい・楽しいフリをさせられるなら、ほんとに楽しそうで美味しそうでうれしそうな人に代わってもらえば楽になる。

 

ただうれしい・美味しい・楽しいフリをするだけなら、大して演技力もいらない。ただ動員をかけたいだけだから頭数さえ揃えばいいんだけど、無感動で無口な頭数だけ揃っても意味はない。

 

お金で釣るのがいちばん簡単なんだけど、お金で釣ってでてきたうれしい・美味しい・楽しいなんて、参考にならないからやっぱり大した意味はない。

 

自然に任せるのが、いちばん簡単で安上がり。だから自然に勝手に盛り上がってくれるテーマに変わるまで、不自然は続くよどこまでも。