クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

なぜとどうして

脳みそを素手でこねくり回されるような悪夢を経てもなお、悪夢の前とちっとも変わらず嬉しい!楽しい!美味しい!と感情も感覚も失くさないのは意思の賜物。残っててよかった、不味いものは不味いとちゃんと吐き出す理性。

 

悪夢のような経験のあとで、何を食べても何を見ても何も感じず五感を失ったままならその人はカラッポのままで、単なる入れ物になるまであともうちょっと。意思を失い誰かの言いなりに動く生き人形は、とっても便利なオモチャで真新しい何かをインストールするにはもってこい。

 

もってこいだから、そんな危険なオモチャはそもそも作れないようになっている。

 

千や万の画像を見せても、人間の脳みそではそのすべてを記録して差異まで区別するのは至難の業。人工知能では可能らしいけど。千や万、あるいはもっと。大量の餌を食べた人工知能は、やがて自分でもオリジナルを創り出せるようになるとか。

 

誰も見たことがない。空前絶後なものは無理でも、どこかで似たようなものは見たことあるかも。という程度のオリジナルを求めている人には、それくらいでじゅうぶん。

 

低クオリティーでも、とにかく発注先が要求する一定量さえ常に確保できて量産に応じられれば、それはそれで立派な取引条件になるんだとか。クオリティーの高いものは往々にして手間暇がかかっているから、手間暇かけずに納期優先で納品優先だと、クオリティーなんてこだわってられない。

 

資金ショートが先かそれともかという火の車を回していればなおさら、クオリティーは二の次で、火の車を回していると時間が経つのもきっと早い。

 

どういう状況や環境を好むか、あるいは適性を発揮できるかにはやっぱりその人の個性が如実に現れる。火の車の回し方だったら、お手のもの。という人を手間暇かけてクオリティーを追求するような場に混ぜると、きっと混乱のもととなる。

 

クオリティーに対する考え方も、クオリティーそのものに対する理解もそもそも異なっている状態で、天と地ほども隔たっているクオリティーのすり合わせから始めよと言われたら、まずは途方に暮れる。

 

途方に暮れるだけでなく、他に受け皿のある人から逃げていく。

 

千や万の画像を見せれば、どこかで見たようなものは作り出せても、なぜそれが作られたのかまでは学習できない。

 

なぜ、どうしてそれが作られ続けるのか。理由は知られたくないけど、作らなければならない側としては、なぜもどうしても詮索しない相手の方が、やりやすいに決まってる。