クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

息抜き

とあるテーマに興味を持った時。テキストとして選ぶのは、難しいものがいいのかそれとも簡潔かつ読みやすいものの方がいいのか。

 

息抜きとして選ぶんだったら、簡潔かつ読みやすいものに限る。何しろ息抜きなんだから。息抜きではなかったら、より難しいものから始めるに限る。簡潔かつ読みやすいものばかり読んでいても、難しいものを読めるようになるとは限らないから。

 

結局難しいものを読めるようにならないかぎり、どこまでいっても息抜きの域を出ることはなし。息抜きの域を出ないから面白おかしいに偏ってきて、面白おかしいに偏るから知識が偏り、知るべきことより知らなくてもいい知識に脳内のメモリーも食われてしまう。

 

教科書に採用されてもいいような難しいものを最初に読んでおくと、同じテーマでも息抜きとして読める軽いものを読んだ時、これは覚えなくてもいい知識と内容の仕分けも容易になる。

 

大きな流れから見たら枝葉末節とも言える、偏った知識は面白おかしく記述されるから印象にも残りやすいけれど、知識量で殴り合う必要がなければこれは枝葉末節と読んだそばから忘れるようにするのが吉。覚えておくべことが、もっと他にある場合は特に。

 

簡潔かつ読みやすい読み物は、量をこなしても難しい読み物を読むためのトレーニングとしては弱い。だけど、簡潔かつ読みやすい読み物を書く方なら、トレーニングとして最適。

 

簡潔かつ読みやすい読み物を大量に書くうちに、より難しい読み物を理解する力がつくのはきっと、人もAIも同じ。

 

教科書に採用されるような難しめの読み物を、読んだり理解するまとまった時間を与えられるのが大学のような場所。大学を出た後に待っているのが、難しめの読み物を読むことも理解することもない仕事で学生時代とその後に断絶があるんだったら、学生時代に学ぶものも別のものの方が適してる。

 

クオリティーペーパーがなぜクオリティーペーパーかというと、読みやすいに舵を切らず、難しいものを難しいまま提供しているから。その読者は、難しいものを難しいまま読める環境を経て、断絶することなく今でも難しいものを難しいまま理解すればいい環境に身を置いているから、読みやすいものでなくてもいい。

 

息抜きとなってもいいやと気を緩めた瞬間から、他にも無数にある息抜き群と同じ競争にさらされ飽きたら放り出される。飽きたら放り出されを繰り返すうちに、簡単には放り出されない場所を見つけたら、そう簡単にその場所は手放さないわな。

 

難しいものを難しいまま提供してもよく、面白おかしいを考えなくてもいい場所は、ある意味ではすごく楽だから。楽なんかさせてやるかよと、楽な場所を潰しにかかるのが、より激しい競争に晒されてる界隈の人たちで、君らが面白おかしいをやめた方がもっと早く楽になれて、より多くの人が楽になれるんじゃない?