クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

仮説

最近読んで面白かったのは、江戸時代の統計資料をベースに往時の江戸の商家の姿を再現したもの。

 

統計資料をもとにしたところが面白さのポイント。平面図が立体図に変化すると、見慣れたものでも新鮮に映るのと一緒。一見退屈な数字の羅列であっても、見る目のある人が切り取れば、面白い見世物に仕立てることも可能なんだな、という発見があった。

 

同時に、データの取り扱いに慣れた人であれば恣意的に結果を動かすことも可能なんだろうという、愉快でないことも再認識したけどさ。

 

平面を立体化する過程で、こういう種類のデータがあれば、望む結果により容易に近づけるのに。という視点から欲しいデータを探しに行くくだりには、求める結果を補強するデータこそを、より重宝する心理が垣間見えた。

 

欲しいデータを探しに行く過程で、不都合なデータを見つけたらどうするの???黙殺するのか、それとも最初に立てた仮定を捨てるのか。

 

80%あるいはもっと。

 

もう少しで最初に立てた仮定を証明できそうだという最終段階で、すべての仮定をひっくり返す「不都合な」データを見つけたらどうするのか。

 

単なる遊びで平面図を立体化してたんだったら、厳密さやデータが語る真実よりも自説を優先すればいいだけ。そもそも遊びなんだから。それが遊びではなく、厳密さや公正さも求められる公的なものだったら、都合のいいデータを優先させる姿勢には問題ありで、問題ありだから捏造と糾弾される可能性もある。

 

80%あるいはもっとという最終段階、終わりが見えた時点で、やっぱり今までの仮定は間違ってた可能性が高いから、最初からやり直しな。と、仕切り直しが容易なのは個人プレーの方。そして、かかわった人が多いだけでなく、かかわってくる組織が複数かつ横断的な何かで、最初から仕切り直しが許されるのは、間違いが絶対に許されないケースの方。

 

そりゃないわ。という非難をかわす時に、これは個人の見解ですというただし書きがあると便利。個人が個人にできる範囲、それも趣味の範疇で好き勝手にデータをいじくって平面を立体化してるだけなら、何度仮説をやり直そうとも、やり直さずに都合のいいデータだけを取捨選択するのも勝手。プライベートで遊びだったら。

 

立場上、容易に手に入ったデータをもとに、組織のためというより組織で抜きん出るために都合のいい仮説を立てて個人的に利活用した場合も、結果は個人に帰るんでしょ、きっと。

 

そうじゃないと、そりゃないわの大合唱もかわせない。