クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

TPO

にんじんが嫌いな人にもにんじんを食べてもらうには、どうすればいいのか。

 

細かく刻んでそれとわからないようにするか、それともポタージュスープやムースあるいはキャロットケーキにして、これなら美味しく食べられるでしょ?という別の形にして食べてもらうか。

 

ポタージュスープやムースあるいはキャロットケーキ。まったく別の形になったにんじんなら食べられる人がその後にんじん好きになって、生のにんじんスティックをボリボリ食べるかというと、きっとそんなことはない。

 

そもそも嫌いなんだから、無理なく食べられる形でしかにんじんは食べない確率の方がずっと高い。だから、嫌いと自己主張をし始めるずっと前から、好き嫌いなく食べられるよう食育に励んでおくと、わざわざ食べてもらうために多大な努力を払う必要も極小で済む。

 

アレルギーは別にして。特に好き嫌いなく満遍なくあらゆる食べ物が食べられる状態は、得手不得手は別にして、満遍なくあらゆるジャンルの教科や教養を学ぶことにも似てる。

 

満遍なくあらゆる食べ物を食べ、バランスの摂れた食生活を送っている人は、太り過ぎも痩せ過ぎもなく、おおむね健康である確率もより高くなる。満遍なくあらゆるジャンルを学んだ人は、専門に偏り過ぎることなくバランスのとれた教養人である確率もより高くなる。

 

守備範囲は広いけれど個々の知識は浅くなりがち。そう見られがちだから、ざっくり総合とつくより専門という冠がついている方が、より賢しげ。賢しげだから、専門とつくとありがたいような気持ちにもなるけれど、専門家しか知らないような知名度の低い事柄を、全体を眺めた時に一体どこに置くべきか。

 

判断するには総合的に考える能力が必要で、総合的に考えた結果が著しくバランスを欠くようなら、総合的に考えたはずの人のバランス感覚を疑うもの。総合的に判断したと言いつつも実は偏っていた、偏向してたよね?と疑ってかかるもの。

 

正論は正論のまま差し出すことに、やっぱり意味も意義もある。

 

こなたには生のままのにんじんスティックこそをボリボリ貪りたい気分の人がいて。かなたには、生のにんじんスティック切らしてるんですよーとポタージュやムースあるいはケーキになったにんじんばかりを食べさせたい人が居たとして。

 

加工品しか手に入らないからと生鮮食品を諦めるようになると、何しろ加工品の方が貯蔵には向いてるから、生鮮食品の入庫はますます遠くなる。

 

正論も、正論のままでは耳を傾けてくれる人も少ないからと、手練手管を尽くして面白おかしくしてみると、正論こそを必要としてる人からはますます嫌われ、そもそも正論が嫌いあるいは都合の悪い人にとっては、これ幸いと見えないところに仕舞い込まれる。

 

そもそも食べる習慣のない人に、食べやすく加工したスープにムースにケーキばかりを差し出し続け、たまーに生のにんじんを生のまま食べろと出したら面食らう。面食らった人は、こんなの食べられるわけないと、簡単にポイッとつまみ出す。

 

正論が、いともたやすくポイッと本来居るべき場所から締め出され、正論を正論のまま受け取ることもない人が増え、正論こそ肩身が狭くなった場所で目立つようになるのは異論。

 

異論ばかりが目立つ場所では面白いこと言った奴が一等賞で、面白いこと言って一等賞になった人を正論の場に引き出すと、場違いも甚だしくって赤っ恥かけること請け合い。

 

その逆に、赤っ恥かかせるためだけに、面白いこと言った奴が一等賞で異論が幅をきかせる場所に、正論をよりどころにする人は出るもんじゃない。