クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

1月4日

今日は仕事始めとはいえ、金曜日。

 

今日は休暇を取って、土日は休みだから実質的な仕事始めは7日から。環境が許せば、そういう人は多いのかも。仕事始めの気配も薄い街は、今日も静か。静まりかえってる。

 

当初言われていた目標数値から、いきなり1.5倍に伸びるのは見積もりが甘かったせい。初期投資費用を回収するには、当初予定の1.5倍の数値が必要になったからがんばってねと言われたら、暴れてもいい。

 

無気力、無感動で無関心。あるいは無反応が長寿の秘訣。

 

だから長寿社会の別名は、無気力・無感動・無関心に無反応社会と言い換えてもいいかも。かもかも。喜びに怒り、哀しみに楽しみといった感情の振れ幅が大きいと、擦り切れるのも早くなる。

 

感情の振れ幅が大き過ぎる人生を過ごし、擦り切れて魂は抜け殻状態になったあとも、肉体だけは生かされ続けるのが現代。そんな状態は生きてるとは言えないからノーサンキューと、どこまでも自分の意思を優先させる人は、無気力に無感動、無関心に無反応とは距離を置ける。

 

何もしなければ、永らえてしまう。永らえたくなかったら、何かする。

 

生き甲斐を持つのは、退屈な長寿社会に備えるという面もあるけれど、一方で生き甲斐のなくなった生をどうするのかと自問するきっかけにもなる。ガウディのように、100年経っても200年経っても完成するかどうかも危うい、一生の掛け甲斐のある何かをすでに見つけている人ならともかく。そんな人は、稀。

 

一生の掛け甲斐のある何かを特に持たないその他大勢の人は、自称ガウディによる一生を掛けたプロジェクト(自称)の労働力として駆り出されがちで、その傾向は、無気力、無感動、無関心で無反応なひとほど強くなる。

 

特に親しくもなければ関りも薄い他人のために、特に興味もなければ関心も薄い目的のために生かされる危険性が高まるから、無気力、無感動、無関心に無反応は悪手。

 

悪手の先には、無気力・無感動・無関心に無反応を食い物にしながら、生き永らえようとする誰かが揉み手をしながら待っている。

 

前門に、無気力・無感動・無関心に無反応を餌とする奴ら。後門には、放火する消防士に自ら事件を起こす警察官、そしてニュースとなる事件を起こすメディア関係者といったマッチポンプ勢が待っていれば、さてどの道を選ぶかと言えば、決まってる。

 

自分のためになる、自分の道。

 

自分のためにはまったくならない道は、無理無駄無用で無視するにかぎる。見知らぬ誰かを、ただ永らえさせるためだけに引かれた道なんて、知らんがな。