クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

最中の皮

最中といえば、わりとありふれた和菓子のひとつ。餡子が主役で、皮は脇役に違いないけれど、近頃の最中の皮は口の中に張り付かない。

 

それが進化のせいなのか、それとも上等の最中はそもそもそういうものだったのか。最中そのものに関心が薄いうちに、最中のバリエーションも驚くほどに増えていた。ん?と思ったら、とりあえず画像検索するタイプ。すると、アラかわいいと思う進化した最中カラフル系が、山盛りでてくる。

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餡子から解放された最中の皮は、洋菓子、例えばフロランタンと合体したり、あるいはクラッカーがわりにカナッペの土台として使われたり、その使われ方も自由自在。

 

口の中に張り付く最中の皮は、積極的には使いたくないけれど、張り付かないとなると話は別。

 

最中の皮だけでも入手可能で、好きなアイスやあるいは生クリームと組み合わせることも可能。クリームやアイスを載せるなら、ついでにジャムやフルーツソース、あるいは生のフルーツそのものを載せても美味しそうと妄想も広がる。

 

そして気付く。おや?タルトの皮、なくてもいいんじゃないと。

 

タルト生地は、小麦粉とバターからできている。最中の皮は、もち米あるいは白玉粉からできている。自給率が高そうなのは、どう考えてももち米。輸入品に価格負けしそうにないのも、もち米。

 

もしも今よりずっと円安になって、例えば1ドル300円台の時代がやってきて、高価な輸入品には手が届かなくなっても、代替可能な国内自給率が高い商品作物があればみじめさを感じるのは極小で済む。あるいは、特定の輸入品が少しづつ入手しづらくなっていることにも気付かないで済む。

 

目の前にある商品の数は変わってなくて、相変わらずモノが溢れてるように見えても、その商品の原材料まで遡れば、現在でもこっそり入手しづらくなってるものはありそう。

 

それが単に国際競争で競り負けてるだけなら、合理的な説明もつくからいいんだけどさ。

 

お金、あるいは貨幣は、何かと交換することができて始めて意味を持つ。

 

お金はあるのに売ってもらえず何とも交換できなかったら、どれほどお金を持っていても無意味。しかもお金は腐らないだけに、保管コストの方が高くついたらもっと無意味。

 

お金さえ持っていればとりあえず何でも手に入る、誰でも購入可能というのは思えばとても公平で、その真逆の状態が今でもあることも知っている。一見さんお断りとかね。

 

売ってくれとやってきた人を見て、態度を変える。

 

一見さんお断りの看板を掲げてるわけでもない、万人が出入りできるお店でそれやったら、おかしいでしょ。おかしいけれど、そういうことをやる店や店員がいて、やられたからまたやり返すを繰り返したとしても、結局は弱い方にしわ寄せがいくだけ。

 

やられたからやり返す。万人が出入り可能なお店で静かなる冷戦が繰り広げられていたら、迷惑するのは、他のお客さん。

 

Amazon Goのように、無人店舗が現実味を帯びるのはそんな時。

 

売ってくれとやってきた人を見て、態度を変える。その日の気分や機嫌でも、態度を変える。そんな態度が染みついた人は、監視の目が届かないところでも、きっと同じことを繰り返す。万人が出入り可能なお店で繰り返されると、ブランド毀損もいいところで、むしろブランド毀損を助長するために送りこまれたのか???と深読みさえしてしまう。

 

人、店員をなくして無人にすればそんな心配とも無縁になるから諸事安心で、人そのものがリスクなら、リスク要因として人そのものを取り除くことはとても自然な流れ。

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その時に、他の業務にシフトできたらいいけどさ。結局は弱い方にしわ寄せがいくというのは、そういうこと。弱い者いじめが好きな人、弱い人にしか強く出れない人なら、きっと弱い方にしわ寄せがいく方を選ぶ。

 

ようやく雪国らしくなってきて、降り始めたばかりのパウダースノーの上を歩くのは、気分がいい。